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2018年1月21日日曜日

東北地方北部ドライブ(21)角館①

東北地方北部ドライブ(20)男鹿半島 入道崎の続きで、その後、「なまはげライン」を通って、「角館」に行った。ここは「みちのくの小京都」といわれる武家屋敷が残っているところだ。



















城下町としての角館は、もとは戸沢盛安(とざわもりやす)によって作られた。のちに常陸へ国替えとなった戸沢氏に替わり、佐竹義宣の弟である芦名義勝が角館に入り、元和6年
に新城下町を整えた。芦名家は三代51年で断絶、以降、佐竹北家により支配された。
城下町は「火除け」と呼ばれる広場を中心に、北は内町と呼んで武士が住み、南は外町と呼び町人が住んでいたという。



















金沢の武家屋敷は土塀であるが、角館は黒板塀が並んでいて、雰囲気が随分違う。塀が高いほど身分も高かったのは同じであるが、金沢長町の通りは、藩政期のままの細い道だが、ここは結構広い通りに並んでいる。
武家屋敷を利用して、お土産屋、食事処もたくさん並んでおり、金沢長町よりも武家屋敷としては残っているところが地域が広い。



















緑の木々に覆われた重厚な薬医門と黒板塀のある佐竹北家に仕え、財政を担当する勘定役を務めた石黒家に入った。



















屋敷から外を眺めらるように「のぞき窓」が黒板塀にある。屋根は茅葺で、起こり破風に懸魚が付いた正玄関と脇玄関があり、二つの玄関を持つ身分の高い武家だった。これは、本来の玄関の他に、当主より目上の方の出入りに使う特別な玄関もあるという。

































続いて、その隣にある武家屋敷「青柳家」に入った。ここも芦名家、佐竹北家に仕えた家柄で、代々の役職は納戸役を多く務めたという。母屋は約200年前の建築のままに、厄除けの意味を込めた鬼板や懸魚など意匠をこらした玄関があり、雪国特有の廻り縁など、武家らしい威厳がある。



















座敷には武家の部屋らしい床の間、違い棚があり、板欄間には家紋の透かし彫りなどがある。現存する角館のなかでも最も豪華な座敷だという。


































敷地は3,000坪あり、広い庭には、600種類物花や木が四季折々の風情を見せてくれるいう。



















その庭には、今は使っていないが古井戸があった。



















また、兼六園で見る「寄石灯篭」に似た大きな「おばけ灯篭」があった。
























料理を準備するための部屋であろうか?



















また、角館の武士であるが、日本で最初の本格的な西洋医学の翻訳書として刊行された「解体新書」の挿絵を描いたのが青柳家の親戚にあたる「小田野直武」の銅像が置かれていた。この人の絵がなければ「解体新書」は理解しづらく発行されなかっただろう。







































「解体新書記念館」には、直武の偉業や「解体新書」の附図などが展示されていたが、非常に緻密に描かれたことが分かった。

2016年11月6日日曜日

京都ドライブ(3) 二条城 

京都ドライブ(2)の続いで、次の日まず「二条城」に行った。ここは有名であるが、私は今回初めてである。 二条城は1603(慶長8)年に徳川家康が、京都御所の守護として将軍上洛の際の宿泊所として造営された。その後、三代家光が後水尾天皇の行幸に合わせて、1626(寛永3)年に改修したものだという。まず「東大手門」から入った。
















「二の丸御殿」がある「唐門」前には修学旅行生などで混んでいたので、先に「本丸」を見ることにし、「本丸櫓門」を通った。
















本丸は、1626(寛永3)年に三代将軍家光の命によって増築されたもので、もとは、五層の天守閣がそびえ威厳を誇っていたが、1750(寛延3)年の落雷で焼失し、またその後の大火によって本丸内の殿舎もなくした。
現在ある建物は、京都五苑内にあった旧桂宮御殿を移して、明治になって建てられたものだという。
















天守跡の高台から付近の内堀などを見る。
















天守跡の高台から「本丸御殿」の屋敷や「本丸庭園」を見る。
















本丸にある屋敷の玄関、式台

















整然とした長方形、正方形などの石垣で金沢城の石垣とは雰囲気が違う。
















次に、「清流園」という江戸初期の豪商、角川了以の屋敷から、建物の一部と庭石800個を譲り受けて、これをモチーフに全国から集めた銘石300個と新たに茶室を1965(昭和40)年に完成した庭園があった。
















「清流園」にある「加茂七石」を表現している。
















「二の丸御殿」に入る「唐門」の前は、少し時間が経ったらかなり人が少なくなり、容易には入れるようになった。
















「唐門」の上を見上げると、金ぴかの菊の御紋やきらびやかな極彩美で飾られていた。
















国宝の「二の丸御殿」は、代表的な武家風書院造りで、遠侍(とおざむらい)、式台、大広間など6棟の建物が雁行型に並んでいる。建物面積は3300m²、部屋数は33、畳は800畳以上あるという。部屋の中は残念ながらカメラ禁止だったので紹介できないが、各部屋の障壁画は狩野派絵師によるもので、部屋の目的に応じて描かれている。また、欄間の彫刻、飾り金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗型(はなのしがた)の釘隠しなどは、金飾で豪華を極めている。
















特別名勝の「二の丸庭園」は昔からの造園技術に従い、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配置した書院造り庭園で、小堀遠州の作と伝えられている。1626(寛永3)年、池の南側に後水尾天皇の行幸の際に改造されたといわれており、大広間、黒書院、行幸御殿の三方向から見られるように工夫されているという。
















大小さまざまな石組みに表れた力強さは豪壮な城郭建築とよく調和しているという。


2016年8月17日水曜日

超雲寺(旧中川家)(1)

今回は、芳斉にある浄土真宗のお寺の「超雲寺」に行った。
ここの住職さんのお父さんとは、随分前から知っているので、あらかじめ連絡をし、仲間と一緒に尋ねた。




















超雲寺は一向一揆時代には、寺井辺り(?)にあったらしいが、江戸に入り金沢に移り、江戸時代は3か所場所が移ったという。幕末には、東末寺辺りの極楽橋の横にあったのが古地図に載っている。




















明治に入って、今の玉川図書館辺りに移ったが、明治の中頃に専売公社を作るというころで、現在地の「旧中川家」の敷地に移ったという。「旧中川家」は今の「松枝緑地」にあった「中川八郎衛門」の分家で、400石の平士であった。
写真は本堂で、その裏に檀家さんのお墓がある。




















境内にある梵鐘は戦前に供出されたが、戦後すぐに作られたという。




















門の横には見事に「百日紅」のピンク色の花が咲いていた。




















住職さんの住居の玄関の横には藩政期の「旧中川家」の本屋の玄関であろうか?その両側の白壁に「花頭窓」の古めかしいデザインがなされている。




















家の中に入り、90歳を超える住職さんのお父さんから説明を受けた。




















まず、400坪を超える広大な「旧中川家」の庭園を見せてもらった。江戸時代からの松や椿の木、石や灯篭が置かれていた。これを維持していくのは大変なことであろう。








































建物は本屋が間口9.5間(17.2m)、奥行き9間(14.5m)あり、独立した茶室がつながっている。








































茶室は半鴨居四畳半本勝手という。小さな障子のあるところが「躙り口」であろうか。現在も普段使っているところである。