2025年5月27日火曜日

新宿御苑(2)旧洋館御休憩所

 新宿御苑(1)の続きで、さらに園内を見る。こちらの池は「玉藻池」で、内藤家の庭園(玉川園)の面影が残るという。
































続いこのクラッシックな建物は重要文化財の「旧洋館御休憩所」で、天皇や皇族が新宿御苑(当時は新宿植物御苑)内の温室で植物を鑑賞する際の休憩所として1896(明治29)年に創建された。建物は宮内省内匠寮により設計され、アメリカの住宅を中心に流行したスティックスタイルを基調としている。2001(平成13)年に改修し一般公開されるようになった。







































「旧御居間」は洋風の室内に藤製の家具を置き、花鳥風月を描いた日本画や盆栽を飾るなど、和洋折衷のくつろいだ雰囲気が演出されている。


















「旧次の間」や「旧広間」「旧御居間」は1896(明治29)年の創建以来手の加えられていないスペースである。壁紙などの内装は、わずかな資料などから復元された。


















「廊下」は温室に向かう渡り廊下へと続く外廊下だったが、浴室増築に伴いガラス戸をはめ込み、うち廊下に改造された。
























「旧御食堂」は温室鑑賞の休憩所として利用が増えたため、お茶や昼餐を撮るスペースとして1921(大正10)年に設けられた。昼餐会・晩餐会もしばしば催しされ、その折には御苑で栽培された草花が卓上を飾った。
























1922(大正11)年に増設された。当時のバスタブや照明などの器具が残っている。別棟でボイラー室が設けられ、浴室の際はボイラーマンが来苑して給湯に備えたという。


















「旧御厠」は、、便器がなく板の蓋が置かれているだけだった。
























新宿御苑は広い芝生もあるが、このように昼でも暗い巨木が生い茂っている場所もある。
風景式庭園の中央に威風堂々と立つのが、新宿御苑のシンボルツリー「ユリノキ」である。街路樹としてはお馴染みだが、明治20~30年代に日本で始めて新宿御苑に植えられたといわれている。
























また、ここ新宿御苑は、大正年間には西洋庭園が9ホールのゴルフコースとして利用され「旧洋館御休憩所」が模様替えされてクラブハウスを兼ねていたという。昭和天皇が皇太子時代にゴルフしたという所でもある。
下図のゴルフボールは、1987(昭和62)年に行われた中の池の底にたまった土砂を取り除く工事で発見されたもので、大正時代のもだという。























帰りは「大木戸門」から出たが、この門の横にレトロな洒落た建物の「門衛所」が残っていた。屋根にドーマが付き、屋根下には軒レースが付いていた。窓付近も洒落た文様が入っていた。

2025年5月24日土曜日

新宿御苑(1)

今回は、急用ができ「東京」へ行くことになり、日帰りで行ってきた。用事が終わった後、先日テレビで見た「昭和天皇」が皇太子時代にゴルフをした場所だという「新宿御苑」に
久しぶりに見たいと思い出かけた。グーグールマップで調べると「新宿東口」から徒歩で8分ということで、歩いて行ったが、信号などもあってか約20分以上かかってしまった。


















御苑園内のマップに初夏の見どころや花木が描かれていた。「新宿門」から入り、
ここは、徳川家康の家臣・内藤氏の江戸時代の一部がルーツと言われている。明治に入り、農事試験場を経て、1906(明治39)年に皇室の庭園となり、戦後1949(昭和24)年に国民公園として一般公開されたという。園内には、風景式庭園、整形式庭園、日本庭園と異なる3つの庭園が巧みにデザインされ、明治を代表する近代庭園と言われている。広さ58.3ha,周囲3.5kmという広大な庭園である。





















昼食時になったので「レストラン」で、席がいっぱいだったので弁当を買ってベンチで食べた。


















風景式庭園には、広々とした芝生があり、多くの人たちがのびのびと遊んだり、シートを敷いて休憩していている人もいた。


















向こう側には、やけに高く目立つ上の方が円錐状の高層ビルが見えた。


















ところどころに古く伸び伸びと育った巨木が見え、広々とした芝生とは対照的な雰囲気の場所である。



















こちらは、池の水の流れに沿って歩く、回遊式の日本庭園である。


















池のほとりには「キショウブ」の花がきれいに咲いていた。


















この建物は「旧御涼亭」(台湾閣)と言って、昭和天皇のご成婚を記念して、当時の台湾在住邦人の寄付により建設されたという。オレンジ色の丸瓦や先端の形状などが中国建築に倣っており、日本では数少ない本格的中国建築の一つである。


















卍型の平面を持つ御休憩所になっており、柱に台湾杉、天井の鏡板に台湾扁柏や台湾絵など台湾から取り寄せた部材が多く使われている。


















この建物から見える水辺の涼を楽しむ歴史的建造物である。池に後ろのこんもりした木々がきれいに映っている。
































屋根裏や梁の周りの文様が面白い。設計は森山松之助である。




























2025年5月18日日曜日

奥野八幡神社 七重の石塔(海石塔の片割れ)

 今回は、兼六園の蓮地庭にある「海石塔」の片割れが、能美市の「奥野八幡神社」にあると聞いたので、見に行った。

ここは、南朝に仕えていた結城氏の家臣佐治右衛門が北國に下って寺井に居住し、寺井の奥城に奥野社を奉祀したのが始まりである。明治6年に奥野八幡社と改称した。昭和6年には社殿を改築するため社地を拡張したが、戦争で遅れ、昭和31年に奥殿を、38年には幣殿と拝殿を改築した。



















この神社は通常宮司がいない(別の神社と兼用)ので、拝殿は開いていなかった。



鳥居をくぐって拝殿への途中の左側に、二つの春日灯篭の後ろに、お目当ての七重の塔があるのがすぐにわかった。
























この七重の塔の謂れについて案内板が掲げられていた。
豊臣秀吉が朝鮮征伐の時に、加藤清正が持ち帰ったものを秀吉に渡し、それを前田利家に贈呈したと描かれていた。当時は二基対になっていたとされ、一基は兼六園にある「海石塔」と言われていると描かれている。前田利常が小松城に移る際に持参愛賞したという。廃藩置県後、明治5年に一般に払い下げしたのを貿易商の綿谷平蔵氏が買収し、奥野八幡神社に奉納したという。





































3代利常が、玉泉院丸庭園に13重の石塔を造らせ、幕末に改装しそのうちの6重の石塔「海石塔」を兼六園に、残りを能美市の神社に移したと聞いていたが、案内板はだいぶ違っている。
ここにある石塔は、近づくと見上げる高さで6mあるので、「海石塔」と比較するとかなり高いというイメージである。7重の塔のうちの一つは欠けてしまったので、現在は6重となっている。

























ここの「七重の石塔」の上部は丸い輪が重なったような仏塔があり、一番上の長い火袋は「坪野石」、短い火袋は「青戸室石」で、それ以外は虫食い状態の石(海の中の石のような)は「那谷産石」(観音下石)ということで「海石塔」と同じである。
























石塔の下の土台石は「赤戸室」と「青戸室」が積み重なっている。「海石塔」にはこのような石はない。
























兼六園の海石塔は、上に笠と宝珠がある。一番上と三番目の火袋が長く黒い「坪野石」、その他の短い火袋は青戸室石、その他の石は虫食い状態の石「那谷産石」で、奥野八幡神社の七重の塔と同じ石材である。
























「海石塔」は、「那谷産石」の所が苔むしていて緑っぽいところが、また自然な趣があって見ごたえがある。























この「海石塔」と「七重の塔」には、いろいろな説があり、謎に包まれていて分からないことだらけで、それがまた面白い。
まず、「豊臣秀吉が朝鮮征伐時・・・・・・」の説は、石の材質がすべて地元産というから違う話だろう。
別の冊子で読んだ「3代利常が十三層の石塔を玉泉院丸庭園に造営し、ある時期に地震で6層の石塔と七層の石塔に別れ、利常は庭の観賞用として二つの石塔に火袋や笠などを付けて石燈籠に改良した。そして七重の方は、利常が小松城にいた時に移した。もう一つの6重の方は、そのまま玉泉院丸庭園にあったが、幕末に兼六園に移され、現在の「海石塔」となった。」という説もあるが真意が全く分からない。


ここの「手水舎」は新しそうだ。


















この神社の宮司さんは通常はいなく、近所の町会長さんがいろいろと世話をしているという。その人に連絡して、ここの神社についていろいろと聞いた。そして「社務所」の中にある社宝を見せてもらった。
下図は、久谷庄三作の富士越の竜頭大皿で、若杉窯で研究中の作だという。


















初代武腰善平作の色絵鳩に秋草図陶額



















久谷庄三作の梅鉢紋が描かれた壺



















「既白」の句碑があった。「既白」は宝暦のはじめ加賀藩毛見役の一人として寺井に赴任後、俳諧の道に進み、松尾芭蕉に心酔し全国各地を吟遊した。「既白」とその息子の「來首」が寺井俳諧の草分けと言われる。



2025年5月13日火曜日

大乗寺公園 兼六園などのツツジ

今回は、ツツジが盛りを少し過ぎたかもしれないが、各地で見事に咲いていたので掲載する。(5月9日)

まずは大乗寺公園は、白やピンク、赤などグランドの周りがツツジで埋め尽くされていて、今年もいつもながら素晴らしい眺めである。ツツジを見ながら何人かの人たちが散歩していた。



















白の花弁に中央がピンク色


















こちらは紫のツツジ


















ツツジの絨毯越しに金沢市内の眺望がよく見えてすばらしい。
























随分前に見に行った「彦三緑地」のツツジ・牡丹

桜の木にはよく見ると小さな実がなっていた。



















兼六園のツツジは、丸く刈り込まれたツツジがあちこちにある。



















「花見橋」付近のツツジ


















霞ヶ池の「蓬莱島」付近のツツジ



















その横に白いツツジ越しに「内橋亭」が見える。


















新緑の木々が生い茂る「黄門橋」付近には珍しく朱色の花が咲いているが「サツキ」か(?)
























「時雨亭」付近にあった白い花は「シャクナゲ」か(?)



















「広阪」の坂の途中に見えたツツジ



















街路樹のツツジは、きれいに直方体に剪定されている。