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2021年6月5日土曜日

小原古邨展(3)

 小原古邨展(2)の続きで、ここでは欧米で人気を集め、日本ではほとんど知られてなかった「小原古邨」の人物像について調べたのものを紹介する。

1877(明治10)年に生まれた「小原古邨」は、下図の1930(昭和5)年、53歳の時に撮影された1枚しか現状ではないという。

























古邨は金沢から上京して、花鳥の美を描いた日本画家の鈴木華邨(1860~1914)に師事した。しかし師事した経緯は不明で、いつ上京したかもはっきりしない。古邨の足取りはぼんやりしていて、よくわからないという。
古邨は世に出した作品以外は、自分のことについては何も語っていないという。しかし来日した欧米人は世に出た作品を放ってはいなかった。
米国出身で、日本の美術をこよなく愛したフェノロッサの指導を受けて、米国に輸出する花鳥画を数多く手がけたという。文明開化で遅れた日本の伝統の美の価値を大きく見出した人物である。古邨の作品が海を渡るうえでの、この上ない後ろ盾になったのだろう。

昨年、東京の古書市で小原古邨の空白部分を埋める資料が発見された。古邨の師である日本画家の鈴木華邨に一式である。日記帳、写真など約40点が一つの箱の中に収まっていた。ここから「小原古邨」と表紙に朱書きされたスケッチ帳が見つかった。ワシやキジといった鳥やボタンの花などが墨で書かれ、一部が彩色が施されていた。このことからか、日本ではあまり知られていなかった「小原古邨」が一躍スポットライトを浴びるようになったと思われる。



















鈴木華邨のスケッチ帳も見つかっているが、華邨は「石川県工業学校」の図案科で教鞭をとった。金沢区立の工業学校として1887(明治20)年に開校し、2年後に石川県に移管され「石川県工業学校」と改称された。1901(明治34)年に現在「県工」のある場所に移転するまでは、兼六園そばの出羽町に位置していたという。

















初代校長の旧佐賀藩士、納富介次郎は殖産興業の騎手で、いち早く地方産業の育成に目を向けて、招かれて石川県にやってきた人である。
























納富介次郎は古邨の師である鈴木華邨を東京から金沢に招いて1889~93年に図案化で教鞭をとった当時の一流の日本画家である。四条派や琳派などの画風を学び、特に花鳥画を得意とし海外の万博に盛んに出品していたという。
明治時代は富国強兵のためには、日本は何よりも外資が必要だった。そのため陶芸や漆器など工芸品を海外輸出を盛んに行っていた。その工芸品に必要なのが優れた図案で、古邨も少年時代に海外に出ていかなければならないという思いがあったであろう。どういう関係で古邨と華邨がつながったかは分かっていないが、華邨が金沢に来ているときに、華邨の才能を見出し、東京へ連れて行ったと思われるという。その後、画家としての名声を高めていき、海外に向けての木版画を次々に発表していたことに繋がる。
下図の銅製の洋灯は「鈴木華邨」の図案で鈴木長吉の作品で、明治16年のアムステルダム博覧会に出展された。写実的な栗鼠とブドウが見事
























「藤と鶏」が描かれた明治期の輸出陶磁器で、藤棚の下に鶏とひよこの絵付けが素晴らしい。
























古邨の父小原清之丞為則は加賀藩士で、人持組で1万石の本多図書家の家臣だった。為則は足軽で、4人扶(7,2石)の収入で小原家は決して裕福ではなかった。古邨は為則の三男として1877(明治10年)すなわち西南戦争があったときに生まれており、世の中の政情が不安定な時である。父の為則は、古邨が5歳の時に亡くなった。幼いころに父を失ったことから、手に職を付け生きていかなければならなく自立、自活への思いが大きかったのでは思われる。
















古邨が生まれたのは金沢の下本多町5丁目(現在は本多町3丁目)で、近くには旧平尾家住宅がある。(現在は金沢湯涌江戸村に移築されている。)この場所は、今の県立工業高校に近くまた、「鈴木大拙」の誕生地に近いところである。
























古邨が眠る小原家のお墓は、以前このブログで紹介した「小立野界隈 仰西寺」にある。ここには、幕末から大正時代に活躍した加賀蒔絵の名手「沢田宗沢」や藩政期の名工として名をはせた「兼重」、「兼豊」などのお墓もあるという。
























現在は石川県歴史博物館で、後半の「小原古邨展」が開かれている。
大正時代に入って、「古邨」は「祥邨」と改めに肉筆画の制作に専念するが、昭和に入って渡邊庄三郎が経営する店から、伝統木版画の復興を目指す「新版画」として、再び花鳥版画を制作するようになった。昭和前期には新版画の展覧会が海外の様々な国で開催されており、「古邨」の作品も好評を博したという。










































「工芸王国石川」の名前にふさわしい隠れた優れた画家が見つかったということは、また素晴らしいことである。

2021年5月31日月曜日

小原古邨展(2)

 小原古邨展(1)の続きで、小原古邨の木版画の特徴について紹介する。

江戸時代に流行った「浮世絵」の中には、木版画が使われ大衆庶民に広まったのは、大量生産と低価格が可能で、蕎麦1杯分で買えるようになったことがあげられる。特に「歌川広重」や「葛飾北斎」、「喜多川歌麿」など有名な絵描きが出ている。「浮世絵」は絵師本人が好んだ絵柄がそのまま売れるのではなく、大衆が認めたものが売れていき、人々の感性に支えられてだんだん洗練されて、芸術性が高まったという。

「葛飾北斎 富嶽三十六景」より


















「歌川広重 東海道五十三次」より










明治に入って外国に日本の「浮世絵」ブームが起こり高い評価を受けたが、その頃は「葛飾北斎」などの名品は入手困難で、その当時活躍していた画家たちに絵をかいてもらい、伝統的な浮世絵を駆使して摺った作品を輸出した。外国人に浮世絵がどう思うかを相談しながら試行錯誤を苦理解した。そういう中に「古邨」も画家のひとりとして「新版画」として加わっている。

「浮世絵商の小林文七は版元として出版した木版多色摺りの画帖」より








古邨の花鳥風月は、江戸時代の錦絵と呼ばれ、錦絵は浮世絵木版画であり、多数摺りの木版画はは何人もの協力者がいて、様々な工程を経て作品が出来上がる。絵師や彫り師、摺師などの共同作業から作り上げていく伝統的な方法である。








蓮の葉を帽子にして踊る狐は、ふさふさの毛が揺れ、見る人を和ませる図であるが、いくつかの絵図には、見比べると足取りに合わせて摺られた背景のぼかし、狐の毛並み、微妙に落款の位置も異なる。通常の大きさではわからないが、拡大してみると狐の細かい毛並みまではっきりわかるという。つまり彫や摺りによって異なった複数のパターンがある。


















「月に桜と鳥」の2図は、黒いカラスの腹の部分の羽の色が異なっているが、片方は雲母を使って灰色にキラキラしたものが見える。
























明治時代に美術錦絵と称した古邨の花鳥版画は、高度の彫りと摺りを必要とするものであった。下図は「蓮と雀」の版木で多くの版木が必要で、1枚に数回摺り重ねた個所や天候のために、実際には50~60回ほど摺り重ねられるという一つの版画が完成するまでには大変な作業であることを知った。





















2021年5月26日水曜日

小原古邨展(1)

今回は、石川県歴史博物館で「小原古邨展」をやっていたので、見に行った(5月10日)。この人は今まで全く知らなかったが、家のものが見たいと言っていたので、この人のことをいろいろ知るにしたがって私も見に行きたくなった。






































金沢出身の絵師・小原古邨は明治20年の生まれで、身近な自然が見せる一瞬の美をとらえた作品で、制作当時から海外で高い人気を誇り、最近ようやく国内でも注目を浴びているという。
























世界を魅了した小原古邨の花鳥版画の展示は金沢で初公開という。ワクワクして2階の特別展の部屋に入った。この展示は、浮世絵蒐集家・原安二郎(1884~1982)のコレクションにかかる明治期の作品に加え、安二郎の子孫が大切に保管されてきた大正・昭和期の作品も多いという。



















ここからはカメラ禁止なので、ポスター・はがき、その他の写したもので、私の気に入ったものを何点か紹介する。
まず目についたのは、スイスの高級時計メーカのフィリプスが2019年に腕時計の文字盤に「小原古邨」の木版画をもとにデザインしたものを売り出すと、即座に完売し一躍クローズアップされたという。華やかな花と躍動的な鳥が生き生きと描かれている古邨の作品はヨーロッパで特に人気があったという。


















「波に燕」は、波の紺、濃藍、白など色も複雑である。燕の紫燕、燕の羽の色なども複雑である。それよりも飛んでいる燕の姿がいかにもリアルに飛んでいる姿が素晴らしい。
























「桜とみみずく」も羽を広げたみみずくの躍動感が目を見張る。みみずくの複雑な羽の色や目を見ても生き生きと描かれている。




















「蓮に雀」は、蓮の花弁が開き始めた早朝、その茎に小雀が舞い降りた。夜露をためた葉が、小雀の重みに耐えきれずにこぼれ落ち、水音を響かせる。この現物の絵は花弁がこんもり立体感があり、雀もリアルである。




















「竹と雀」はポスターにもなっているが、顔をのぞかせた雀と目が合った瞬間に、雀と同じ空間にいるような気持になる。地面や竹の上部に施されたぼかしとグラデーションが、画面に一層の奥行と高さを生み出している。




















「雪中の鷹」は雪が積もっている枝に鋭い爪をもった鷹がどっしり留まっている。
























歴史博物館のガラス張りの休憩室で、自販機のパンとコーヒで一服した。このガラスに今回の特別展の「小原古邨」の絵が貼られていた。「鉢の中の金魚と猫」



















「紫陽花と雀」

2019年5月31日金曜日

中村記念美術館 青の世界

「耕雲庵」の茶室を見た後、中村記念美術館に入ったが、ここは、これまで2,3回入ったことがあると思う。



















今回は、「BLUES~和の空間に見る青」というテーマで企画展が開かれている。美術品の中には数多くの”青い色”が散りばめられているが、青、藍、群青、紺青、青緑などのさまざまな語であらわされる青い色は、絵画では瑠璃(ラピスラズリ)や藍銅鉱(ラズライト)を原料とした絵具として用いられる。陶磁器や染織、漆芸などはそれぞれの技法で青い色を表現している。ここでは、その青をもつ作品を一堂に展示されている。



















展示品を見る前に喫茶室で庭園を見ながら抹茶を頂き一服した。





















展示品の一点一点にカメラ禁止のものとそうでないものが表示してあったので「カメラOK」のものについて紹介する。
瓢型の壺の全面に瑠璃釉をかけ、赤、金、銀を使い、藤、桐、桔梗を描いたもの
























淡い水色を背景に、見込みに黄色の虎と二頭の緑色の龍を、器側面にカラフルな牡丹唐草を有線七宝の技法で表した小さな水差しである。有線七宝は、金属のボディの上に、ガラス質の釉薬を盛り、高温で焼いて作る技法だという。




















六曲一双の画面の右から左に向かって、春夏秋冬の花木と鳥が描かれている。春は桜や石楠花、バラなど、夏は牡丹、杜若など、秋は芙蓉、菊、桔梗など、冬は山茶花、水仙など。四季を問わず常緑の松も描かれている。鳥は雉、鷺、鴛鴦などのつがいが戯れている。はっきりした色調で花や鳥などが描かれている。





















霧が払われて深山幽谷が眼前に姿を現した光景を描いている。青や緑の顔料を中心に描いた「青緑山水」で、筆者は明治、大正に活躍した「山田介堂」という南画家という。雲や霞を効果的に使った山水画を得意とした。
























赤い色釉をほとんど用いず、青や緑を主とする「青手」と呼ばれる「古九谷」である。




















文様の境界を細い線で盛り上げ、区切ることにより異なる釉薬を混じることを防ぐ「放花」という陶芸技法を使った作品。これは濃紺、水色、黄褐色の三彩で彩られ、深い彩色が重量感のある器体と調和している。



















赤、緑、青、紫の四彩の深く鮮やかな発色の古九谷独特の風格がある。青色は雲や稜線、岩肌、家の影など部分的で、空や水面は余白で表されている。

2017年6月24日土曜日

能登守護畠山氏と長谷川等伯(2)七尾美術館 長谷川等伯

能登守護畠山氏と長谷川等伯(1)の続きで、その後、七尾美術館に行った。ここは、十数年前に親戚の人らと七尾・能登島に一泊のドライブをしたときに寄ったとき以来である。



















ここでは、七尾市出身の桃山時代の日本を代表する絵師である「長谷川等伯展」を見た。この催しは毎年1回は特別展としてやるという。



















早速、ここの学芸員である北原洋子氏から「長谷川等伯」についての講義を受けた。
館内の「等伯」の絵などはカメラ禁止だったので、講義に使われたプロジェクタの画面から少し紹介する
前田家が入り金沢が加賀百万石になる前は能登の七尾が中心だったという。



















等伯は、この七尾で生まれ20歳のころには「信春」という名前で仏の絵を描く絵師になった。うまくなると七尾から京都へ絵を学びに行く身近な人がいたので、「京都でたくさんの絵を描いて、自分の力をためしたい」と思い、等伯も33歳の時に京都に修行に出た。そのころは狩野派の画家が大人気だったので、当初は狩野派の絵を勉強したが、「自分らしい絵を描きたい」ということで、別の道を進んだという。そういう時に、あの有名な茶人の「千利休」が応援してくれて、多くの弟子ができ、狩野派に負けない長谷川派ができたという。



















下図は「日蓮上人像」で。等伯が20~25歳位の作品で、養父「道浄子息」と描かれている。このころは養父の方が有名であったのか?羽咋市の「妙成寺」の所蔵品



















下図はよく見るお釈迦さまの「涅槃図」で、左端が等伯の描かれたもので一番鮮やかな色合いである(羽咋市 妙成寺蔵)。中央は養父の「道浄」筆のもので、右端は、それより以前に描かれたもので無文筆である(穴水町 来迎寺蔵)。「等伯」が参考にしたのではないかということである(七尾市 長壽寺蔵) 



















ここで私が初めて知って驚いたのは、等伯が京都の行った桃山時代の京都の堀川通や小川通付近に「法華上層町衆」があり、本法寺には本阿弥一門(刀剣御用)、五十嵐一門(蒔絵御用)や妙覚寺には後藤一門(彫金御用)、狩野(絵画御用)、楽一門(陶芸御用)などそうそうたるメンバーが集まって工芸に関する技術に取り組んでいたのが分かったことである。後の金沢の工芸の発展に大きく影響した人たちも集まっていたのか?

































続いて、等伯が描いた有名な絵図を紹介する。
「達磨図」は等伯40歳ころの作品で七尾市 龍門寺蔵で、座禅修行をしている鋭い目が印象的なお坊さんが描かれている。



















下図は、京都市 圓徳院の襖絵で、当初は白い模様だけで絵はなかったが、衆僧が止めるのも聞かずに、勝手に絵を描いたという。桐文様を雪景色にみたてて山や木、家などを描いたのでないかという。



















下図は、等伯が描いた日本水墨画の最高傑作の国宝「松林図屏風」とそっくりな複製画で誰が描いたかわかっていない墨を濃くしたり薄くしたりして松林を描いている。七尾で生まれた息子と遊んだ松林を描いているのか?。