2025年7月14日月曜日

金沢の小学校 くらしの博物館

 今回は、飛梅町にある「金沢くらしの博物館」で、「金沢の小学校」の企画展をやっているということで見てきた。

























「金沢くらしの博物館」は明治期に建てられた「三尖塔」で有名な「金沢第二中学校」の建物である。この建物についての以前のブログ



















現在の金沢観光の立役者の「山出保さん」の建てた石碑が建っていたが、山出さんは、この「金沢第二中学校」の卒業生だったと記憶している、



















「金沢の小学校」の企画展では、1870(明治3)年に「小学所」が設けられてから、教育に熱心な土地柄で、現在に至るまでの長い歴史を持つ小学校が多くある。今回は、明治から昭和までの学用品や写真などでその紹介をしている。
下図は「各町就学生名簿」 明治15~25年(1889~92) 旧馬場小学校
当時は毎月入学できたため、個別の入学届が必要だった。年齢もばらばらだった。























「尋常小学修身書」明治33年(1900)
明治19年(1886)より「尋常小学校」となる。


青い目の人形歓迎式 昭和2年(1927)
旧馬場小学校

















「始業ベル」明治初期(推定)旧石引小学校
当時は小使(後の用務員)などがならして時間を知らせていた。
























「給食箱」昭和18年(1943)頃 旧芳斉小学校
旧芳斉小学校では、昭和18年(1943)に給食室を設置した。この箱は保護者会が贈ったものというが、私の小学生の時にもあった記憶がある。



















「初等科算数」、「初等科理科」昭和17,8年頃の教科書


















「ラジオ体操(英町通り)昭和11年 旧芳斉小学校




















戦後~現代の小学校
昭和24年、33年の教科書
道徳は昭和33年から始まった。




















通学帽はこのタイプのものを私も被っていたのでなつかしい。


















「組体操」昭和46年 旧馬場小学校
運動会などによく「マスゲーム」をやった記憶がある。
























4校が集まった「中央小学校」についての説明板があり、そのなかに私が卒業した「松ヶ枝小学校」の歴史が描かれていた。明治3年にできた「梅本町小学校」が創立し、その後、「西町小学校」などに代わり、明治42年に「松ヶ枝小学校」に改称されたということが分かった。










2025年7月9日水曜日

妙高高原(4)関山神社 旧関山宝蔵院庭園

 妙高高原(3)苗名滝の続きで、その後、国道18号線まで下りて、少し走り左を曲がった所に「関山神社」と「旧関山宝蔵院庭園」がある。

関山神社周辺案内図










「関山神社」は妙高山の里山として創建された。妙高山を神体山として祀っている。江戸時代までは関山権現と称して修どう県験道の聖地だった。1582(天正10)年に織田信長の武将森長可の越後攻めにより焼失衰退するが、江戸幕府より寺領100石を安堵されて復興し、1818(文政元)年に現在の欅造りの本殿が完成した。1868(明治元)年の神仏分離令で別当寺宝蔵院は廃寺となり、社号は関山神社に改められたが、神仏混合の名残をとどめている。



















拝殿、幣殿、本殿が一体化構造をなし、各部に彫刻が施されている。平成30年に国の登録有形文化財に登録された。
























本殿の左側に行くと「関山仏足石」がある。仏足石とは礼拝として用いられたもので、釈迦の足裏を刻んだ石である。関山の仏足石は、奈良の薬師寺のものについで古いものである。


















この仏足石は、高さ約2mの安山岩の垂直面を用いて、中央に仏足(主導)向かって右側に華判(釈迦の実印)左側に舎利塔(釈迦の遺骨を納めた塔)を彫刻したものである。この仏足石は他に例がなく、国内唯一なものと言われている。










































重巡洋艦 「妙高」分祀記念碑
























「神輿殿」と描かれていたので、この小屋の中には神輿が保管されているのであろう。


















「関山宝蔵院墓所」は江戸時代に徳川幕府から朱印地を拝領して当地を納めた宝蔵院(天台宗)の歴代印主などの墓所である。
































小さな五輪塔が多く置かれている場所があった。


















さらに歩くと大きな庭園「旧関山宝蔵院庭園」がある。関山は室町時代から存在したらしいが、戦国時代の戦火で大きく衰退した。江戸時代に幕府や本山の支援を受けて、宝蔵院が寺坊や庭園の改修が行われ現在の姿に復元したという。池の周りに大きな石や灯篭、石橋などがあ配置されている。ここの庭園の一番高い築山が妙高山を表現しているという。



















周りには巨石や多くの石組が配置されている所から高さ5mの滝が流れている。この滝の上からは「妙高山」が見え、この庭園は「妙高山」を借景としている。


















下の方には広い芝生や小川や東屋が見える。


















また神社の方の戻るとまっすぐに伸びた杉林がある。


















その杉の木の下に多くの石と細長い紫のきれいな花が咲いていた。


2025年7月5日土曜日

妙高高原(3)苗名滝

 妙高高原(2)笹ヶ峰高原の続きで、次に日本の滝百選に選ばれている「苗名滝」に行った。



















案内板の先を少し歩くとすぐに2段の幅の広い大きな滝が見えた。さながら「スモールナイヤガラ」の滝という感じである。大きな落ちる音がし、近くに行くとさらに雄大さが伝わってくる。そしてわずかなしぶきが顔にあたり、すっと涼しくなり気持ちがよい。
































すぐに吊り橋があり、下には多くの小石があり白いしぶきをあげている。ここを渡ると新潟県から長野県だというところである。この川は「関川」と言って、先ほど見た「笹ヶ峰ダム」から流れてくる川である。



















この吊り橋を渡ったところの下にある大石には水神様が祀られているという。


















そして、砂防堰堤に沿って、大きな石の上を歩きながら「ゴッー」と音がする上流の方へ向かった。
























すると両側には垂直に立った「柱状節理」でできた玄武岩の岸壁の間から、落差55mの水量の多い水が落ちるのが見えた。その豪快な様子と音から「地震滝」とも呼ばれた「苗名滝」である。
滝の下にはまた豪快な岩がゴロゴロと横たわっている。ここから先はちょっと危険なので進むのをやめて、残念だったが滝のすぐ下まで行けなかった。、別の道があり近くまで行けたのかもしれない。


















苗名滝は、その昔、滝から落ちる水音があたり四方に轟き、あたかも地震のようだったことから「地震滝」と呼ばれていたが、古語辞典によると「地震」と書いて「なゐ」と読ませていてことから「苗名滝」に転化したという。
































游歩道の一角に「小林一茶」の「瀧けぶり 側で見てさへ 花の雲」と「苗名滝」で詠んだ俳句が石に彫られていた。
























遊歩道の入口に見られた池と小さな滝


















昼時になったので遊歩道入口にあるレストランの「苗名苑」に入った。



















ここでは「流しそうめん」が有名で多くのテーブルに備えられていたので「流しそうめん」を頂いた。こういうそうめんをあまり食べたことがなかったが、結構おいしかった。


















店の向こう側には古めかしいアーチ状の石橋が見えた。曲線の勾配がきついのでかなり歩きにくいだろう。「妙高山 関山神社」の上り旗が何本か立っていた。

2025年7月1日火曜日

妙高高原(2)笹ヶ峰高原

 妙高高原(1)いもり池湿原の続きで、次の日「笹ヶ峰高原」に行った。ここには、トレッキングコースやキャンプ場、牧場などがあり、妙高戸隠連山国立公園の中核をなしている。百名山の一つ「火打山」への登山はここからが出発となる。
















この辺りは、標高1200m以上なので随分涼しく過ごしやすい。ここはは乙見湖というダム湖である。



















湖の向こうには残雪が残る「焼山」などの山々が見え、近くには鮮やかな朱色の「サツキ」の花がきれいに咲いて、最高のローケーションである。



















湖のほとりにログハウス風の「笹ヶ峰乙見休憩舎」があり、無料の休憩所が立っている。


















右端が「火打山」そして「焼山」、「金山」、「天狗原山」「地蔵山」が望める絶景である。


















笹ヶ峰ダムは乙見湖と関川の間にあるダムで、堤高46.8m、堤頂長は318mあり、黒姫山の山頂の崩落でせき止められて以来、湖は90万トンの水を蓄えられ、その水を水力発電の動力としてのほか、下流の方の農地の灌漑水として使われている。


















ダムの上に架かる橋の上から水の落ちるのが見え、その下流側の川も見える。





































ダム上の橋を渡ると「夢見平遊歩道」がある。下図の赤線は2時間、黒線も廻ると4時間もかかる。

















「夢見平遊歩道」に入る最初に100段以上の階段があり、そこを上るだけでも、かなりしんどくなった。階段上から見た風景



















途中には白樺の木も何本か見える。樹齢300年以上のミズナラの巨木などもあるらしい。その奥の湿地帯には小さな池や5月には水芭蕉がが群生するところもある。
























かってこの「「夢見平」には簡易製材所があり、周辺には民家や小学校もあったという。資材運搬用トロッコのシャリなども横たわっているらし。
























時間も限られていたので、途中で戻ることのしたが、上ってくる人は登山靴で、弁当持参でリュックを被いてハイキング完全装備であった。