大聖寺巡り(1)蘇梁館の続きで、その後「旧大聖寺城跡」に行った。
大聖寺城は、標高63m程度の低山ながら急峻な斜面であり、通称「錦城山」(藩政期には「古城山」といわれていた)に築城された。
この城は古代より水陸交通の要衝であり、また越前と加賀の国境に近く軍事上の拠点であったため、南北朝時代から戦国時代まで度々合戦の舞台となったが、藩政期には廃城となり人々も立入禁止された「お止め山」となった。明治時代以降も大きく改変されず、土づくり城から石垣の城への変遷する近世城郭の成立期の遺構を良好にとどめているという。
「パンフレット」より
戦国末期には加賀一向一揆の拠点となり、越前朝倉氏との攻防が繰り広げられたが、織田信長が一揆勢を掃討した後は織田方の支配拠点となった。続いて天下人の秀吉が丹羽長重に与え、与力であった溝口英勝が城主となった。現在残る縄張りと大聖寺城下の原形はこの頃に形成されたという。
「パンフレット」より
その後、英勝が転封され、代わって小早川秀秋の家臣山口玄蕃が入城した。(1598年)しかし関ヶ原合戦の前哨戦として秀吉方に与した山口玄蕃は、徳川方の前田利長に攻められ落城した。以後前田方の重要な抑えとして修復され、城代が置かれた。(1600年)そして1615年一国一城令によって廃城となった。大聖寺藩創設に際しても一般人の入山は禁止されたという。
下の駐車場から錦城山を見る。ここから旧大聖寺城跡の入口となる。
旧大聖寺城跡の大手道を通って上がる。
階段はかなり急で、息が上がる。
本丸と鐘が丸の分岐点で、右に曲がると本丸に入れる。
さらに上がると「馬出曲輪跡」に出る。ここは、本丸から続く尾根の東端に位置するほぼ方形の曲輪で、南側の一段下がった部分に枡形虎口が造営され、防衛上もっとも強固な構造となっている。通路はこの曲輪を通り直角に進行を変えて本丸下の曲輪に通じている。このような曲輪と城道の屈曲した出入り口を馬出と呼び、近世城郭の最も効果的な入口の形態だという。
本丸へ行く途中には所々階段があり、周りには土塁がある。