高岡市巡り(4)国泰寺の後、 高峰譲吉の前に「二上山」に行った。ここは、「二上山万葉ライン」というドライブコースになっていてる。二上山は古代より神の山として崇められており、万葉歌人大伴家持のも愛されて歌にもなっている。
反対側には、穏やかな富山湾の海が見える。
展望台付近に「平和の鐘」という巨大な鐘があった。長さ3.3m、重量11t250kg、口径1.8mというもので、「松井建設」が設計し、高岡銅器で造られたものだ。「鐘をついてもよい」とあったので、周りに人がいなかったので、1回だけ思い切り強くたたいてきた。音の余韻がすごく長く聞こえた。
続いて「高岡城跡」に行った。ここは、20年くらい前に桜見物に来たことがある。
加賀藩前田家2代藩主の利長公は、1585(天正13)年から13年間、二上山上にあった守山城の城主であった。1599(慶長4)年に利家公の後を継ぎ藩主となり、1605(慶長10)年には隠居して富山城に移った。しかし、1609(慶長14)年の大火により城が焼失したために、当時関野と呼ばれた地に新しく高岡城を作った。
明治になり、民間に払い下げられ、城跡が消滅しそうになったが、服部嘉十郎らが公園指定の嘆願書を提出し、保存運動を展開した。こうした市民の力によって高岡古城公園として、今に受け継がれている。
前田利長公の銅像(尾山神社の利家の銅像は背中に母衣をつけているが、ここの利長は鯰兜を被っている)帰りに高岡でお土産を買うのを忘れたので、「小矢部サービスエリア」に寄ることにした。ここに金沢に三つある芭蕉の「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」の碑があることを一緒に行った仲間から聞いたので見に行った。この句は松尾芭蕉が「奥の細道」では、金沢での記事の最後に記されていたので、金沢から小松へ行く途中のものだと思われていた。しかし北陸路の越中滑川辺りで詠んだらしい。そして、金沢の下新町にあった立花北枝宅と言われる「源意庵」で披露されたという。
この小矢部サービスエリアから見える「倶利伽羅峠」付近でも「卯の花山、くりからが谷」をこえて金沢に向かい加賀平野で、残暑の厳しいなかにも秋風の気配を感じ、長旅の旅愁の思いを詠んだといわれていることが描かれていた。
ちなみに金沢にある三つの「あかあかと・・・・」の句碑は、一つは犀川大橋の河畔に「小松砂丘」の筆によるものがある。
これは森田柿園の「金沢古蹟志」に、芭蕉が金沢に来た時に橋上で詠まれた句だと記されていることからだという。
他に蛤坂上の「成学寺」境内に、蕉風の俳人堀麦水が建てた「秋日塚」の側面に刻まれている。
もう一つは、後藤雪袋が卯辰山の宝泉寺の境内に建てた句碑が、後の明治16年に兼六園の山崎山の入口に建っている。筆は俳人の桜井梅室である。
「小矢部サービスエリア」にあった芭蕉の「奥の細道」の案内板