前回に続いて、柿木畠から香林坊交差点の方に歩いた。ここに藩政期に「香林坊橋」が架かっていた。今は車が激しく通り、橋があった面影は何もない。
昭和30年代ごろまではここに橋が架かっていた。橋があったことは薄ぼんやり覚えている。
「昭和30年代の金沢」より
藩政期の頃は、北国下街道の枯木橋とともにここは北国上街道の交通の要衝で重要な橋であった。下図は土屋又三郎の屏風「農業絵図」で、橋の右側は片町の通りで、左側は「西外惣構堀」に満々と水が流れ、「香林坊橋」と金沢城が見える。そして片町側に木戸が描かれている。ここでは許可された人しか入れなかったようだ。
「109」の建物の裏側に「西外惣構堀、鞍月用水」が流れている。香林坊交差点側の正面より低い位置にあるので、この辺りの「109」の店は地下1階となる。ここにスーパーマーケットの「マルエー」が入っていた。郊外に大きな駐車場を持ったスーパーマーケットがたくさんあるが、まちなかにあるのは珍しく始めて見たが、駐車場がないから小さなマーケットのようであるが、この辺の人にとっては貴重な便利な店なのであろう。
少し歩くと、用水の流れる音が聞こえることから「せせらぎ通り」と呼ばれる飲食店などが建ち並ぶ商店街がある。「せせらぎ縁結びまつり」などイベントもある。
この商店街に、郷土料理の冶部煮などが味わえる創業明治30年という老舗の「魚半」がある。以前は香林坊交差点の今の「大和アトリオ」がある場所に、香林坊のシンボル的な正面が丸い建物であった「魚半ビル」の中にあった。
北国新聞会館に上がるところに藩政期の頃からあった「右衛門(えもん)橋」がある。この橋の上の方に加賀藩家臣「富田右衛門尉直治」の屋敷があったからこの名が付いたという。橋の向こう側は結構急坂であり、土居であったことが分かる。
この先に、今は石垣の上は駐車場になっているが、この辺りを「高岡町上藪ノ内」という旧町名であった。このことから雑木や竹薮があったことから名が付いたという。もっと下のほうに「高岡町中藪ノ内」もある。そしてここに、この付近の説明書きをした看板があった。
次に、この用水沿いに「貴船神社(明神)」がある。
ここは、藩政期の加賀八家のひとつの村井家の当主が浮気しているので、奥方が櫛、手鏡などを祠に納めて浮気相手との縁が切れるようにとお参りしたのが始まりという。(村井家は否定しているが)
今は二つの祠があり、縁結び、縁切りにご利益があるという。縁結びは川下(高岡町側)から神社に入ってお参りする。縁切りは川上(香林坊側)から神社に入ってお参りするという。
縁結びは、人に見られないようにして、祠の裏に回りそっとお参りする。縁切りは、人に見られないようにして、正面から橋を渡りお参りする。夜にお参りしなければ御利益がないという。
縁結びは、裏から回ってお参りするとあるが、裏は急坂でどうやって神社に入るのか私はまだ理解できていない。誰か教えてください。
この辺りは、つい20年ぐらい前までは用水が暗渠となっており、車優先の道路になっていて、店の前には駐車できるようになっていた。
前市長の「山出保」さんが、金沢の町は用水の町であることを強調し、昔の景観を守るために用水を開渠にすることを進め、地域住民と話し合い1軒1軒に風情のある橋を架けた。そして、歩道は用水の上をせり出したところに設け、そぞろ歩きをしやすいようにした。この町並みを作り上げたのは「山出保」さんのおかげであろう。
「中央小学校」の前には、藩政期からある「四ツ谷橋」がある。ここにも検番があり4人おり、またこの付近に4軒の町屋があったらしい。
延宝の「金沢町絵図」より
そして「中央小学校」(村井家跡)を過ぎたところで「鞍月用水」は左に折れる。「西外惣構堀」は通りをまっすぐいき、「玉川公園」(長家跡)の前を通っている。