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2020年8月22日土曜日

高岡市巡り(1)勝興寺①

 今回は、金沢市と縁が深い富山県の高岡市へ。ここは何度か来ているが、一緒に行った仲間と話し、前田家11代藩主が幼少の頃にいた「勝興寺」と高峰譲吉が米国で交流の場として使用した「松楓殿」の再現を中心に見ることにした。

まず「勝興寺」に行った。ここは、1998(平成10)年から続く平成の大修理を経て、今年修理完了だという。

「勝興寺」前に着くと、正面に「総門」が見えた。ここの建設は1840(天保11)年といわれていたが、1864(文久2)年と判明したという。高さは8.7mで、本柱と控え柱を結ぶ小さい屋根がある「高麗門」になっており、屋根は瓦葺きで、先端に「梅鉢紋」が付いている。また両側にめずらしく鯱が付いているという城郭のような門である。

「総門」をくぐるり、立派な欄干のついた石橋を渡ると、きらびやかな「唐門」(重要文化財)がある。この建物は、元は京都の興正寺で1769(明和6)年に造られたもので、1893(明治26)年に敷石ごと移されたという。当時の交通事情から鑑みて、何隻かに分けて北前船で運ばれたといわれている。

「雲竜山」勝興寺の扁額

「唐門」の隣に城郭を思わせる望楼形の「鼓堂」が見える。昔は中に太鼓があり、僧侶に時を知らせるために使われていたという。

「唐門」をくぐると正面に「本殿」の建物がある。ここで、「勝興寺」の歴史について紹介する。本願寺8世蓮如上人が、1471(文明3)年に越中の布教の拠点として、加賀との国境近くの土山坊に開いたのが起源である。戦国期には同宗派の僧侶・門徒に大きな影響力をもちながら、越中一向一揆の拠点として戦国武将と関わってきた。古国府城のあった現在の地に1584(天正12)年に移転後、越中に進出してきた豊臣秀吉から寺内の安全と保護を約束され、その後越中国の支配者となった前田家とも密接な関わりを持ちながら、広大な伽藍と寺内町を形成した。越中における浄土真宗の触頭として、近代に至るまで繁栄している。現在、約30,000平方メートルの広大な境内には、本堂をはじめとして12棟の建造物が重要文化財に指定されている。

本堂は勝興寺住職より還俗して、加賀藩主11代を継いだ前田治脩の支援を受け、西本願寺の阿弥陀堂を模して1795(寛政7)年に建立された。


境内に「天から降ってきた石」が置かれていたが、「隕石」だろうか?先日、千葉県習志野市のマンションに落ちたのは小さなかけらだったが、あちこちで空の閃光を見たという人がいた。この大きさの隕石が落ちたのであれば、相当大きな衝撃があったのではと思う。門信徒が言い伝えきたという七不思議のひとつ

実のならない銀杏の木(七不思議のひとつ)
「経蔵」は、多くの経典が中に入っている所である。

勝興寺の「七不思議」のひとつの「水の枯れない池」

2020年8月26日水曜日

高岡市巡り(2)勝興寺②

 高岡市巡り(1)勝興寺①の続きで、その後、本堂の中に入った。ここの内陣廻りの欄間は金箔を施されたきらびやかなものである。

欄間上の極彩色の蟇股の 鞨鼓(かっこ 雅楽の唐楽に用いる両面太鼓)を打つ天女












受付で探してくれと言われた本堂の四隅を支える「天の邪鬼」が彫刻されているが、実際は見つからなかった。下の写真は書籍からのもの(勝興寺の七不思議のひとつ)












外陣に置かれていた駕籠は、1761(宝暦11)年に6代前田吉徳の十男時次郎(治脩)が、勝興寺に住職として入寺の際に使用したという大名駕籠(女乗り物)と伝えられている。同種のものが石川県立美術館に所蔵されいるが、加賀藩御細工所で造られたものといわれている。駕籠の本体、屋根などの外側には、黒漆地に蒔絵の梅鉢紋や唐草模様で飾られている。天井の格子にも宝珠や珊瑚などが描かれている。



















また、反対側には重要文化財の「紙本金地着色洛中洛外図」屏風が置かれていた。さまざまな洛中洛外図のなかでも、これは創建当初の二条城の姿や京都の神社仏閣や伏見城などが描かれ、時代が特定できるの貴重なものだという。





























地震に強いというお寺などの古建築に使われている屋根などを支える梁に肘木と斗と呼ばれる組物のサンプルが置かれ、それぞれの名称などが描かれていた。



















本堂から大広間・書院などへ行く渡り廊下




















畳がぎっしりひかれた大広間の襖の文様、引手、釘隠しがすばらしい。



















本坊(寺の居住部分の総称)の各部屋では工夫が凝らされた意匠が見られ特に住職の居間であった「奥書院」は非公開で見れなかったが、壁と襖全面が金箔貼りだという。




















多くの僧侶たちの料理を作る「台所」には釜などが置かれている。



















四角い木枠に囲まれた井戸



















台所に入る式台
























受付の人に聞いた「龍に見える柱」だが、よく見るとそのようにも見える。












2023年4月28日金曜日

勝興寺 瑞龍寺見学ツアー(3)瑞龍寺①

 勝興寺 瑞龍寺見学ツアー(2)金屋町の続きで、その後、国宝の建物がある「瑞龍寺」に行った。ここには、私は十数年前に家族や親せきの人たちと来ているが、その時はすごい寺院だなあと思って見ていただけで、しっかり覚えていない。

ここは、曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩2代藩主前田利長公の菩提を弔うため3代藩主利常公によって建てられた。

利長公は高岡に築城し、この地で亡くなったが、加賀百万石を譲られた義弟利常は、利常公は深くその恩を感じ、時の名匠山上善右衛門をして七堂伽藍を完備し開山された。

造営は正保年間から、利長公の五十回忌の1663(寛文3)年までの約20年間の歳月を要した。当時は、寺域3万6千坪、周囲に濠をめぐらし、まさに城郭の姿を思わせるものがあったという。平成9年に、山門、仏殿、法堂が国宝に指定され、総門、禅堂などが重要文化財に指定され、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されているという。
総門は正面三間の薬医門形式で正保年間の建立である。

































伽藍は鎌倉時代に広く我が国にもたされた中国の寺院建築を模して建立されたもので、総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四週を回廊で結ぶなど厳粛且つ整然たる伽藍構造である。
名匠山上善右衛門は、利長公のだいより前田家の信任厚く、禅宗建築を良くし、近世工匠のなかでも一流の域に達した名工である。

山門は国宝で、1645(正保2)年に建立され万治年間に場所を変えて建て直す。1746(延享3)年火災で焼失、現在の建物は1820(文政3)年に竣工した。当時としては珍しい和算にり設計されている。
左右に金剛力士像を安置し、楼上には釈迦如来、十六羅漢を祀る。
































山門を抜けて伽藍を見るとその光景はなんともすごい。中央が仏殿で、後方に法堂が控えるという中世中国の禅寺を思わせる。
















回廊の周囲は300mにも及ぶという。回廊の内部は、上下に漆喰があり、中央に障子が張りめぐらされている。


















密教や禅宗の寺院で東司(お手洗い)に祀られている「鳥す沙摩明像王」である。全高1.17mで、左足を高く持ち上げ、不浄な振る舞いをした亥年子神を戒めている姿だと伝えられている。かって「鳥す沙摩明王像」は、世継ぎができるように祈願するためのものだったことから子宝に恵まれなかった利長の因果が感じされる。こちらの像は、法堂にある古い「鳥す沙摩明像王」を新しく造られたものであろうか(?)

























像の右下に亥の子供の像がいる。


















「禅堂」は、座禅をする建物であるが、座禅だけでなく、食事、睡眠もとれる空間である。しかし一人一人のスペースは非常に狭い。延享3年に焼失し、幕末に1/3に縮小されたが、今回の修理で元の広さに戻った。
































南側回廊の裏手には、利長公を始め、前田利家、織田信長や同室正覚院、織田信忠の石廟が並んでいる。














2023年5月1日月曜日

勝興寺 瑞龍寺見学ツアー(4)瑞龍寺②

 勝興寺 瑞龍寺見学ツアー(3)瑞龍寺①の続きで、さらに寺内を見学する。

正面奥にある「法堂」は。境内で一番大きい建物で、総欅造となっている。明暦年間(1655~1657)の竣工で、方丈建築に書院建築を加味したもので、六室よりなっている。







「パンフレット」より










中央の階段を上って外陣の大きな広間に入った。


















奥の内陣には、二代藩主前田利長の位牌が安置されている。戒名は「隋龍院殿聖山英賢大居士」で、天井は格天井で狩野安信の四季の百花草が描かれており、正面の内陣の欄間には高岡の地名の由来となった鳳凰がが刻まれている。



















密教や禅宗の寺院で東司(お手洗い)に祀られている「鳥す沙摩明像王」である。全高1.17mで、左足を高く持ち上げ、不浄な振る舞いをした亥年子神を戒めている姿だと伝えられている。かって「鳥す沙摩明王像」は、世継ぎができるように祈願するためのものだったことから子宝に恵まれなかった利長の因果が感じされる。この種の仏像では日本最古で最大と言われる謎の多い像である。瑞龍寺では約250年前に東司が消失したが、以来本堂に仮安置されている。
























回廊の障子窓からは「仏殿」の建物が見える。


















伽藍の中心にある国宝の「仏殿」は、金沢城と同じ鉛瓦で、用いられた鉛の量は47トンになるという。



















中には複雑な軒組となっているが、積雪による重みを考えた結果でもある木材はすべて欅の良木で能登半島や五箇山から伐り出されたものだという。須弥壇には中央に御本尊として中国明代の釈迦牟尼仏、右に文殊菩薩、左に普賢菩薩の三尊が祀られている。











「パンフレット」より



































回廊の上に小さな屋根が付ている所は、鐘楼である。


















この木管は、藩政期に使われた「飲み水」用の配管材と接手部分だと言っていた。


















「大茶堂」は、創建当初に造られたもので、その存在は全国でもわずかという。その構造は外壁や軒下を土蔵とおなじ大壁とし、内部を土天井とした大変珍しい防火建造物である。


















「大庫裏」の正面には、「韋駄天尊像」が祀られている。
























回廊に架かっている平たい金属は、これを叩いて僧侶のための合図を知らせるものだという。
























「法堂」の葺き替え以前の大きな鬼瓦で、中央に「梅鉢紋」が付いている。