2024年11月28日木曜日

愛本刎橋(2)

 愛本刎橋(1)の続きで、次にこの刎橋の木工技術を駆使した意匠や構造などについて、館内で頂いた「愛本刎橋」の冊子に基づいて説明する。



















愛本刎橋の中心・両脇の3列に長い「刎木」という長い柱が組み上げられる。刎木は各列6本が隙間なく積み重ねられて橋の根元から中央に伸びている。刎木の根元はおよそ1/3(約10m)が地中に埋まり重みで固定されている。
この橋の長さは63.5mと長いので、橋の強度を増し橋の横揺れを防ぐために、橋の両側が扇形に広くなっている。


















下図は上から見た図と横から見た図
刎木の両端部分は岸壁から橋の中央に伸びるにしたがって水平方向が狭まっている。刎木の幅は吊桁の接合部で描く1/3狭くなって三角の形のなっている。(猿橋は平行である)
これは、愛本刎橋が大規模な構造であっために、風や洪水など水平に作用する力によって橋全体が水平に変形またはねじられることに対する強度を高めるためという。





















刎木は6本3列で、一番長いものは45mもあるという。
刎木のうち一番したの「元刎木」は横並びに9列である。この理由は①扇形にするため
②上の方を軽くして構造を安定させるため③貴重な木材を減らして必要十分な構造をとるため
橋の根元の岩盤に立つ大きな柱は「枕梁用柱」で、この柱はおよそ70cm角もある。その上に「枕梁」を横にして、巨大な刎木全体を支えている。

















巨大な刎木をどうして作ることができたかは、部材を継ぎ足しながら重ねて長くし、前に張り出していく方法だからできたという。所々に継手や金具で補強し、強度を高めている。
























愛本刎橋に刎木は岸壁から20度上に傾斜している。これもなぜ20度であるかは明確ではないが、水平ではひっくり返るし、30度にすると全体的に橋の高さが高くなり、いろいろな条件で建設困難という。
























愛本刎橋の創建時に、各刎木を固定して強度を高める方法が考えられ、タボ(硬い木の棒)を打ち込む方法や鉄の鎹なども試みたが、うまくいかず、そこで着目したのが横梁であった。下図から1番下の刎木(元刎木)と2番目の刎木、2番目の刎木と3番目の刎木に横梁が設置されている。これこそが6本の主要な刎木をまとめた全体として1組の合成桁としての刎木組になる「ずれ止め」の効果を担っている。
この「ずれ止め」によって1組にに合成された刎木組みができたことから、木橋の限界を超えるような大規模な愛本刎橋の建設ができたと考えらるる。
この横梁のずれ止めの効果の考え方は、戦後の西ドイツで開発された「合成桁理論」そのものであるという。これが350年前の架橋を作ったという事実は驚嘆に値するという。














この橋の建設には難しさがいろいろあった。川べりに急斜面の足場を作ること、巨大な一本の刎木では重すぎて組み立て不能なので、継手を用い集積材だから可能になった。大きな木材を運んだり、揚げたりしなければならないので、現代と変わらないテコを利用した木造のクレーンなどを使った。当時の木造クレーンを復元したもの


















当時の手クレーンのイメージ図




















愛本刎橋の木材の種類は杉、欅,檜、クサマキなどが使われ、架け替え時には黒部川付近のあちこちから調達している。


















下図は天保時代に刎橋をかけ替えた時の樹木の調達のための伐採図であるが、愛本刎橋建設当初は、黒部川扇状地で樹木を賄っていたが、後年は新川郡全域を調達範囲としていることが最近古文書から分かったという。
















加賀藩の大工集団(作事所)は、金沢城の建築や瑞龍寺・那谷寺の造営や浅野川・犀川の架橋などを担当し、技能・能力が極めて高かった。そのような集団が愛本刎橋の架け替えの工事に携わった。
下図は、寛政11年の架け替え時の「棟札」を見ると、事務方には「主付作事奉行」と「御徒横目」がいて、愛本橋における命令・伝達は「御用番年寄⇒算用場奉行⇒十村」となっている。


















また、材木の運搬や愛本刎橋の工事には近くの農民たちが多く動員されたという。

2024年11月23日土曜日

愛本刎橋(1)

 今回は、宇奈月温泉から黒部のトロッコ鉄道に乗り、渓谷と紅葉を見たいと思い出かけた。

その前に、宇奈月温泉の手前にある、前々から行こうと思っていた「愛本刎橋」の関連展示がなされているということで「黒部歴史民俗資料館」に行った。












加賀藩の参勤交代は、1635(寛永12)~1862(文久2)年の227年間に合計190回行われた。北國街道の下街道ルートは、金沢城から越中、越後の日本海側を通って、高田、善光寺、中山道の追分からは、中山道を通って板橋にいたった。計181回利用された。
この街道で一番難所であった越中の黒部川は48ヵ所の流れがあり、大雨になるとたびたび氾濫し、海のようになり、街道歩行不能となっていた。そこで5代藩主前田綱紀は、扇状地の上流の川幅の狭いところの愛本に大橋を作り「愛本橋」と称した。下図のオレンジ○の場所が小さな村が所々ある従来の街道で赤○の位置が「愛本橋」である。


















この橋は、黒部川が急流なため川の中に支柱が立てられず、両側から刎木を出して橋を支えるようにした。下図は明治時代の最後の「愛本刎橋」


















日本の三奇矯といわれた「愛本刎橋」の他は、現存する「襟帯橋」と山梨県にある「猿橋」である。
「錦帯橋」                 











                






「猿橋」
























「猿橋」に比べ「愛本刎橋」は橋の長さが2倍以上で、それだけ架けるには困難を極めたという。

館内に入るとまず目についたのが木造刎橋の模型で、1841(天保12)年の「越中新川郡愛本橋百分一之図」だは、長さが63.5mとあり、これをもとに縮尺2分1の刎橋を復元したものだ。その木組構造が一目で分かるようになっている。


















すぐに館内の係員からゴーグルをつけて、中に映っている映像(タイトル「よみがえる愛本刎橋」)を見るよう言われた。すると江戸時代の「愛本刎橋」が、あたかも実物を見ているかの様の見え、橋の真ん中から後ろを見ると橋の後ろが見え、ぐるりと360°の映像が見える、素晴らしいものであった。
これらの3DCB(3次元コンピュータグラフィック)やVR(バーチャルリアリティー)などの技術を利用した映像が見られるようになったのは今年になってからだそうだ。

この愛本刎橋は江戸時代には、20~30年ごとに8回架けなおされている。



















1891(明治27)年に架橋された愛本橋は、西欧の近代技術も生かされ富山県の事業として行われた。橋の設計者は富山県技師の高田雪太郎で木造のアーチ橋であった。
















現在の橋は、元の入りから60m下流に鋼ニールセロン系ローゼ桁橋で架けられているおり、昭和47年に竣工した。橋の長さは130mという。































江戸時代に旅をする人は限られたいて、武士、僧侶、学者、文人などが中心で、北陸道を通ったそれらの人たちは、愛本の渓谷美や豪壮な刎橋に感嘆し、多くの文章が残っている。
この石碑は幕末の尊王攘夷論者の頼 三樹三郎が1848(嘉永元)年に詠んだ句であるという。
「百畳の飛橋 はるか空に架す」など














2024年11月18日月曜日

晩秋の大乗寺公園 広阪アメリカ楓通り

 今回は、高台にいくつもの歩くコースがある「大乗寺公園」を歩いた。最近は熊騒ぎがあってからは歩く人が少し減ったような気がする。

こちらは深紅に紅葉した木々が見える。



















この辺りの道は、落葉がいっぱい



































この木の先端は葉が付いていないので、もう既に葉が落ちてしまったのか。


















道の脇には、わずかに白いや薄紫の小さな花が咲いていた。































こちらの木は深紅とオレンジ色の葉が並んでいる。


















両側桜の木も緑っぽいのと紅葉ている木が混在している。
































赤いナンテンの実の向こうには、金沢の街並みの眺望の良いところである。


















こちらも深紅に紅葉した並木と階段の向こうは金沢の街並み


















次の日には、旧四高としいのき迎賓館の建物の間の「アメリカ楓通り」を通ると、相変わらず素晴らしい紅葉が見れた。この辺りは観光客の多いところである。


































































2024年11月14日木曜日

晩秋の犀川緑地公園

 本日(11月13日)は天気が良かったので、久しぶりに犀川緑地公園を散歩してきた。まあこの前まで夏のような暑さだったが、最近は随分涼しくなってきた。



















周りには、落葉が積もるほど落ちている。

































































































こちらは針葉樹で落葉がないので、下面もきれいな緑の草むら






































































近くの園児たちが元気よく遊んでいた。