2024年4月6日土曜日

金沢城跡 明治~昭和

 金沢城は、藩政期の約260年は前田家が14代まで支配していたが、明治になって版籍奉還後は、1871(明治4)年には兵部省の管轄となり、さらに陸軍省と変わり、不要な城の建物は壊されていった。明治政府は全国に6か所の鎮台を置き、石川県は名古屋鎮台の営所が置かれることとなった。明治8年には、金沢城三の丸や新丸に歩兵第七連隊が置かれ、徴兵制に基づいて兵が集められた。こうした中で明治14年に旧城内二の丸より失火し、二の丸御殿や五十間長屋はほぼ焼失してしまう。

焼失前の明治初期の橋爪門続櫓





「20世紀の照像」より











明治初期の鼠多門と後方に焼失前の二の丸殿舎が見える。




「20世紀の照像」より








歩兵第七連隊と九十間長屋















そうした中で、1898(明治31)年に北陸の軍事拠点として第九師団が置かれた。日露戦争を想定した軍事拡張よるものである。そして火災にあった二の丸に「第九師団司令部庁舎」が建てられた。現在はこの建物は、本多の森に移り「国立工芸館」として使われている。




























「切手門」の向こうには「第六旅団司令部」が建てられた。建物は現在もこの位置に残っている。


















1932(昭和7)年に城内や出羽町練兵場などで、「産業と観光の大博覧会」が開催されたが、その「三十三間長屋」の会場の様子

















金沢城の陸軍が支配していた時代の城内配置図で、三の丸や新丸広場は歩兵第七連隊兵舎があった。江戸時代に造られた「玉泉院丸庭園」は、現在復元されているが、この場所は「露天馬場」になっていた。





































戦後1947(昭和22)年、GHQの石川軍政体が接収した金沢城跡(旧陸軍第九師団本部と第七連隊駐屯地)の跡地利用の話が浮上し、石川軍政体には軍都から文化都市の転換の構想が持ち上がり、紆余曲折したが昭和24年には、文部省から設置許可が下り、「国立学校設置法」の交付により、新制の「金沢大学」の発足し金沢城内は校舎に一変した。
当初の頃は、「法学部」や「教育学部」の校舎の建物は、歩兵第七連隊兵舎などの兵舎を利用した。

















三十間長屋とその前にある建物は、1950(昭和25)年に白山市明達寺住職で仏教家の「暁烏 敏」(あけがらす はや)が金沢大学に個人の蔵書5万部を寄贈したものが保管されていた。

















「暁烏 敏」は、東京本郷の清沢満之の宗門革新運動の参加し、当時の宗門の禁書であった「歎異抄」を世に広めるなど宗教の近代化に努め、戦前の宗教界・思想界に大きな足跡を残した。また、ヨーロッパ、中国、アメリカなど世界中を旅する旅行家でもあった。その旅の途中で、書物や陶磁器などの収集家でもあった。金沢大学に移管された蔵書は「暁烏文庫」と呼ばれ、新制金沢大学の教育と研究にとって、その後の多くの成果を育む母体となったという。現在は、角間の図書館に保管されている。
























1955(昭和30)年ころの金沢城跡の金沢大学構内の全景
二の丸にはまだ「第九師団司令部庁舎」の建物が残っている。三の丸から本丸へあがる途中にある「弾薬庫跡」石垣などを含めた大きな建物であった遺構が残っている。現在の駐車場付近は「職員官舎」の建物が見える。


















新丸の歩兵第七連隊の兵舎を利用した一般教養部前で野球遊びのクラスメートを見る女子学生のほほえましい風景(昭和27年)















今の「河北門」付近にあった、ここも陸軍の建物を利用した「文化部部室」
















城内に金沢大学キャンパスがあったころの石川門付近を走る市内電車




昭和37年頃以降は、城内の建物は鉄筋コンクリート造に随時変わっていった。
城内にあるキャンパスでは、その頃世界で二つしかなく、学生たちは「登城」する気分でキャンパスに入った。(現在はドイツのハイデルベルク大学だけである)
写真は昭和53年ごろの城内の金沢大学キャンパス












「まるごと金沢城」より