金沢の農業に尽くした人々(1) ふるさと偉人館の続きで、次に「加賀れんこん」は、栽培が始まったのは約300年前の5代綱紀のころだといわれているが、藩政期には薬用や冠婚葬祭で用いられる高価なものだった。しかし、日当たりが悪く、稲作に適さない場所の金沢の近郊の大樋町で栽培されるようになった。
明治20年ごろから蓮根の商品性が注目されるようになり、最初に蓮根栽培の有利性に着目したのが本岡三千治と表与兵衛で、本岡三千治は大衆免(だいじゅめ)村(現在の森山1丁目)の肝煎り(きもいり)の家に生まれ、当時県会議員を務めていたという。三千治は馬場から春日町にかけての地域で蓮田開拓を先駆けて手を付けた。与兵衛は小坂村の戸長(村長)を務めた人で、新しい品種の「浅根蓮根」を導入した。二人の尽力によって小坂地域一帯に蓮根栽培が広がっていったという。その後、三千治の養子である本岡太吉によって「枯れ知らず」という、当時の蓮根では最も病気に強く収穫も多い蓮根が導入され、ますます蓮根栽培が盛んになった。「加賀蓮根」の名前を命名したのは太吉によるものであるという。
「加賀れんこん」は、節と節が短く、肉質がち密で雪肌のように白い。(下の写真は泥が付いているので黒い)煮物、酢の物、汁物、蒸し物などいろいろな料理ができる。私は特にれんこんの団子汁が大好きである。
その他に、稲の新品種「大場」を発見した「西川長右衛門」について、説明があった。
藩政期末に。加賀藩では主要な年貢米として「巾着」という品種が栽培されていた。大場村の西川長右衛門も「巾着」を栽培していたが、1853(嘉永6)年にいつも通り田を見回っていた長右衛門は、これまで見たことがない稲穂に気付いた。「のぎ」という殻に針状の毛がない稲穂で、粒も大きく、数も多い稲穂だった。突然変異のこれを長右衛門は大事に育て、3年で田1枚に作付けできるようになったという。この新品種を村の名前と「のぎ」のない坊主頭のようなことから「大場坊主」と呼ばれた。「大場」は「巾着」より早く収穫でき、質、量とも優れていたので、新たな年貢米として広がった。「大場」はその後も品種改良が進められ、現在の「コシヒカリ」に繋がっているという。
もう一人は日本で最初にホルスタインを輸入した「水登勇太朗」の説明があった。
藩政期には日本で牛乳を飲む習慣はなかったが、日本で最初に牛乳を販売されたのは1874(明治7)年で、明治12年金沢にアメリカ人宣教師のトマス・ウィンが来た。水登勇太朗はウィンから牛乳の必要性と搾乳技術を学び、明治14年に「金沢養し社」という会社を興し牛乳の製造を始めた。
大桑町に牧場を開き、国産の牛から牛乳を搾って病院を中心に納められていたが、1頭からはわずかしか採れなかった。勇太朗はアメリカにホルスタインという牛が多くの乳を採れることを知り、明治22年に日本で最初となる雄雌1頭づつのホルスタインを輸入した。他の品種も試したが、ホルスタインが最も良いということで、増やし続けたことにより石川県は日本一の生産量となり「ホルスタイン王国」と呼ばれるようになったという。
水登勇太朗は、また、動力織機を開発した津田米次郎に援助したことでも有名である。
ここで、「加賀野菜」について紹介する。「加賀野菜」とは、1945(昭和20)年以前からおもの金沢で栽培されている野菜で、15品目が認定されている。
先に紹介した「源助大根」、「打木赤皮甘栗」、「加賀つるまめ」や「加賀れんこん」の他に「加賀野菜」として下記のようなものがある。
「さつまいも」は焼いも、ふかしいも、天ぷら、お菓子の材料に使われる。五郎島・粟ヶ崎・大野・大徳などで栽培されている。
「たけのこ」は、天ぷら、煮物がおいしく、穂先は和え物やお吸い物などに使われる。内川や富樫地区などが産地である。
「加賀太きゅうり」は、やわらかく日持ちがよく、煮物や酢の物、サラダなどに最適。安原地区などは主な産地。
「金時草」は、葉の裏が鮮やかな赤紫色で、ぬるぬるした独特の風味で酢の物などさっぱりと食べるのが一般的である。花園地区などが主な産地。「金時草のおひたし」は私も大好きである。
「ヘタ紫なす」は、皮が薄く肉質が軟らかく、夏の一夜漬けは天下一品で私も大好きでご飯も進んでしまう。崎浦地区が主な産地。
「金沢春菊」は、葉に切れ込みが少なく葉肉が厚い。香りの高い春菊は冬の鍋物に最適。主な産地は三馬地区。
「くわい」は、その形状から「目(芽)が出る」と言われ、「めでたい」、「立身出世」、「子孫繁栄」など縁起食材として、正月の料理や祝い膳に使われている。
「赤ずいき」は、茎がぬるりとした格別の風味で、酢の物でさっぱり食べるのが一般的だ。
「二塚からしな」は、浅漬けにすると辛みがおいしい。料理をするときは過熱しないのがコツだそうだ。
「金沢一本ねぎ」は、白い部分は、長く、柔らかい。薬味に鍋物に使われ、台所の常備菜で、特に冬場の煮物にした金沢一本ねぎの甘さは格別である。金城・富樫地区が主な産地。
「せり」は、茎が細く、長くて細葉で、独特の香りは、他の野菜には負けない。鍋物、ひたし物、和え物、酢の物など食べ方はいろいろある。
2016年6月3日金曜日
2016年5月30日月曜日
金沢の農業に尽くした人々(1) ふるさと偉人館
今回は、本多町の「ふるさと偉人館」で「金沢の農業に尽くした人々」というテーマで展示され、また、この日は展示資料の解説やエピソードなどが聞けるということで行ってきた。

ここの学芸員の増山さんが説明してくれた。
まず、日本初の耕地整理を実施した「高多久兵衛」について話があった。
明治維新後、世の中が変わったが、農村の風景はあまり変わらず、あぜ道はくねくねと曲がり、田は大きさも形もばらばらで、用水や排水も十分でなかった。明治政府が「田区改正(耕地整理)を命じ、これを、ときの石川県令(知事)であった「岩村高俊」が何としてもやりたいということで、当初、野々市村で試験的にやったのがうまくいき、安原地区の地主である「高多久兵衛」に依頼した。
依頼を受けて、村人に説得したが、先祖から受け継いできた田を変更することなどの問題で、簡単に同意を得られなかったが、収穫減少の場合は久兵衛が負担するなどの4か条の条件を付けて実施されたという。
田区改正の結果、2901枚あった田が1572枚に減ったが、田の面積は2.6ヘクタール広くなった。久兵衛が行った田区改正は田と田の間に用水を造り、川上に「アテエ」という水の取り入れ口を、川下に「ヲチエ」という排水口を造ることで、田に均等に水が入り、よどみなく排水ができるというものである。この方式は「石川方式」と呼ばれ、耕地整理の方法として全国に奨励されたという。
久兵衛の工事の前と後の図を見ると、細かく、乱雑にめぐらされていた田が、整然とすっきりした田に変わったのが一目でわかる。これが3か月の短時間で終えたことは驚きだ。
「書」で有名な「北方心泉」が書いたという「高多久兵衛」の功績と肖像画の掛け軸展示されてた。
続いて、松本佐一郎が生まれた打木町は、金沢市の西部の海岸近くで、水田は少なく砂地が広がっている地区である。以前から栽培していた桑畑が害虫により全滅したしまった。そこで「天候や害虫に左右されない新しい作物を探そう」としていた。そのころ、愛知県の井上源助という人が作った「ゲンスケダイコン」は、柔らかく、味が良い大根だという話を聞きつけて、井上源助を訪ね栽培方法とともに種を分けてもらった。しかし、畑にまいたが立派に育たなかった。というのも愛知県は山土、打木は砂地で気候も違っていた。そこで、佐一郎は自分の土地にあった新しい大根の品種改良をし、砂地にあった「打木源助大根」が完成するのに20年かかったという。
肉質の柔らかい「源助大根」は「金沢おでん」の具として人気がある。
また、佐一郎は「会津赤皮甘栗南瓜」から「打木赤皮甘栗南瓜」、奈良のスイカから甘みの強い「縞王」、金沢のツルマメから「マツモトツルナシ」などを砂地に適した作物に品種改良したという。このことから佐一郎は「砂丘農業の父」として尊敬されているという。現在でも打木地区は野菜栽培で有名である。
「打木赤皮甘栗南瓜」は、和食だけでなく、最近はポタージュスープなど洋食の食材としても人気がある。
「加賀つるまめ」は正式には「フジマメ」といい、中部や関西地方を中心に栽培されている。煮物や「ごま和え」などで食べる。食物繊維を含んでいる。
ここの学芸員の増山さんが説明してくれた。
まず、日本初の耕地整理を実施した「高多久兵衛」について話があった。
明治維新後、世の中が変わったが、農村の風景はあまり変わらず、あぜ道はくねくねと曲がり、田は大きさも形もばらばらで、用水や排水も十分でなかった。明治政府が「田区改正(耕地整理)を命じ、これを、ときの石川県令(知事)であった「岩村高俊」が何としてもやりたいということで、当初、野々市村で試験的にやったのがうまくいき、安原地区の地主である「高多久兵衛」に依頼した。
依頼を受けて、村人に説得したが、先祖から受け継いできた田を変更することなどの問題で、簡単に同意を得られなかったが、収穫減少の場合は久兵衛が負担するなどの4か条の条件を付けて実施されたという。
田区改正の結果、2901枚あった田が1572枚に減ったが、田の面積は2.6ヘクタール広くなった。久兵衛が行った田区改正は田と田の間に用水を造り、川上に「アテエ」という水の取り入れ口を、川下に「ヲチエ」という排水口を造ることで、田に均等に水が入り、よどみなく排水ができるというものである。この方式は「石川方式」と呼ばれ、耕地整理の方法として全国に奨励されたという。
久兵衛の工事の前と後の図を見ると、細かく、乱雑にめぐらされていた田が、整然とすっきりした田に変わったのが一目でわかる。これが3か月の短時間で終えたことは驚きだ。
「書」で有名な「北方心泉」が書いたという「高多久兵衛」の功績と肖像画の掛け軸展示されてた。
続いて、松本佐一郎が生まれた打木町は、金沢市の西部の海岸近くで、水田は少なく砂地が広がっている地区である。以前から栽培していた桑畑が害虫により全滅したしまった。そこで「天候や害虫に左右されない新しい作物を探そう」としていた。そのころ、愛知県の井上源助という人が作った「ゲンスケダイコン」は、柔らかく、味が良い大根だという話を聞きつけて、井上源助を訪ね栽培方法とともに種を分けてもらった。しかし、畑にまいたが立派に育たなかった。というのも愛知県は山土、打木は砂地で気候も違っていた。そこで、佐一郎は自分の土地にあった新しい大根の品種改良をし、砂地にあった「打木源助大根」が完成するのに20年かかったという。
肉質の柔らかい「源助大根」は「金沢おでん」の具として人気がある。
また、佐一郎は「会津赤皮甘栗南瓜」から「打木赤皮甘栗南瓜」、奈良のスイカから甘みの強い「縞王」、金沢のツルマメから「マツモトツルナシ」などを砂地に適した作物に品種改良したという。このことから佐一郎は「砂丘農業の父」として尊敬されているという。現在でも打木地区は野菜栽培で有名である。
「打木赤皮甘栗南瓜」は、和食だけでなく、最近はポタージュスープなど洋食の食材としても人気がある。
「加賀つるまめ」は正式には「フジマメ」といい、中部や関西地方を中心に栽培されている。煮物や「ごま和え」などで食べる。食物繊維を含んでいる。
2015年9月19日土曜日
加賀本多博物館 本多水族館
「石川県立歴史博物館」の建物と並んでいる「加賀本多博物館」に行った。
今回は、ここで「加賀藩御用絵師 6代梅田九栄が描いた二つの魚図集」という題で講演会があるということで、本多水族館とはどんな話なのかと思って来た。講師は京都大学名誉教授の中坊徹次先生です。
江戸時代の加賀藩御用絵師 6代梅田九栄の魚絵図は11代藩主治脩の命よって越中の魚津に行って描かれたものである(1783~84年)。その背景にあるのは、5代藩主綱紀が本草学者である稲生若水によって動植物・鉱物などを分類、編集した「庶物類纂」を手がけたが、後に徳川吉宗に引き継がれ、内山覚仲によって日本各地の動植物、鉱物、農作物が調査、記録された。これが江戸中期の各藩の博物学流行の火付けとなり、加賀藩では魚絵図が描かれるようになったのではという。
この絵図は、梅田家が所蔵している「梅田絵図」と本多家が所蔵している「本多絵図」がある。「梅田絵図」は6代梅田九栄が実際の魚を見て描いたもので、「本多絵図」は「梅田絵図」を基に九栄がアトリエで描いたものか、弟子たちが描いたものと思われるという。
「本多絵図」はすべて彩色されているが、「梅田絵図」は一部無彩色のものもあるという。
ここに描かれている魚はすべて採集時期と場所がはっきりしていて、現代の魚類学から見ても資料として価値があるという。
また、魚はすぐ腐るから鮮度との戦いで、形も色も変わってしまうので魚を描くためには時間がかけられないとともに画家には、短時間での洞察力、描写力、記憶力が必要とされたという。現代の人のように写真があるから、後からゆっくり見て描くわけにはいかない。
実際に展示されている絵図を見たが、立体的に見え非常にリアルの描かれていて江戸時代の絵図とは思われなかった。また、絵画のことをよく知らない私にとっては、現代は絵の具で簡単に色を出せると思うが、江戸時代はどんな材料で、どうやってその魚とそっくりの色を出していたのかや、また、水深100m以上の魚も描かれているというから、その頃深い所の魚をどうやって獲ったのかなど不思議に思うことがたくさんあった。
梅田家の初代与兵衛は1649(慶安2)年に江戸で狩野尚信に師事し、狩野家より、口伝と画法を伝授され、延宝年間(1673~81)に金沢に戻ったという。
6代九栄がもっとも有名で、10代藩主重教の肖像画や下図の作品などを残している。また、8代九栄は金沢城二ノ丸御殿に襖絵などを描いている。明治に入って、11代は石川県立工業学校で指導をした。
「ふるさと偉人伝」より
今回は、ここで「加賀藩御用絵師 6代梅田九栄が描いた二つの魚図集」という題で講演会があるということで、本多水族館とはどんな話なのかと思って来た。講師は京都大学名誉教授の中坊徹次先生です。
江戸時代の加賀藩御用絵師 6代梅田九栄の魚絵図は11代藩主治脩の命よって越中の魚津に行って描かれたものである(1783~84年)。その背景にあるのは、5代藩主綱紀が本草学者である稲生若水によって動植物・鉱物などを分類、編集した「庶物類纂」を手がけたが、後に徳川吉宗に引き継がれ、内山覚仲によって日本各地の動植物、鉱物、農作物が調査、記録された。これが江戸中期の各藩の博物学流行の火付けとなり、加賀藩では魚絵図が描かれるようになったのではという。
この絵図は、梅田家が所蔵している「梅田絵図」と本多家が所蔵している「本多絵図」がある。「梅田絵図」は6代梅田九栄が実際の魚を見て描いたもので、「本多絵図」は「梅田絵図」を基に九栄がアトリエで描いたものか、弟子たちが描いたものと思われるという。
「本多絵図」はすべて彩色されているが、「梅田絵図」は一部無彩色のものもあるという。
ここに描かれている魚はすべて採集時期と場所がはっきりしていて、現代の魚類学から見ても資料として価値があるという。
また、魚はすぐ腐るから鮮度との戦いで、形も色も変わってしまうので魚を描くためには時間がかけられないとともに画家には、短時間での洞察力、描写力、記憶力が必要とされたという。現代の人のように写真があるから、後からゆっくり見て描くわけにはいかない。
実際に展示されている絵図を見たが、立体的に見え非常にリアルの描かれていて江戸時代の絵図とは思われなかった。また、絵画のことをよく知らない私にとっては、現代は絵の具で簡単に色を出せると思うが、江戸時代はどんな材料で、どうやってその魚とそっくりの色を出していたのかや、また、水深100m以上の魚も描かれているというから、その頃深い所の魚をどうやって獲ったのかなど不思議に思うことがたくさんあった。
梅田家の初代与兵衛は1649(慶安2)年に江戸で狩野尚信に師事し、狩野家より、口伝と画法を伝授され、延宝年間(1673~81)に金沢に戻ったという。
6代九栄がもっとも有名で、10代藩主重教の肖像画や下図の作品などを残している。また、8代九栄は金沢城二ノ丸御殿に襖絵などを描いている。明治に入って、11代は石川県立工業学校で指導をした。
「ふるさと偉人伝」より
2015年6月13日土曜日
小橋町、元町付近(2) 本岡家住宅 花もみじ 元町教会
前回の小橋町、元町付近(1)の続きで、「中田屋」の裏を歩いていくと、古民家風の立派な建物があった。
ここは「本岡家住宅」といい、旧大衆免村に建つ農家住宅で、旧富樫村字窪村に1882(明治15)年に建てられていたものを、本岡家が買い取り、1902(明治35)年に移築したものであるという。
建物はアズマダチで、屋根の下の白壁に柱、梁、貫などが美しく格子状になっているが、そこに珍しく出窓が付いていた。1階は玄関の戸以外は細い格子戸になっていた。
アズマダチは富山県砺波市あたりの古民家の建物に多いらしいが、金沢市の古い立派な民家にもいくつか残っている。
敷地の周囲は塀で覆われていて、玄関に「市登録有形文化財」の看板が掲げられていた。明治後期の農家住宅の特徴的な姿を残す貴重な建物であるという。かって肝煎農家の雰囲気を現在も醸しだしている。
主屋の横に土蔵造り2階建ての土蔵があり、観音開きの重そうな鉄の扉が四つ付いていた。
主屋の正面の広い敷地と奥の庭の間に、瓦屋根と木戸が付いた趣のある門があった。そして庭は、きれいに整備されていて灯篭、飛び石やすばらしい木々があった。
旧大衆免村の肝煎り役を努めていた本岡家には、金沢城下に隣接し、城下町拡大の影響を受けた地域であり、隣接地から城下町の変化を見ていたことや、「相対請地」、「土地売買」など農村と都市のかかわりを示す史料「本岡文庫」が近世資料館が数多く残っている。
明治になってからもここの地域はレンコン栽培が盛んで、近郊農家としての存在として重要であったという。
少し歩くと通り沿いに、知る人ぞ知る隠れ家的な「日本料理店 花もみじ」という店がある。4,5年前に家族や親戚の人と2,3回、ここで食事をしたことがある。
オーナシェフの父が漁師で、輪島から直送される新鮮な魚介類を使い、和食やフレンチの名店で修行を重ねたシェフの料理が好評という。特にランチはリーズナブルな値段で「日替わりランチ」、「花かごランチ」が人気があり、女性客が多く予約しないと入れないそうだ。掘りごたつのテーブル席の部屋と個室、カウンター席がある。
東大通の一本手前の路地に白い大きな建物があったが、ここは「元町教会」である。建物の天辺に十字架がある。親戚の人でクリスチャンがいて、その人の子供の結婚式に参列した時や他の行事でもここの中に入ったことがある。
中に入ると、きれいな受付があり、2階への階段を上がると確か礼拝堂があったはずだ。
中の広間で二人の女の人が打ち合わせをしていた。その人たちから「元町教会」の歴史の書いた本や写真集を見せてもらった。実は私が通っていた幼稚園はここの前身の「殿町教会」にあった幼稚園で、その建物の写真も載っていた。今見てみると、こんなだったとかすかに覚えている。
「元町教会 百年の歩み写真集」より
この「殿町教会」を設立した人は、北陸で最初の日本人キリスト教伝道師として有名な「長尾 巻」という人である。自らは極貧であったが、孤児院の子供や貧しい人々への施しを優先させた生き方が、金沢の人々に語り伝えられているという。愛知県の豊橋教会でノーベル平和賞の候補となった賀川豊彦と知り合い、強い影響を受けたという。
北陸での布教は困難を極め、竹やりで脅されるなどの迫害も受けたという。
「元町教会 百年の歩み写真集」より
2014年4月3日木曜日
ふるさと偉人館から石川県美術館(3)
前回に続いてふるさと偉人館内で、今度は野鳥の父といわれる「中西悟堂」のコーナーを見た。
1895年に長町で、16歳で東京の深大寺に出家したという人である。
野山や自然の中にいる野鳥を大切にする「日本野鳥の会」を設立し、自然保護に尽力をした人である。
悟堂は自由に飛ぶ鳥を詳しく観察し、自然の大切さを周りの人に紹介した。野鳥観察の用具が展示されていた。双眼鏡はもちろん野鳥の音さや大きさを測る計測器具などもあった。
また、青年時代は短歌、詩、小説など文学の分野でも活躍した。21歳のとき短歌「唱明(しょうみょう)」(処女作)は有名でを中西赤吉のペンネームで刊行した。
福島県にある「日本の百名山」のひとつの「安達太良(あだたら)」の原稿も展示されていた。野鳥の絵が描かれている。
また、昭和30年に国定公園だった白山で動物や植物、地層の調査をし、「国立公園」昇格に尽力したという。広坂公園に白山の鳥を詠んだ歌碑があるというが一度確認したい。
その他、「ふるさと偉人館」には多くの偉人が展示されているが、またの機会に紹介するとして続いて、「ふるさと偉人館」を出て、本多町通りを渡って「中村記念美術館」のほうに歩いていくと、車がいっぱい駐車されていた。「旧中村邸」で今日(3月21日)は恒例の「春の市民茶会」が開かれているところだった。やはり金沢は「お茶会」の盛んなところでいろいろな場所でイベントがある。
その後、以前このブログでも紹介した「美術の小路」の急な階段を上った。前回は雪道だったが、この日は雪がない。階段の横には相変わらず大量の水が流れており、凄まじいの音が聞こえた。
階段を上がると、本多の森公園に出て、「歴史博物館」の建物がある。現在、改修工事がなされており、新幹線が金沢まで開通する来年の春までに完成するという。
次の点が変わるという。
①精巧なジオラマや迫力のある大型スクリーンを使い、一向一揆、大名行列、加賀、能登の祭りな どがビジュアルに体験できる。
②特別展示室を拡張し、大規模な展覧会が開かれ、所蔵品を中心とした多彩な企画店が開催され る。
③気軽に立ち寄れるフリーゾーンが設置され、ゆったりくつろげるサロンやギャラリーで石川の観
光、文化情報を発信するコーナを設け、出会い交流の場とする。
などです。できるのを楽しみにしている。
この日、石川県立美術館内の講義室で「れきはくゼミナール」を聴講した。
今回は「モダン金沢と大衆文化」というテーマで講義があった。大正時代から昭和初期にかけての社会について分かりやすく説明してくれた。
この時期、金沢は街鉄(市内電車)が敷かれ、繁華街が賑わいを増し「モダン都市」の色彩を帯びてきた。そしてこの時期に、ラジオなどもでたが、なんといっても大衆娯楽の「映画館」が発展した。
下の写真は昭和13年の尾張町にあった「昭和劇場」の建物の写真である。
また、その当時の「昭和劇場」の中の観客の様子を写した写真である。
その当時の観客の風俗文化を読み取るということで、写真の中に載っている観客について、今回講師をした人が数えて調べたという。
この写真には観客が何百人いるが、男性と女性の比率は4:1くらいで男性が多い。帽子を被っている人、めがねをかけている人ひげをはやしている人の数を数えたという。ひげの人は少ないが、帽子を被っている人が多い。また学生なども多かったということであった。
ちなみに「昭和劇場」は私が住んでいた家の近くで、昭和30年代の前半に親と一緒によく入った。
嵐勘十郎が「明治天皇」役をやっていた「日清・日露戦争」など見た記憶がある。
より大きな地図で ふるさと偉人館から出羽町 を表示
1895年に長町で、16歳で東京の深大寺に出家したという人である。
野山や自然の中にいる野鳥を大切にする「日本野鳥の会」を設立し、自然保護に尽力をした人である。
悟堂は自由に飛ぶ鳥を詳しく観察し、自然の大切さを周りの人に紹介した。野鳥観察の用具が展示されていた。双眼鏡はもちろん野鳥の音さや大きさを測る計測器具などもあった。
また、青年時代は短歌、詩、小説など文学の分野でも活躍した。21歳のとき短歌「唱明(しょうみょう)」(処女作)は有名でを中西赤吉のペンネームで刊行した。
福島県にある「日本の百名山」のひとつの「安達太良(あだたら)」の原稿も展示されていた。野鳥の絵が描かれている。
また、昭和30年に国定公園だった白山で動物や植物、地層の調査をし、「国立公園」昇格に尽力したという。広坂公園に白山の鳥を詠んだ歌碑があるというが一度確認したい。
その他、「ふるさと偉人館」には多くの偉人が展示されているが、またの機会に紹介するとして続いて、「ふるさと偉人館」を出て、本多町通りを渡って「中村記念美術館」のほうに歩いていくと、車がいっぱい駐車されていた。「旧中村邸」で今日(3月21日)は恒例の「春の市民茶会」が開かれているところだった。やはり金沢は「お茶会」の盛んなところでいろいろな場所でイベントがある。
その後、以前このブログでも紹介した「美術の小路」の急な階段を上った。前回は雪道だったが、この日は雪がない。階段の横には相変わらず大量の水が流れており、凄まじいの音が聞こえた。
階段を上がると、本多の森公園に出て、「歴史博物館」の建物がある。現在、改修工事がなされており、新幹線が金沢まで開通する来年の春までに完成するという。
次の点が変わるという。
①精巧なジオラマや迫力のある大型スクリーンを使い、一向一揆、大名行列、加賀、能登の祭りな どがビジュアルに体験できる。
②特別展示室を拡張し、大規模な展覧会が開かれ、所蔵品を中心とした多彩な企画店が開催され る。
③気軽に立ち寄れるフリーゾーンが設置され、ゆったりくつろげるサロンやギャラリーで石川の観
光、文化情報を発信するコーナを設け、出会い交流の場とする。
などです。できるのを楽しみにしている。
この日、石川県立美術館内の講義室で「れきはくゼミナール」を聴講した。
今回は「モダン金沢と大衆文化」というテーマで講義があった。大正時代から昭和初期にかけての社会について分かりやすく説明してくれた。
この時期、金沢は街鉄(市内電車)が敷かれ、繁華街が賑わいを増し「モダン都市」の色彩を帯びてきた。そしてこの時期に、ラジオなどもでたが、なんといっても大衆娯楽の「映画館」が発展した。
下の写真は昭和13年の尾張町にあった「昭和劇場」の建物の写真である。
また、その当時の「昭和劇場」の中の観客の様子を写した写真である。
その当時の観客の風俗文化を読み取るということで、写真の中に載っている観客について、今回講師をした人が数えて調べたという。
この写真には観客が何百人いるが、男性と女性の比率は4:1くらいで男性が多い。帽子を被っている人、めがねをかけている人ひげをはやしている人の数を数えたという。ひげの人は少ないが、帽子を被っている人が多い。また学生なども多かったということであった。
ちなみに「昭和劇場」は私が住んでいた家の近くで、昭和30年代の前半に親と一緒によく入った。
嵐勘十郎が「明治天皇」役をやっていた「日清・日露戦争」など見た記憶がある。
より大きな地図で ふるさと偉人館から出羽町 を表示
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