2025年5月18日日曜日

奥野八幡神社 七重の石塔(海石塔の片割れ)

 今回は、兼六園の蓮地庭にある「海石塔」の片割れが、能美市の「奥野八幡神社」にあると聞いたので、見に行った。

ここは、南朝に仕えていた結城氏の家臣佐治右衛門が北國に下って寺井に居住し、寺井の奥城に奥野社を奉祀したのが始まりである。明治6年に奥野八幡社と改称した。昭和6年には社殿を改築するため社地を拡張したが、戦争で遅れ、昭和31年に奥殿を、38年には幣殿と拝殿を改築した。



















この神社は通常宮司がいない(別の神社と兼用)ので、拝殿は開いていなかった。



鳥居をくぐって拝殿への途中の左側に、二つの春日灯篭の後ろに、お目当ての七重の塔があるのがすぐにわかった。
























この七重の塔の謂れについて案内板が掲げられていた。
豊臣秀吉が朝鮮征伐の時に、加藤清正が持ち帰ったものを秀吉に渡し、それを前田利家に贈呈したと描かれていた。当時は二基対になっていたとされ、一基は兼六園にある「海石塔」と言われていると描かれている。前田利常が小松城に移る際に持参愛賞したという。廃藩置県後、明治5年に一般に払い下げしたのを貿易商の綿谷平蔵氏が買収し、奥野八幡神社に奉納したという。





































3代利常が、玉泉院丸庭園に13重の石塔を造らせ、幕末に改装しそのうちの6重の石塔「海石塔」を兼六園に、残りを能美市の神社に移したと聞いていたが、案内板はだいぶ違っている。
ここにある石塔は、近づくと見上げる高さで6mあるので、「海石塔」と比較するとかなり高いというイメージである。7重の塔のうちの一つは欠けてしまったので、現在は6重となっている。

























ここの「七重の石塔」の上部は丸い輪が重なったような仏塔があり、一番上の長い火袋は「坪野石」、短い火袋は「青戸室石」で、それ以外は虫食い状態の石(海の中の石のような)は「那谷産石」(観音下石)ということで「海石塔」と同じである。
























石塔の下の土台石は「赤戸室」と「青戸室」が積み重なっている。「海石塔」にはこのような石はない。
























兼六園の海石塔は、上に笠と宝珠がある。一番上と三番目の火袋が長く黒い「坪野石」、その他の短い火袋は青戸室石、その他の石は虫食い状態の石「那谷産石」で、奥野八幡神社の七重の塔と同じ石材である。
























「海石塔」は、「那谷産石」の所が苔むしていて緑っぽいところが、また自然な趣があって見ごたえがある。























この「海石塔」と「七重の塔」には、いろいろな説があり、謎に包まれていて分からないことだらけで、それがまた面白い。
まず、「豊臣秀吉が朝鮮征伐時・・・・・・」の説は、石の材質がすべて地元産というから違う話だろう。
別の冊子で読んだ「3代利常が十三層の石塔を玉泉院丸庭園に造営し、ある時期に地震で6層の石塔と七層の石塔に別れ、利常は庭の観賞用として二つの石塔に火袋や笠などを付けて石燈籠に改良した。そして七重の方は、利常が小松城にいた時に移した。もう一つの6重の方は、そのまま玉泉院丸庭園にあったが、幕末に兼六園に移され、現在の「海石塔」となった。」という説もあるが真意が全く分からない。


ここの「手水舎」は新しそうだ。


















この神社の宮司さんは通常はいなく、近所の町会長さんがいろいろと世話をしているという。その人に連絡して、ここの神社についていろいろと聞いた。そして「社務所」の中にある社宝を見せてもらった。
下図は、久谷庄三作の富士越の竜頭大皿で、若杉窯で研究中の作だという。


















初代武腰善平作の色絵鳩に秋草図陶額



















久谷庄三作の梅鉢紋が描かれた壺



















「既白」の句碑があった。「既白」は宝暦のはじめ加賀藩毛見役の一人として寺井に赴任後、俳諧の道に進み、松尾芭蕉に心酔し全国各地を吟遊した。「既白」とその息子の「來首」が寺井俳諧の草分けと言われる。