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2021年6月22日火曜日

昌永町・京町界隈(3)広誓寺

 昌永町・京町界隈巡りの途中に有名な「広誓寺」があるが、この寺について紹介する。

不破河内守彦三勝次が前田利家の客臣となり、尾山城に入城し禄高三万三千石を拝領し、港の警護を兼ねて、現在の五郎島地区に居住。慶長2年、不破家菩提寺として真言宗安養山廣誓寺を建立。後に曹洞宗僧侶、傑外雲英大和尚に帰依し、改宗。1650(慶安3)年現在地に移転し、山号を本源山と改め、境内2000余坪に七堂伽藍を完備した壮大な寺院を建立。現在、本堂のみが当初のまま現存し、当寺の面影を残している。(HPより)




















不破河内守光治は、美濃の土岐氏、斎藤家に従臣し、斎藤家滅亡後に織田信長の家臣となった。後に安土城代を経て、福井県越前市の龍門城に、子・直光とともに移動した。1580(天正8)年に越前一向宗との戦いで生涯を閉じたという。子・直光は、本能寺の変で織田信長が討たれた後、前田利家の家臣となり、現在の金沢市彦三町に大屋敷を構えた。



















藩政期には、不破氏をはじめ武家階級の門徒が多くいたので、寺も降盛を極め規模も大きく、右隣の横越家の住宅となっている所は「座禅堂」があり、向かいのマンションの南側には「鐘楼」があったという文字通り七堂伽藍あったという。
本堂の建物は当時の面影を残しており、本堂玄関の屋根下の漆喰の上に何本の梁が張られ、珍しい模様が付けられて(寺町の高岸寺にも同じ模様となっている)、丸い看板には「笑可」と描かれている。これは、2代前の住職が描かれたものだと今の住職に聞いた。



















境内も広く地蔵祭りなど祭礼の時は境内で相撲大会や吹き寄せ・からくり・露天商なども多く出たという。



















広誓寺に祀られている地蔵尊は有名で、昔から現在に至るまで地蔵祭りの日には多くの参詣者を集めている。一刀三礼の御作と伝えられている。弘法太子不破家の念持仏の地蔵菩薩があり、鎮火地蔵尊、子守地蔵尊、地域の地蔵尊として、33年に一度に御開帳されるという。
下図の地蔵はどういう謂れものかわからなかった。
























「山門」は風流な「薬医門」で、「本源山 広誓寺 11代細字佐吉書」の看板が掲げられている。「細字佐吉」と言えば、織田信長から名前をもらったという加賀藩御用達のハンコづくりで、現在でも尾張町に店がある。もひとつ「弘法大使誤作日除地蔵尊」の看板が掲げられている。



















「山門」の隣には「幽霊地蔵」は、台座を含めて140㎝立像、蓮の花を持つ姿で、赤色布地の頭巾、よだれ掛けをしている。火葬場が浅野川の近くにあり、残りの灰、骨を灰塚に埋めたり、時には川に流していた。「灰塚」の石碑があったが、洪水で分からなくなった。それで「灰塚付近で幽霊が出る」などのうわさから「家の庭に幽霊が出るから成仏させてほしい」と依頼を受け、16代住職が庭石を寺に運び風化した碑面を削り「幽霊地蔵」としたという。


















その隣には、巨大春日灯篭が置かれていた。
























境内には、樹齢約400年ほどのケヤキが4本あり、県指定の保存樹木となっている。新緑、紅葉には見ごたえがあるという。
























不破家のお墓は「野田山」にもあるが、こちらにも江戸時代の分家お墓があった。
























男爵斯波蕃灰塚の石碑があった。斯波蕃は、加賀藩士津田内内蔵助(1万石)の養継子に入り、北越戦争で総指揮官として活躍し、のちに男爵位の受爵した人だ。



2020年7月28日火曜日

小立野3丁目界隈(2)聞敬寺 善光寺坂

小立野3丁目界隈(1)の続きで、さらに歩いていくと右側の奥の方に「聞敬寺」というお寺がある。
1677(延宝5)年に、現在の小立野1丁目付近に聞敬坊として創建された。1821(文政4)年にな七カ町村の惣道場として現在地に建てられ、1880(明治13)年に「聞敬寺」となった。



















本堂の障子の隙間から見えた、金一色塗りの宝相華花草文様が見事な内陣の欄間は、200年以上の欄間様式であるという。
























本堂の前にクロマツの立派な木があるが、高さ18m、幹周り2.9m、枝幅16mで金沢市指定の保存樹となっている。小立野台地のこの辺りの貴重な緑であるという。
























静かな住宅街にちょっと奇抜なや建物があった。大戸があり、ガラス格子戸の枠や2階の手摺などが紅殻色だった。



















後で通った時に店の前が開かれていて、きれいな和傘や桐工芸の火鉢など金沢の伝統工芸品が並べられていた。また、鴨居の上に家紋が描かれた箱が並べられていたので古い町屋なのだろう。現在は何の店なのかよくわからなかった。



















そのすぐそばには店先に野菜や果物が並べられ、この辺りの便利な小さなマーケットである「ひまわりチェーン」があった。



















さらに歩いていくと「善光寺坂」の標柱があり「昔この付近に善光寺という寺があったのでこの名で呼ばれている。」とあった。
























この坂の下り口の右側に大きな地蔵堂がある。



















窓から中をのぞくと、大変大きな顔の地蔵さんが、目を細めて笑っているような、祈っているような心優しそうな顔をしている。幕には梅鉢紋が描かれている。



















この「善光寺坂」は、どこに善光寺があったかは分からないという何の変哲もない坂で、斜度は3度から4度で長さが300mというなだらかな坂である。また、緩やかに曲がっているので先が見えない。
























坂の途中に別に下りる道が何本かあるようだが、この先は個人の家に行くのかよくわからない。この下側には「大清水」という湧き水が出ている方向に行くはずだ。



















この後、ランチをとるために「マルエー小立野店」の向かいにある洋食の店「グリルニュー狸」に入った。

私は初めての店だが店内は結構混んでいて、近辺では有名な店らしい。ハンバーグとカキフライと野菜サラダが出てきたが、おいしかった。










2020年6月14日日曜日

小立野界隈(1)上野八幡神社

今回は、小立野界隈を歩くということで、まず「天徳院」の奥にある「上野八幡神社」へ行った。
この社地は、御塚をいわれ古来より村民の尊崇厚き貴婦人の古墳林の一部であったという。この御塚は約1300坪あり、杉や松の密林で、何人も寄せ付けなかったといわれるている。中央部分には高さ6間、広さ300坪の大きな古墳があり、大古墳を守るようにして小さな古墳が56基あったと伝えられている。明治時代以後に中心部の松の木以外の樹木は伐採され、近年松の木も伐採され地ならしし、金沢大学工学部が建てられたという。



















上野八幡神社は1583(天正11)年頃、前田利家公に内通していた石動山天平寺の僧空山が自家伝来の八幡大神を石動山の麓に祀ったのが始まりとされ、前田利家公金沢城入城後、1593(文禄2)年に金沢山崎郷白山町(現在の福光屋酒造付近)に移転し、1731(享保16)年に現在地に遷座したと伝えられている。




















上野八幡神社の秋祭りには、餅つき踊りが奉納される。収穫の秋に実りの感謝を表すもので、氏子らが踊りながら餅の曲づきをする。餅つき踊りは天正11年に藩祖前田利家が七尾城から金沢城に移られた折に、住人たちが餅をついて献上し、お祝いの意味で曲づきをしたのが始まりだという。その後、音曲を入れておもしろくしたといわれ、これを町内(旧上野町、現在の小立野3丁目)の秘技とし、長男のみに口伝で伝承されている。


また、由来については不明であるが、33年ごとにお神輿が氏子中を練り歩き、その際には餅つきの踊りの他に、獅子舞や太鼓行列も加わって盛大に執り行われる。



















拝殿前の両側に赤戸室の灯篭と狛犬が置かれている。



















屋根が立派な「手水鉢」



















境内には「山さむし心の底や水の月」と刻まれた芭蕉の句碑がある。この句碑は1875(明治8)年に宝憧寺にあったものを移したもので、松尾芭蕉が「奥の細道」で金沢に来た時、宝憧寺に立ち寄り、月光に照らされた医王山を眺めて詠んだのはこの句と言われている。かって宝憧寺は上野八幡神社近くにあり、歴代藩主の吉凶を占うなど隆盛を極めたがを極めたが、明治8年に衰退し百姓町に移った。今はわずかな墓だけを残すのみとなっている。



















ここの境内には大きな杉の木が何本もあり、この辺りだけが森の中にあるようだ。
























神社の前の鳥居の横の目立つところにこの近くの酒屋「福光屋」や「福光松太郎」の名前が刻まれていたが、多大な寄進をしているのだろう。



















「上野八幡神社」の隣の「すみれ児童公園」からは、「旧金沢大学工学部」の跡地に「石川県立図書館」の建物を建てる予定になっているが、現在はその敷地に大きな建設機械が入って造成中である。



















久しぶりに工学部跡に行ったが、昔の面影は全くなかった。ここは1920年に設立された「金沢高等工業専門学校」があり、戦後の1949年に金沢大学工学部となったが、今は「角間」に移っている。


2020年3月27日金曜日

石引界隈(4)真行寺 慶恩寺

石引界隈(3)棟岳寺の続きで、続いて「真行寺」へ行った。ここは、1631(寛永8年)に本多家老篠井雅楽助は、豊臣方の武将木村重成の娘(当寺開基州岩太益和尚)が重成の菩提を弔うため、現本多町に庵を開き、当時大乗寺十五世謙室吞益大和尚に拝請し、開山一世とし、加賀藩3代利常に現在地石引(旧二十人町)に替地し、法隆山真行寺(曹洞宗)として現在に至る。



















寺宝に前田家武人画家、矢田四如軒筆の絵画、六地蔵尊画像中軸(二幅)を所蔵する。
















真行寺の横には保育園があり、そこの保育さんに頼んで「地蔵堂」を開けていただいた。




























藩政時代刑場に引かれる罪人が一本松の橋西詰に立つ地蔵に顔を向け、それを悼んで遺族が横向きの地蔵を造り橋詰めに安置したという。明治41年に他の地蔵2体とともにここに合祀したという。
























他に厄除け地蔵尊や地域各所の地蔵尊が安置されていて、毎年8月22日に大祭を行っている。



















「真行寺」のすぐ近くにある「慶恩寺」は、1491(永徳3)年の創建と伝えられている。僧慶心は金沢御堂の建立にともない本願寺の命を受け御堂衆を務めた。その後越中から飛騨を布教し、90歳で飛騨白川村加須良の示寂した。木の新保から犀川河原町を経て1658(万治元)年に当地に移った。今日のテレビの地元のニュースで、ここの桜が見事に咲いている映像が写っていた。
























また、「慶恩寺」の前にある「円證寺」は、お寺の前に赤戸室石で作られた「戸室山円證寺」と掘られた石造がある真宗大谷派のお寺である。永正元年(1504)藤原重之が出家し、貞珊と名乗って一宇を建立し、円證寺と称した。藤原重之は戦いに負け、河北郡戸室新保村に隠れ住んでいたが、山号はその地名に由来する。
1650(慶安3)年に火災により現在地に移転した。
1687(貞享4)年に木仏(阿弥陀如来)の許状が本山からおり、寺の創建となったという。



2020年3月13日金曜日

石引界隈(1)二十人坂、欠原菅原神社

今回は、石引界隈のお寺がいくつか集まっているところを行こうと思い、まず「二十人坂」を上った。ここは藩政時代、足軽二十人組が住んでいたことから名付けられた坂である。足軽屋敷は二十組とか五十人組などが多いが、ここは二十人組の足軽鉄砲隊が住んでいた所という。この通りはフラットバスが通る坂で、ずっと上がっていくと小立野大通りに出る。またこの辺りは桜のきれいなところである。



















二十人坂にある「一本松陸橋」の下には川は流れず、地域住人の生活道路が立体交差している。また、その下にある「揚地町陸橋」も同じである。藩政期からの道の上側に交差するように、戦前に「軍用道路」として「二十人坂」が小立野台地と寺町台地にあった「野村練兵所」を結ぶための道路として造られたために、このようになったらしい。



















「揚地町陸橋」と「勘太郎橋」が見える。



















「一本松陸橋」をくぐった向こう側に「旧一本松」の碑があり「もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる」とあった。
























この坂の近くに「勘太郎川」が流れているが、この川は笠舞1丁目辺りにある湧き水の「大清水」を水源として、いくつもの辰巳用水の分水が合流されて、この辺りを流れている。
ここは、辰巳用水の「石引門」から流れてくる分水が「勘太郎川」に合流している所である。
























「二十人坂」の下には、アーチ形のトンネルもあり「勘太郎川」が流れている。




















この辺りは、坂道でなおかつ曲がりくねっていて、いつも通らない人は、非常に分かりにくい道である。



















 この迷い道の途中に町家の白い暖簾に「二十人坂針灸院」と描かれた店があった。



















曲がりくねった道を上がると、朱色がまぶしい鳥居のある「欠原菅原神社」があった。ここは、鷹匠町に住む藩士津田家(1300石)の邸内社であったものを明治13年に東照宮(尾崎神社)の神職高村勝久が移したものだという。そして2018年に崖崩れにより現在地に移されたばかりだ。




























普段は閉まっているが、ちょうどこの日に、神社の関係者が用事で中にいたので、入ることができた。
まだ木の匂いが残る新しい本殿は井波彫刻、銅板は高岡銅器という小さいが立派なものである。祭神は菅原道真、金毘羅神である。
























そのすぐ近くに横道が走っていて、立派な石垣があり、その上にはお寺が集まっている所だ。