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2020年7月28日火曜日

小立野3丁目界隈(2)聞敬寺 善光寺坂

小立野3丁目界隈(1)の続きで、さらに歩いていくと右側の奥の方に「聞敬寺」というお寺がある。
1677(延宝5)年に、現在の小立野1丁目付近に聞敬坊として創建された。1821(文政4)年にな七カ町村の惣道場として現在地に建てられ、1880(明治13)年に「聞敬寺」となった。



















本堂の障子の隙間から見えた、金一色塗りの宝相華花草文様が見事な内陣の欄間は、200年以上の欄間様式であるという。
























本堂の前にクロマツの立派な木があるが、高さ18m、幹周り2.9m、枝幅16mで金沢市指定の保存樹となっている。小立野台地のこの辺りの貴重な緑であるという。
























静かな住宅街にちょっと奇抜なや建物があった。大戸があり、ガラス格子戸の枠や2階の手摺などが紅殻色だった。



















後で通った時に店の前が開かれていて、きれいな和傘や桐工芸の火鉢など金沢の伝統工芸品が並べられていた。また、鴨居の上に家紋が描かれた箱が並べられていたので古い町屋なのだろう。現在は何の店なのかよくわからなかった。



















そのすぐそばには店先に野菜や果物が並べられ、この辺りの便利な小さなマーケットである「ひまわりチェーン」があった。



















さらに歩いていくと「善光寺坂」の標柱があり「昔この付近に善光寺という寺があったのでこの名で呼ばれている。」とあった。
























この坂の下り口の右側に大きな地蔵堂がある。



















窓から中をのぞくと、大変大きな顔の地蔵さんが、目を細めて笑っているような、祈っているような心優しそうな顔をしている。幕には梅鉢紋が描かれている。



















この「善光寺坂」は、どこに善光寺があったかは分からないという何の変哲もない坂で、斜度は3度から4度で長さが300mというなだらかな坂である。また、緩やかに曲がっているので先が見えない。
























坂の途中に別に下りる道が何本かあるようだが、この先は個人の家に行くのかよくわからない。この下側には「大清水」という湧き水が出ている方向に行くはずだ。



















この後、ランチをとるために「マルエー小立野店」の向かいにある洋食の店「グリルニュー狸」に入った。

私は初めての店だが店内は結構混んでいて、近辺では有名な店らしい。ハンバーグとカキフライと野菜サラダが出てきたが、おいしかった。










2020年7月16日木曜日

一乗谷朝倉氏遺跡(2)

一乗谷朝倉氏遺跡(1)の続きで、「復元された街並み」を歩いた。下図は復元された武家屋敷で、東西30m、南北30mの敷地がある。発掘により2か所に門、主屋、茶室、庭などが発見された。他に日常使われる蔵や井戸、便所なども復元された。この復元武家屋敷は、発掘遺構面に60cm土盛りし、当時の材料、工具、技術などを十分検討して建てられたという。



















堀に面して朝倉館跡正面に立つ「唐門」は、この遺跡のシンボル的な存在となっている。幅2.3mの唐破風造りの屋根で、戦国時代の朝倉氏の遺構ではなく、後に建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うため造られたとされ、現存する門は江戸中期に再建されたものらしい。
























下図は5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500m程の敷地があり三方は土塁と濠で囲まれている。三方は土塁にはそれぞれ門を開き、西門を正門としている。また濠をへだてた南には、関連や屋敷の拡がりもあり、西方には馬場が存在していた記録されている。東の山裾は一部がこの館に取り込まれ、一段上がった平坦部には「湯殿跡」という庭園なども残っている。




















下図の朝倉館復元模型は、発掘による成果をもとに、現存する建物の様式や文献資料などを参考にして推定復元したものだという。10数棟の建物が整然と立ち並んでいる。これらの建物は、その柱間寸法や方位のずれから二期に分けて造営されたものとみられる。多くの建物は常御殿とみられる館内最大の建物を中心に、その南方の庭園を取り囲むように配された表向き(接客)施設群と、北方の台所などの内向きの日常生活群と土塁上の隅櫓などの警護施設群に大別できるという。



















一乗谷には、庭池を伴った林泉式庭園として湯殿跡、南陽寺跡、諏訪館庭園、館跡の4つの庭園がある。そのひとつ「諏訪館跡庭園」は、朝倉館跡を見下ろす高台にあり、まずは荒々しい石組がすごい。どの石も力強い表情を持ち迫力がある。鶴岩亀岩を思わせる中島や出島があり、水路が山際に沿って南から北に走り滝口にそそぐ池泉庭園のもっとも古いとされる庭園である。江戸時代の多くの大名庭園の先駆けともいえる。



















この一乗谷を見下ろす東の山稜には山城が築かれていた。大きな礎石がある「千畳敷」、土塁をめぐらした観音屋敷、赤渕神社、福井を一望できる宿直、小高い丘の本丸、一の丸、二の丸、三の丸などと呼ばれる郭群が、自然を巧みに利用して空堀、堀切、竪堀、伏兵穴が多数残っている。




















一乗谷朝倉氏は織田信長によって滅びたが、応仁の乱後に一乗谷には公家や文化人たちが戦禍を逃れて居を移していた。彼らに従って茶道、華道、、連歌、能楽などの音曲なども都から移り、彼らの高雅な生活を支えるため、技術者たちも集まった。今日越前地方の伝統工芸とされる、越前和紙も漆器も焼き物も、そして能楽の伝統も、すべて文化水準の高かった朝倉氏の時代に培われたものだった。その美意識は脈々と越前に伝えられている。
帰りに一乗谷朝倉氏遺跡資料館に寄って、展示物を見学した。
繋馬図屏風からは、区分けされた馬小屋に馬を繋いで、武士たちが余暇を見つけた遊びに興じていたことが見える。



















双六で使用したサイコロや将棋の駒などが出土している。



















一乗谷から発掘されたガラス片から復元されたコブレットで、日本最古のベネチアングラスとされる。三国港から九頭竜川、足羽川、一乗谷川と舟運がつながっていたので、外国のものも手に入ったのだろうという。





2020年3月13日金曜日

石引界隈(1)二十人坂、欠原菅原神社

今回は、石引界隈のお寺がいくつか集まっているところを行こうと思い、まず「二十人坂」を上った。ここは藩政時代、足軽二十人組が住んでいたことから名付けられた坂である。足軽屋敷は二十組とか五十人組などが多いが、ここは二十人組の足軽鉄砲隊が住んでいた所という。この通りはフラットバスが通る坂で、ずっと上がっていくと小立野大通りに出る。またこの辺りは桜のきれいなところである。



















二十人坂にある「一本松陸橋」の下には川は流れず、地域住人の生活道路が立体交差している。また、その下にある「揚地町陸橋」も同じである。藩政期からの道の上側に交差するように、戦前に「軍用道路」として「二十人坂」が小立野台地と寺町台地にあった「野村練兵所」を結ぶための道路として造られたために、このようになったらしい。



















「揚地町陸橋」と「勘太郎橋」が見える。



















「一本松陸橋」をくぐった向こう側に「旧一本松」の碑があり「もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる」とあった。
























この坂の近くに「勘太郎川」が流れているが、この川は笠舞1丁目辺りにある湧き水の「大清水」を水源として、いくつもの辰巳用水の分水が合流されて、この辺りを流れている。
ここは、辰巳用水の「石引門」から流れてくる分水が「勘太郎川」に合流している所である。
























「二十人坂」の下には、アーチ形のトンネルもあり「勘太郎川」が流れている。




















この辺りは、坂道でなおかつ曲がりくねっていて、いつも通らない人は、非常に分かりにくい道である。



















 この迷い道の途中に町家の白い暖簾に「二十人坂針灸院」と描かれた店があった。



















曲がりくねった道を上がると、朱色がまぶしい鳥居のある「欠原菅原神社」があった。ここは、鷹匠町に住む藩士津田家(1300石)の邸内社であったものを明治13年に東照宮(尾崎神社)の神職高村勝久が移したものだという。そして2018年に崖崩れにより現在地に移されたばかりだ。




























普段は閉まっているが、ちょうどこの日に、神社の関係者が用事で中にいたので、入ることができた。
まだ木の匂いが残る新しい本殿は井波彫刻、銅板は高岡銅器という小さいが立派なものである。祭神は菅原道真、金毘羅神である。
























そのすぐ近くに横道が走っていて、立派な石垣があり、その上にはお寺が集まっている所だ。

2019年10月17日木曜日

北国下街道下口(3)やちや酒造

北国下街道下口(2)の続きで、さらに北国下街道を歩いていくと、右手に大きな町屋「やちや酒造」の店がある。間口が7間の2階建てで、屋根は切妻、桟瓦葺き、大戸の横に長い格子戸がある。玄関の上には「清酒 加賀鶴」の暖簾がかかり、酒屋のシンボルの「杉玉」がかかっている。



















 金沢でただ1軒残された土蔵造りの酒蔵で、前田利家公のお供をして尾張から移住してから、創業1628(寛永5)年で、前田家の藩御用達の酒造りを行っている。



















玄関の横には、「加賀鶴」の大吟醸や純米酒など多くのお酒が並んでいた。「加賀鶴」は藩主から送られたもので、百万石の銘酒と言われる所以である。店内に、ここの前会長が今の上皇が天皇時代の「園遊会」の参加や賞状を受けている写真なども飾ってあった。



















金沢の地酒として藩祖「前田利家」と所縁があるのでその名前の銘酒もあった。
























この店で有名なのは「前田家」所縁の「ひな飾り」があり、ひな祭りの季節になったらこの店内に飾られる。16代前田利為の菊子夫人が輿入れされた時に持ってこられ、その娘の酒井美意子さんに受け継がれ亡くなった後、ここの会長が譲り受けたという。その新聞記事が掲載されていた。



















店の奥には大きな古民家の「茶の間」が見え、板の間に囲炉裏、自在鉤、茶箪笥などレトロなものが置かれていた。
























囲炉裏の上は天井が高く、太い梁が張られていた。また中央に洒落た和紙(?)で作られらた灯りがぶら下がっていた。
























「加賀鶴」と書かれた額の下には、華やかな紋と花柄模様の「花嫁のれん」が飾られていた。



















青く染められた暖簾には梅鉢紋と加賀鶴の字が書かれていた。その上に「加賀鶴」と書かれた小さな酒桶(?)が掲げられていた。



















11月になったら能登杜氏四天王のひとりの山岸昭治杜氏が来られて仕込みが始まり、3月ごろまで行い、忙しい季節になるという。部屋にお酒ができるまでの工程が掲載されていたが、多くの工程があるので、さぞ大変な作業なのだろう。



















店の裏に酒蔵や酒造製造工場があるということで裏道を行ったが、工場の事務所の建物や塀で見ることはできなかった。


2019年3月6日水曜日

大和町広場(2)市民芸術村②

大和町広場(1)市民芸術村①の続きで、広場のわきに「パフォーミングスクエア」という変わった形の建物が独立して建っている。ここには、芸術村で一番大きな練習場があり、大編成での練習に使用されているという。



















この日も、ピアノを含めた管弦楽団員たちが練習をしていた。



















連なったレンガ棟の奥に「里山の家」という大正時代に金沢市郊外に建てられた古い農家を移築された建物がある。ここは、多目的な文化活動に活動できる施設である。

































この日は、シニアの「ギター弾き語り」のグループが練習していた。囲炉裏のある(今回は塞がれていたが)「オエ」で心地よいメロディーが聞こえ、ちょっとふすまを開けると「どうぞお入りください」といわれたので、私も一時期かじっていたことがあるので30分ほど聞かせてもらった。ここで月に2回練習をやっているらしく、非常にうまく人前でもよく演奏しているようだった。



















床の間に掛け軸や生け花が飾られている素晴らしいお座敷には、グループのギターが置かれていた。



















「大和町広場」の入り口の左側に「事務所棟」があるが、この建物は外観から見るとレトロなものなので「旧大和紡績」から建っているものだろう。もちろんここも改装された所とそのままの所があるらしい。



















1階は「芸術村」の受付をやっている事務所や研修室があり、2階には広い和室があり、ここでは今日は、子供たちの演劇の練習をしていた。



















このフロアや階段、窓などはかなり古そうだ。



















入口の右側には洒落たレンガ造りの建物があるが、ここはカフェとイタリアンレストランとなっている「れんが亭」である。以前に打ち合わせなどで何度か利用したことがある。