2024年4月2日火曜日

金沢大学中央図書館 資料室(2)

 金沢大学中央図書館 資料室(1)の続きで、さらに金沢大学の前身の旧制学校について紹介する。医学系の学校は、1862(文久2)年に加賀藩は金沢彦三の地に黒川良安、太田美能里、津田淳三らの医師が「種痘所」を作ったのが始まりで、さらに3年後の1867(慶応3)年に西洋式臨床治療と医学教育を行う「卯辰山養生所」と発展した。















そして黒川良安は、医学校設立に着手し1870(明治4)年には、大手町の加賀藩家老「津田玄播邸跡」に「医学館」を設立した。この建物はその後、現在の兼六園の梅林近くに移築され「兼六園管理事務所」として今でも残っている。

















この「金沢医学館」は、その後、小立野に移り「金沢医科大学」さらに「金沢大学医学部」として発展している。
























1886(明治19)年の高等中学令により、全国に5校設置が決まった高等中学校のうち、第四高等中学校に金沢に決まり仙石町に設置されたのは翌年の1887年である。いわゆるナンバースクールとして、第4区(新潟、富山、石川、福井)を代表するもので、四高の卒業生の多くは、帝国大学を経て政治・経済・学術・文化の様々な分野で活躍し、北陸地域の最高教育機関として輝く存在であった。









明治後期の四高の建物群




















四高の授業風景で、この教室の机や椅子、黒板などが現在の「四高記念文化交流館」内に再現されている。


















学生服の上に黒いマントを羽織り、二本の白線の帽子をかぶっていた当時の学生


















講堂「至誠堂」内の様子


















柔術、武術などの練習場であった「無声堂」の建物は、「物理化学教室」とともに、現在は愛知県犬山市にある「明治村」にそのまま移築されている。


















寮での自治活動が盛んにおこなわれており、四高の校風として「超然」といって「社会や世俗に惑わされることなく、自分の主義主張を貫いて生きる精神」がモットーであった。


















四高の文化祭で市中を賑やかに練歩く行列も市民は大目に見て許していた。横の電車も止まっている。


















付近の柿木畠にあった喫茶店「芝生」は四高生でいっぱいだった。


やがて日本は戦争状態に入り、四高生も軍事演習を行った。後方に見えるのは金沢城の本丸跡か?


















金沢大学資料館には、金沢城跡から江戸時代の城内の建物に使用されていた「梅鉢紋」が付いた「瓦」や「土師器」、その他に中近世の陶磁器や石器など城内キャンパス時代に発掘された多くの貴重な考古資料が展示されている。































中でも法、文学部教授で日本史学舎の井上鋭夫氏は、金沢城を最初に調査した人物として特質すべき存在である。その発掘調査の際に作成された図面や記録類や出土した遺物を中心とする「井上鋭夫発掘資料」としてまとめている。これらか金沢城のみならず石川県、ひいては日本にとってかけがえのない歴史・文化遺産である。井上氏は福井の一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査も実施しており、これをまとめや資料もここの資料館に保管されている。