次の日 板橋(旧加賀藩下屋敷)に行くことにし、「いたばし観光センター」に向かった。場所を見つけるのに苦労したが、何とかたどり着けた。
「いたばし観光センター」内に展示されている「旧加賀藩下屋敷」の地図を見ながら説明を受けた。1680(延宝8)年には、加賀藩前田家は本郷邸を上屋敷に、馬込邸を中屋敷に、そして板橋宿に面する平尾邸を下屋敷に定めている。下屋敷の平尾邸は、約28,000坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸にある大名屋敷では最大の大きさを持っていたという。邸内には上石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝など配された池泉回遊式があった。その規模は、兼六園の約7倍の広さがあったという。
邸内には与力を筆頭に大半は定番足軽など、ここを管理する50人ほどだけがが詰めていて、ほとんどは上屋敷の人たちの食料などを作っていた。この平尾邸は、通常は藩主とその家族の別荘として使われており、彼らが保養、散策に訪れ、時には鷹狩や花火なども行われていたという。
今回は、ここのボランティアガイドさんに案内してもらった。金沢市と板橋区は「友好交流都市協定」として締結している。百万石行列には、毎年、5代綱紀役が板橋区の人がなっている。この人も、去年に綱紀の付き人役として参加したという。
当時の跡は何も残っていないが、この付近には「金沢」や「加賀」などの地名が多く残っている。
下図は「金沢小学校」
「金沢橋」
上石神井川の畔には「ことじ灯篭」が置かれていた。
屋敷内の庭園の築山の跡は「加賀公園」になっており、「友好交流都市協定」締結を記念して建てられた「尾山神社神門」のステンドグラスを模して建てられた記念碑があった。
また、この公園一帯は明治から終戦までは、火薬を製造する大きな板橋火薬製造所があった。明治9年に完成し、この火薬製造所で使われた「圧磨機圧輪記念碑」があり、これは実際に上石神井川の水を利用し、火薬製造に使われていた実物であるという。この材料はヨーロッパ産の大理石で、幕末の重臣が藩命を受けてベルギーから購入したものという。
この地が火薬製造所となったのは、加賀藩士で洋学に通じていた「佐野かなえ」が、当時の兵部省の造兵部門の長やっていた関係からの可能性があるという。
当時使われていた火薬を運ぶための電気軌道(トロッコ)線軌道や火薬の試射をして検査するための長い鉄管なども残っていた。
この近くに「野口研究所」の建物があったが、旭化成創業者の野口遵(のぐちしたがう)が設立した電気化学の開発研究所であった。野口遵は、加賀藩士の長男として生まれ、生後まもなく東京の加賀藩邸に移った。帝国大学工科大学を卒業した後、日本窒素肥料(現チッソ)を設立したり、朝鮮半島にいくつもの水力発電所や巨大な化学コンビナートなどを建設し、「電気化学工業の父」と呼ばれている。
藩政期には、この加賀藩下屋敷が中山道板橋宿に近いことから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場所としても利用されたり、また、その家族や家臣などの送迎の場ともなっていたという。
2016年7月15日金曜日
2016年7月11日月曜日
2016東京ドライブ(5) 東京大学 赤門 (旧加賀藩上屋敷)②
2016東京ドライブ(4) 東京大学(旧加賀藩上屋敷)①の続きで、その後、東京大学のシンボルとなっている「赤門」に行った。最近は東京大学がテレビで放映されるたびに、まず「赤門」がでてくる。

この建物は、1827(文政10)年に11代将軍の徳川家斉の息女溶姫が加賀藩13代前田斉泰に嫁いだ際に建てられたもので、国の重要文化財にになっている。当時、将軍家の娘が大名家に嫁ぐ場合に、大名家で朱色の門を造る習慣があったらしい。しかし、今残っているのはここだけである。
屋根を見ると、前田家の「梅鉢の紋」の軒丸瓦の上に、徳川家の「葵の紋」が軒丸瓦がある。(この写真からは葵の紋は小さくて見ずらいが)
この門は「薬医門」形式(中央は中心の柱から少しづれる門)で切り妻造りとなっている。赤門は焼けたら再建が許されぬということで、「加賀鳶」が常時近くに待機していたという。
そういえば、映画の「そろばん侍」の猪山直之の父信行がこの門を建てたということを誇りにしていたシーンを思い出す。
この門の両側には唐破風本瓦葺の番所があり、美しいナマコ塀が配置された豪華な門である。
この番所は前のほうは朱色で塗られているが、裏に回ると朱色に塗られていない。外目に見えない所は倹約したのであろうか(?)私も聞いていたのでわかったが、そうでなければ感づかない。
この赤門の前の通りを少し歩き、左を曲がると、明治に建てられたという前田侯爵邸の洋館「懐徳館」の遺構が残っていた。この建物は「東京大空襲」で焼失してしまったという。
「加賀藩上屋敷」について、以前に講座を受講したことがあるので少し紹介する。右側は幕末の本郷付近の古地図で、左側は現在の東京大学キャンパスと幕末の加賀藩本郷邸の位置絵図である。北に「水戸藩」、東に「富山藩」、「大聖寺藩」があった。将軍御三家のひとつの「水戸藩」より広かったことが分かる。
「加賀殿再訪」より
下図は加賀藩上屋敷の構成図で、中央部のピンク色と緑色の部分が「御殿空間」。それを取り囲む紫色、青色、黄色が「詰人空間」である。「御殿空間」のピンク色の所に屋敷があり、藩主やその家族が住んでいた。緑色の所には「心字池」を中心とした「育徳園」の庭園があった。赤門近くに「富士山」とあるが、40m近くの丘があり、江戸中が展望でき、富士山をはじめ品川の海までが一望できたという。
それ以外の「詰人空間」は区画の細かい建物が多くあり、2、3000人の江戸詰めの藩士や中間・小者などの武家奉公人が住んでいたという。
「加賀殿再訪」より
下図は「加賀藩江戸本郷邸泥絵」で、江戸時代幕末に多く描かれた名所絵のひとつの泥絵具で描かれたもので、藩邸の様子がイメージできる。
「加賀殿再訪」より
下図は「江戸図屏風」に描かれた本郷邸で、明暦の大火以前に描かれたものといわれている。屋敷の屋根には金箔瓦が描かれ、深山幽谷の「育徳園」の様子などが分かる。藩邸内に物を運ぶ小者などもなども描かれていている。
「加賀殿再訪」より
この建物は、1827(文政10)年に11代将軍の徳川家斉の息女溶姫が加賀藩13代前田斉泰に嫁いだ際に建てられたもので、国の重要文化財にになっている。当時、将軍家の娘が大名家に嫁ぐ場合に、大名家で朱色の門を造る習慣があったらしい。しかし、今残っているのはここだけである。
屋根を見ると、前田家の「梅鉢の紋」の軒丸瓦の上に、徳川家の「葵の紋」が軒丸瓦がある。(この写真からは葵の紋は小さくて見ずらいが)
この門は「薬医門」形式(中央は中心の柱から少しづれる門)で切り妻造りとなっている。赤門は焼けたら再建が許されぬということで、「加賀鳶」が常時近くに待機していたという。
そういえば、映画の「そろばん侍」の猪山直之の父信行がこの門を建てたということを誇りにしていたシーンを思い出す。
この門の両側には唐破風本瓦葺の番所があり、美しいナマコ塀が配置された豪華な門である。
この番所は前のほうは朱色で塗られているが、裏に回ると朱色に塗られていない。外目に見えない所は倹約したのであろうか(?)私も聞いていたのでわかったが、そうでなければ感づかない。
この赤門の前の通りを少し歩き、左を曲がると、明治に建てられたという前田侯爵邸の洋館「懐徳館」の遺構が残っていた。この建物は「東京大空襲」で焼失してしまったという。
「加賀藩上屋敷」について、以前に講座を受講したことがあるので少し紹介する。右側は幕末の本郷付近の古地図で、左側は現在の東京大学キャンパスと幕末の加賀藩本郷邸の位置絵図である。北に「水戸藩」、東に「富山藩」、「大聖寺藩」があった。将軍御三家のひとつの「水戸藩」より広かったことが分かる。
「加賀殿再訪」より
下図は加賀藩上屋敷の構成図で、中央部のピンク色と緑色の部分が「御殿空間」。それを取り囲む紫色、青色、黄色が「詰人空間」である。「御殿空間」のピンク色の所に屋敷があり、藩主やその家族が住んでいた。緑色の所には「心字池」を中心とした「育徳園」の庭園があった。赤門近くに「富士山」とあるが、40m近くの丘があり、江戸中が展望でき、富士山をはじめ品川の海までが一望できたという。
それ以外の「詰人空間」は区画の細かい建物が多くあり、2、3000人の江戸詰めの藩士や中間・小者などの武家奉公人が住んでいたという。
「加賀殿再訪」より
下図は「加賀藩江戸本郷邸泥絵」で、江戸時代幕末に多く描かれた名所絵のひとつの泥絵具で描かれたもので、藩邸の様子がイメージできる。
「加賀殿再訪」より
下図は「江戸図屏風」に描かれた本郷邸で、明暦の大火以前に描かれたものといわれている。屋敷の屋根には金箔瓦が描かれ、深山幽谷の「育徳園」の様子などが分かる。藩邸内に物を運ぶ小者などもなども描かれていている。
「加賀殿再訪」より
2016年7月7日木曜日
2016東京ドライブ(4)徳田秋声旧宅 東京大学(旧加賀藩上屋敷)①
2016東京ドライブ(3)の続きで、その後、「旧岩崎邸庭園」から近い本郷の「東京大学」に向かった。そして「東京大学」の正門の向かいの通りに入り、以前から近くに「徳田秋声旧宅」があるということを聞いていたので、そちらへ向かった。しかしなかなか見つからず、途中に二人の人に聞きながやっと見つけることができた。
しかし、鍵がかかっていて中を見ることはできなかった。現在は秋声の孫が住んでいると聞いている。「東京大学」の正門前の大通りから近いが、細い通りに入るとひっそりしたところだった。こういうところで長い間秋声が執筆活動をしていたのかと思いをはせる。
また、家の裏にある白い建物が、泉鏡花の弟が住んでいたというアパート(秋声と鏡花が和解したきっかけとなった)なのであろうか?(建物は改修はされているが)
秋声が使っていた書斎は、まだそのままあると聞いたが、見ることはできなかった。下図の写真は「徳田秋声記念館」にある再現された書斎。

「徳田秋声旧宅」を見た後「東京大学」に行き、正面から入った。ここは、言わずと知れた江戸時代には「加賀藩上屋敷」のあったところである。
構内での撮影は許可がいると、あらかじめ聞いていたので、前に立っていた警備員に確認したところ、「どうぞ、どうぞ」と言われ難なくは入れた。他にも見物客らしい人が何人もいた。
正門を入って、安田講堂までは銀杏並木があり、両側にレトロな建物が建ち並んでいる。
銀杏並木を超えると「安田講堂」がある。この建物は1921年に起工し、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年に竣工したというからかなり古い。
この建物で、何といっても思い出すのは1969(昭和44)年にあった大学解体を掲げ過激派学生たちが立てこもった事件で、機動隊と衝突し、機動隊が放水をしていた様子をテレビで見たのを覚えている。
闘争により一時荒れ果てたが修繕で修復し、現在は広場の地下には食堂が、また講堂の裏側には、生協購買部やコンビニなどが入っているという。講堂前の玄関のタイル、ガラス張りにはレトロな装飾がなされていた。
安田講堂の前を右に回ると大きな銅像があった。誰だか分らなかったが、後で調べてみると濵尾新(あまお あらた)という人物で、東大創成期に最も活躍した一人で、東大の発展に生涯を費やしたという。
この銅像の裏側の坂を下りると「三四郎池」に出る。夏目漱石の小説の「三四郎」以来、この名前がついたが、もとは旧加賀藩上屋敷の庭で、3代前田利常が1638年に築造された池で、その死後、5代綱紀が、さらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園のなかでも第一と称されているという。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の名称は「育徳園心字池」である。この庭園「育徳園」こそ、兼六園の作庭のきっかけとなった庭である。3代利常は、徳川秀忠、家光の「御成」のために作庭したものである。一体どんな庭園だったのであろうか?
池の近くに、この池に注ぐ滝があったが、この辺りにいると東京大学のキャンパスの中にいることを忘れてしまいそうな深山の中にいるような静けさだ。
しかし、鍵がかかっていて中を見ることはできなかった。現在は秋声の孫が住んでいると聞いている。「東京大学」の正門前の大通りから近いが、細い通りに入るとひっそりしたところだった。こういうところで長い間秋声が執筆活動をしていたのかと思いをはせる。
また、家の裏にある白い建物が、泉鏡花の弟が住んでいたというアパート(秋声と鏡花が和解したきっかけとなった)なのであろうか?(建物は改修はされているが)
秋声が使っていた書斎は、まだそのままあると聞いたが、見ることはできなかった。下図の写真は「徳田秋声記念館」にある再現された書斎。
「徳田秋声旧宅」を見た後「東京大学」に行き、正面から入った。ここは、言わずと知れた江戸時代には「加賀藩上屋敷」のあったところである。
構内での撮影は許可がいると、あらかじめ聞いていたので、前に立っていた警備員に確認したところ、「どうぞ、どうぞ」と言われ難なくは入れた。他にも見物客らしい人が何人もいた。
正門を入って、安田講堂までは銀杏並木があり、両側にレトロな建物が建ち並んでいる。
銀杏並木を超えると「安田講堂」がある。この建物は1921年に起工し、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年に竣工したというからかなり古い。
この建物で、何といっても思い出すのは1969(昭和44)年にあった大学解体を掲げ過激派学生たちが立てこもった事件で、機動隊と衝突し、機動隊が放水をしていた様子をテレビで見たのを覚えている。
闘争により一時荒れ果てたが修繕で修復し、現在は広場の地下には食堂が、また講堂の裏側には、生協購買部やコンビニなどが入っているという。講堂前の玄関のタイル、ガラス張りにはレトロな装飾がなされていた。
安田講堂の前を右に回ると大きな銅像があった。誰だか分らなかったが、後で調べてみると濵尾新(あまお あらた)という人物で、東大創成期に最も活躍した一人で、東大の発展に生涯を費やしたという。
この銅像の裏側の坂を下りると「三四郎池」に出る。夏目漱石の小説の「三四郎」以来、この名前がついたが、もとは旧加賀藩上屋敷の庭で、3代前田利常が1638年に築造された池で、その死後、5代綱紀が、さらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園のなかでも第一と称されているという。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の名称は「育徳園心字池」である。この庭園「育徳園」こそ、兼六園の作庭のきっかけとなった庭である。3代利常は、徳川秀忠、家光の「御成」のために作庭したものである。一体どんな庭園だったのであろうか?
池の近くに、この池に注ぐ滝があったが、この辺りにいると東京大学のキャンパスの中にいることを忘れてしまいそうな深山の中にいるような静けさだ。
2016年7月1日金曜日
2016東京ドライブ(3) 旧岩崎邸庭園 和館 撞球室
2016東京ドライブ(2) 旧岩崎邸庭園の続きで、その後、洋館の隣にある和館を見た。ここは、書院造りを基調とした、当初建坪550坪におよび洋館よりも大きかったいう。現在は、冠婚葬祭などに使われた大広間の1棟だけが残っている。
和館前の手水鉢や庭石、木斛の大木にその面影を見ることができる。この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えているという。
施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられている。部材のひとつひとつに、現在では入手困難な木材が多く使われているという。
当時に描かれたという「木の葉や枝にとまっているミミズク」の絵が板戸に残っていた。
書院造りにつきものの古めかしい趣のある「床の間」や「違い棚」があった。「床の間」の後の壁には、橋本雅邦が下絵を描いたといわれる「富士山と波」と思われる絵が薄く描かれているのが見えた。
床の間の横の書院障子の組子は、三菱の「菱紋」をモチーフに組み立てられている。建具の細部まで意匠への心配りが見られる。
広間と隣の部屋の間にの欄間はやはり三菱の関係からか「菱形」にくりぬかれていた。ここの部屋には「お土産」が並び、ここで和菓子とコーヒーを頂き一服した。
コンドルの設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建っている。当時の日本では珍しいスイスの山小屋風の造りとなっている。全体は木造構造で、校倉造りの壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカのゴシックの流れをくむデザインだという。
内部には貴重な金唐革紙の壁紙が貼られたところがある。ビリヤードをする建物を造るということは、岩崎久彌がよっぽど好きだったのか、このころの上流階級の社交場として利用されていたのだろうか?
和館前の手水鉢や庭石、木斛の大木にその面影を見ることができる。この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えているという。
施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられている。部材のひとつひとつに、現在では入手困難な木材が多く使われているという。
当時に描かれたという「木の葉や枝にとまっているミミズク」の絵が板戸に残っていた。
書院造りにつきものの古めかしい趣のある「床の間」や「違い棚」があった。「床の間」の後の壁には、橋本雅邦が下絵を描いたといわれる「富士山と波」と思われる絵が薄く描かれているのが見えた。
床の間の横の書院障子の組子は、三菱の「菱紋」をモチーフに組み立てられている。建具の細部まで意匠への心配りが見られる。
広間と隣の部屋の間にの欄間はやはり三菱の関係からか「菱形」にくりぬかれていた。ここの部屋には「お土産」が並び、ここで和菓子とコーヒーを頂き一服した。
コンドルの設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建っている。当時の日本では珍しいスイスの山小屋風の造りとなっている。全体は木造構造で、校倉造りの壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカのゴシックの流れをくむデザインだという。
内部には貴重な金唐革紙の壁紙が貼られたところがある。ビリヤードをする建物を造るということは、岩崎久彌がよっぽど好きだったのか、このころの上流階級の社交場として利用されていたのだろうか?
2016年6月27日月曜日
2016東京ドライブ(2) 旧岩崎邸庭園 洋館
2016東京ドライブ(1)の続きで、次の日の午前中は、約10年間過ごした品川の近所で親しくしていた人と会って、久しぶりでの再開を楽しんだ。
その後、山手線に乗って「御徒町」で下車して、「旧岩崎邸庭園」へ行った。
ここは1896(明治29)年に、三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の長男の三菱社長の久彌(ひさや)の本邸として造られた。往時は約15,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいたという。現在は1/3の敷地となり、現存するのは洋館・撞球室・和館大広間の3棟のみである。
洋館は、日本の西欧建築の父ともいわれるイギリスの建築家のジョイサイア・コンドルが設計した。
同じころの西洋建築にはない、細かい装飾がなされている。
洋館の中はガイドさんについて説明を受けながら回った。
17世紀の英国ジャコビアン様式の見事な装飾があちこちに見られ、イギリス・ルネッサンス様式やイスラム風のモチーフなどが取り入れられているという。
2階の客室には、貴重な金唐革紙の壁紙が貼られていた。
1階の婦人客室天井にはシルクの日本刺繍のの布張りになっていた。
洋館の南側は、列柱の並ぶベランダ(東南アジアの植民地と発達しコロニアル方式を踏襲)で、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の特徴を持っているという。
また、1階のベランダには、英国のミントン社製のタイルが目地なく引き詰められていている。
庭園は、江戸時代の越後高田藩榊原氏、および明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷で、大名庭園を一部踏襲していたという。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しているという。
往時をしのぶ庭には、江戸時代の大きな灯篭があった。
その後、山手線に乗って「御徒町」で下車して、「旧岩崎邸庭園」へ行った。
ここは1896(明治29)年に、三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の長男の三菱社長の久彌(ひさや)の本邸として造られた。往時は約15,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいたという。現在は1/3の敷地となり、現存するのは洋館・撞球室・和館大広間の3棟のみである。
洋館は、日本の西欧建築の父ともいわれるイギリスの建築家のジョイサイア・コンドルが設計した。
同じころの西洋建築にはない、細かい装飾がなされている。
洋館の中はガイドさんについて説明を受けながら回った。
17世紀の英国ジャコビアン様式の見事な装飾があちこちに見られ、イギリス・ルネッサンス様式やイスラム風のモチーフなどが取り入れられているという。
2階の客室には、貴重な金唐革紙の壁紙が貼られていた。
1階の婦人客室天井にはシルクの日本刺繍のの布張りになっていた。
洋館の南側は、列柱の並ぶベランダ(東南アジアの植民地と発達しコロニアル方式を踏襲)で、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の特徴を持っているという。
また、1階のベランダには、英国のミントン社製のタイルが目地なく引き詰められていている。
庭園は、江戸時代の越後高田藩榊原氏、および明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷で、大名庭園を一部踏襲していたという。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しているという。
往時をしのぶ庭には、江戸時代の大きな灯篭があった。
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