2025年12月31日水曜日

年末の風景(2) 尾山神社

高齢にもなったので、見に行くこと、調査すること、作成(パソコン業務)がだいぶきつくなってきたので、来年度からは、これまで続けてきた掲載間隔3~5日(6日)をもっと楽にやれるように、出したくなったら掲載するようにしたいと思います。よろしくお願いします。


今日は久しぶりに天気が良かったので「尾山神社」の年末の様子を見に行った。(12月28日)

裏門から入ったが、この門は金沢城二の丸御殿にあった一見一戸の向唐門と言われている。1870(明治3)年に卯辰山にある招魂社の神門として移され、1963(昭和38)年に現在地に移された。文化5年の二の丸御殿火災の際に、唐門に施された二匹の龍が水を呼び、この門だけが何を流れたという伝説が残っている。













「尾山神社神苑」の奥に積みあげられた岩石の上から水が流れ、神苑の池を潤しているが、この水は辰巳用水の水で、兼六園の「瓢池」の方から「逆サイフォン」の原理で、ここに水が流れている。横に六角の笠を持った「雪見灯篭」が置かれている。












2日前に5cm降った雪がまだ残っている13代前田斉泰が作庭した、雅楽を模した庭園の「尾山神社神苑」












拝殿横にある大きな蓮華に小さな蛙が置かれている。












拝殿前には多くの人がお参りに来ていたが、ほとんどは観光客だろう。






















手水鉢付近には、初詣がもうすぐなので、多くのお客さんに物を買ってもらおうと、露天商のテントが並んでいた。












神門の扉には細かい彫刻の中に前田家の「梅鉢紋」がある。












さらにその上には花鳥などの細かい彫刻がなされている。最近はこういう細かい彫刻をする人がほとんどいないそうである。












神門前には立派な二つの門松が置かれていたが、正月の準備万端である。















また境内に戻ると、背の高い立派な灯篭が立っていた。















神社を出て外に出ると、「合同庁舎」前には「雪吊」された木に椿が咲いていた。そういへば「合同庁舎」の建物は老朽化しているので移るという話を聞いたばかりである。廻りに旧四高公園、尾山神社、玉泉院丸庭園のある場所に少し違和感のある建物と思っていたが。






2025年12月28日日曜日

年末の風景 (1)しいのき迎賓館 西茶屋街 

しいのき迎賓館では、クリスマスなどの飾り付けがなされていた。(12月23日)



















正面玄関左側にクリスマスツリー
























しいのき迎賓館の裏のガラス張りから見える金沢城本丸の石垣と伸びきった森のようになった木の茂み。地震による石垣の崩れの跡がまだ残っている。



















ガラス張りの窓には一部に幾何学模様になっていた。




金沢の主な観光地に記念用のスタンプが置かれているが、そのランドマークとして「蓮の空女学園アイドルグループ」のかわいい絵がある。外国観光客も記念にスタンプを集めている人も多いのでよい試みと思う。



















裏の出入口にサンタクロースのおじさんが、面白いデザインの袋を持っていて本を読んでいる。後ろに「兼六園」。「金沢城」、「21世紀美術館」の方向指示板があった。















年末の12月26日に金沢に初めてわずかな積雪があった。雪の西茶屋街の風景





































「西茶屋街の検番」の前は一面に雪が積もっていた。





































付近に流れている「泉用水」

2025年12月22日月曜日

七日市藩 前田土佐守資料館

 今回は、長町の前田土佐守資料館で「七日市藩」の「展示開設講座」があるということで行ってきた。この日以前に別の場所で詳細な講座があったが、別用事があったので残念ながら行けなかった。



















「七日市藩」といえば、初代前田利家の5男の「利孝」が大坂夏の陣での功績で藩が与えられたと聞いているし、「前田16代当主利為」が「七日市藩」から養子に入った人だということしか知らなかった。 
























七日市藩は現在の群馬県富岡市にあった藩で、初代は前田利孝だが、加賀藩の分地されてできた富山藩、大聖寺藩と違って、幕府から新地宛行(しんちあてがい)によるものだった。1万石の領地を拝領し、上州七日市村に陣屋を構え、明治4年の廃藩置県まで存続した。
七日市藩の初代前田利孝が着用したと伝わる兜で、家譜などには大坂の陣の際にはこの兜を着用したと記されている。
























七日市陣屋の藩邸(藩主屋敷)跡は、廃藩置県によって藩主が東京に移った後、学校の校舎の一部として使用されてきた。
下図は、1967(昭和42)年に富岡高校の郷土部が作成したもので、残っていた旧藩邸の図面と重なるものである。そして藩政期の陣屋敷地内には、この他に藩庁やか家臣屋敷、畑などが広がっていた。



















江戸時代の上州は断続的に存続した9つの藩があり、時期によって領域は変化している。七日市藩は高崎藩5万石の南西部にあり1万石だった。この辺りは1~5万石の小さな藩が多くあった。


















江戸の七日市藩の屋敷は「半蔵門」近くにあった。


















下図は加賀藩、富山藩、大聖寺藩、七日市藩の系図で、江戸時代を通して養子縁組を行って、一族により家の存続を保った。






















現存する「黒門」で、御殿と同時期に建築されたもので、藩政期には大手門と玄関の間の「中の門」として機能していた。屋根瓦の先端には梅鉢紋が付いている。


















現存する藩主が居住した藩邸の一部で、玄関とその続きの建物である。






















昭和初期のころの屋敷内の様子


















前田利定は七日市藩の13代は藩主で、12代の長男で、5男だったのが利為で、前田本家の養子となり16代当主となった。


















前田利為は、15代当主前田俊嗣の長女で渼子と結婚したが、渼子が没した後、1911(大正7)年に16代前田家の当主となり、本郷邸・駒場邸の建設や北海道の森林経営など家政を運営する傍ら、陸軍軍人として各地に就きました。また、1910(明治43)年には侯爵として貴族院議員にも列せられた。そして太平洋戦争中の1942(昭和17)年にボルネオ守備軍司令官に任命されたが、ボルネオのクチンからラブアンに移動する際、利為らが搭乗していた飛行機が遭難し、帰らぬ人となった。その後、藩祖利家の夫人まつが眠る京都大徳寺芳春院に埋葬された。
利為が行った多くの文化事業の中で編纂事業として、15代慶寧がまためた加賀藩・前田家の歴史編纂事業を引き継ぎ多くの編纂書物を刊行した。また、5代綱紀のまとめた「加賀藩松雲公」などがある。また、戦時下の不況により公開施設の建設物の整理売却によって得た資金により1926(大正15)年に「育徳財団」を設立し、前田家の蒐集コレクションは財団保有になり、それら管理・保管するための財団となっている。現在も「前田育徳会」として存続し、国宝・重要文化財などを含む侯爵前田家のコレクション財団創設から100周年になるという。
























今年の10月に七日市藩があった「富岡市」と釜沢市が友好都市交流締結を結び、互いに交流を図ろうということになった。東京の文京区、板橋区、目黒区に続いて4番目となる。
「七日市藩陣屋跡」の近くには「世界遺産」の「富岡製糸場」もある。
10年ほど前に訪れた「富岡製糸場」の私のブログ

2025年12月16日火曜日

旧森紙店 石置き屋根

 「歴史遺産月間」の一つで「旧森紙店 石置き屋根」の見学をした。参加者は約15人くらいだった。

野町にあるこの辺りははよく通る道で、古そうな石が置かれた屋根のある家の中はどんなになっているか一度は入りたいと思っていた。

旧森紙店は、旧北國街道沿いに立つ江戸末期の木造建造物で、明治中期に森家が購入し、紙を販売してきた。1983(昭和58)年に市指定保存文化財となった。数年前に道幅を広げるということで、建物をそのままの状態で残すため「曳家」で6m後ろに下がった。



















金沢では、江戸時代から明治時代まで多くの民家が石置き屋根だったという。明治41年に石川県が屋上覆葺規則を公布して以降、石置き屋根が減少していった。戦災に合わなかった金沢は昭和30年頃までかなり残っていた。
下図は「福島秀川」の描いた「金沢城下図屏風」で江戸時代の「犀川町」、「犀川大橋」辺りの絵 ほとんど石置き屋根
























下図は明治時代の卯辰山から浅野川、金沢城辺りを見た写真(ほとんど石置き屋根)


















「旧森紙店」の家の中に入って、石置き屋根の作り方や特徴などを「金沢市文化財保護課」の職員や「「金沢職人大学」の「木羽葺き研究会」の人たちから説明を聞いた。


















新しい木材で作られた木羽葺きの石置き屋根のサンプルが置かれいた。薄い板が何枚も積み重なられ、三角型の押さえ木の上に平たい石が整然と並ぶ、-石置き屋根は、こんなもので強風や地震になった時、大丈夫なのかと思ってしまう。しかし思ったより大丈夫なんだと職員が言っていた。


















薄い板は幅が20cmくらいの長い板の2割くらいが順番に積み重なっている。そして乱雑に見えるが薄板が三重に整然と積み重なっていて、押さえ木の上に乗った石の重みで、屋根の機能が果たされていて、下への雨漏りはないという。しかし毎年板を乾燥させ、裏返しのメンテナンスをしなければならない。石の上の部分の下の薄板が水が溜まりやすく、一番痛む所だと言っていた。




























「ワールド・モニュメント財団」は国や文化の枠を超えて、歴史建造物などの文化遺産を保護・保存することを目的として設立されたもので、金沢では唯一残る「石置き板葺き屋根」建築の「旧森紙店」の保存活用事業の支援活動を2023年より開始しているという。
























下図は石置き屋根の葺き替えをやっている写真である。


















金沢の「石置き屋根」に使われる板材はほとんどが「アテ」材(能登ヒバ)であるという。「アテ」材は他の木材より繊維が荒くそれがまた良いのだという。アテ材を割るいろいろな「斧」が並べられていた。


















アテ材を溝の入った木型に立てて入れて、斧と木槌を使って先端に割を入れた後に、斧を人の力で少しづつ割っていく。約9.8mmの板材をふたつに割って4.9mmにし、さらにそれを二つに割って、最終的に2.45mmにするという。それで木型には9.8mmと4.9mmが入る溝がある。










































アテ材の丸い原木から、下図のように気取りし大割、小割し、それを薄板や押さえ板を作っていく。


















この町屋は2階建てで、急な階段も見られる。1階は店の間と吹抜の茶の間とさらに奥に座敷がある。
























旧森紙店の平面図



















2階は店の間の上に部屋があり、渡り廊下の後ろには「奥の座敷の間」あったらしい。


















店の奥に石のブロックがたくさん置かれていたが、何に使われたものか分からなかった。このブロック一つ一つに番号が打たれていた。何か位置関係を示すものであろうか?


















「曳家」によって町家の建物と蔵と庭との間が狭くなったところ


















一番後ろには蔵の入口があった。