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2020年6月10日水曜日

金沢港クルーズターミナル(2)

金沢港クルーズターミナル(1)の続きで、その後、ここのレストランでランチをとろうと思ったが、館内はいっぱいで名前を書き待つことにした。



















隣には非常に広い「展望デッキ」があり、ここではクルーズ船の見学・見送りの他にいろいろなイベントができるところだ。



















ここからの眺めは最高で、左手に大野町方面が見える。多くの漁船や大野灯台も見える。



















中央は粟崎方面で、見える陸の裏側には「ゴルフ場のリンクス」や「ヴィテンの乗馬クラブ クレイン」があるはずだ。



















そして右手には大野川とそれに架かる橋が見える。その向こう側に見える一番高い山は、方向からすると「宝達山」であろう。



















ようやく順番がきて、レストランの座席はラッキーにも最も景色が良い場所に案内された。




























レストランの奥の方も海が見えるように、客席の高さは3段階になっている。天井のデザインも金色が入った洒落た雰囲気だ。



















前菜として出てきたのはエビやサーモンの他に「加賀野菜」の太きゅうりやレンコン、五郎島金時などが入っていた。



















主菜はパスタかパンと魚介類のスープ




























帰りにこの建物から市街方向を見ると、県庁や日航ビルの建物や医王山、戸室山などが見えた。ここからは新鮮な魚などが売っている「金沢港いきいき魚市」はすぐ近くである。









2020年6月6日土曜日

金沢港クルーズターミナル(1)

今回は、延期になっていた「金沢港クルーズターミナル」が6月1日にオープンしたので見に行った。(6月4日)
本日も我々のように、地元の見物人が多く来ていた。



















去年まで大型クルーズ船が何隻も到着していたが、海の玄関のターミナルのきちんとした建物がなかったため、何千人もの乗客の船の乗り降りには時間がかかったことだろう。



















金沢港の無量寺埠頭に、大型クルーズ船が停泊する目の前にクルーズターミナルの建物が位置し、駐車場もたっぷりある。



















コロナ対策による手の消毒と検温をした後、建物の中に入ると、待合エリアには、石川県の伝統工芸作家の製作されたシンボル柱が2本きらびやかに立っていた。
輪島塗の「煌き」は前 史雄氏と「玉響」は山岸一男氏の作品で、いずれも「沈金」の重要文化財保持者である。
























 黒漆と金箔の金沢漆器「飛翔」は中野孝一氏の作品で「加賀蒔絵」そして加賀友禅の「波遊び」は中町博志氏の作品である。
























 九谷焼の「能登外浦の春秋」は吉田美統氏の作品で、「釉裏金彩」の重要文化財保持者、上方の小さな四角の模様は「加賀縫」と「牛首紬」で作られている。
























 加賀友禅の「松林とカモメ」は柿本市郎氏の作品で加賀友禅技術保持者である。
























他に、1Fには「CIAエリア」は広い空間があって、乗船客4000人の出入国手続きを2時間以内で対応できるという。また、観光案内所もあり、観光情報やイベント情報などの利用ができる。
2Fには、体験コーナーやレストランがある。



















エリザベスクイーンや日本丸、飛鳥などのクルーズ船のジオラマが飾られていた。


































この金沢港のジオラマがあり、大野町や粟崎町、「ゴルフ場のリンクス」、大野川に架かる橋など様子がよく分かった。




















映像が薄くてよく見えないが、昭和24年の写真と現在の写真が並べて映されていた。昭和24年の頃は大野川が細いまま海まで流れていたが、金沢港を造るために大きく掘られ、昭和45年に開港し、その後も水深を深くする工事を進めて、大型クルーズ船が来るようになった。



















「金沢港学び体験ルーム」には、金沢港の学習コーナーやクイズなどがあり、子供や大人まで学べるエリアがある。



















「金沢港操船シュミレーター」は、船上から見た金沢港を旋回する様子を再現しており、時間帯(朝・昼・夜)や天候(晴れ・雨・嵐)を変えることができるという。


2020年3月9日月曜日

金澤の老舗百年展 21世紀美術館(4)

金澤の老舗百年展 21世紀美術館(3)の続きで、さらに店を紹介する。
17.加賀麩司宮田(東山1)創業明治8年(1875年)
ここは、明治8年に北国街道の春日町に「宮田屋」の屋号で店を構えたのが始まりで、宮田商店、宮田麩製造と改名し、昭和57年に東山に本店を開店し加賀麩司宮田としたという。
麩の原料は小麦で、小麦粉から取り出した小麦タンパク(グルテン)が一般的だといわれている。焼麩はグルテンに小麦粉を加えよくかき混ぜた後焼き上げたものである。生麩はグルテンか、グルテンに餅粉、米粉、小麦粉などをよく練り合わせた後、蒸すか湯で上げたものである。












「金澤老舗繫盛記」より















18.戸手惣次郎商店(堀川町)創業明治2年(1869年)
明治2年に初代宗太郎が箔打ち職人として独立し、13年には販売も行うようになり、その後は銀箔を中心に販売してきた。今は、各種の箔の製造販売、箔の二次加工、粉を手掛けるようになったという。
箔は、それだけでは何もならないが、日本の誇る美術工芸品の芸術性を高める貴重な材料であり、伝統工芸に携わる匠の技によって、はじめて真価が発揮されるという。
















「金澤老舗繫盛記」より














19.金澤豆腐(専光寺町)明治45年(1912年)
初代道越彦次郎が金沢市菊川で「道越豆腐店」を創業し、2代目道越一男が戦後、金沢市で初めて「稲荷自動揚げ機」を導入するなど積極的に経営を行ってきた。現在はの社長は、全国各地の催事へ積極的に参加し、金澤豆腐を広げる一方、大豆をすべて石川県に切り替え、地産地消にこだわった豆腐作りを行っているという。
ブースに「ひろず」写真が貼られていたが、昔よく食べた記憶がある。「かんもどき」とも言い、中に、小さなレンコンやニンジン、シイタケ、ぎんなんなどが入っていて、油揚げの汁がなんともおいしかった。



















20.つば甚(寺町5)創業宝暦2年(1752年)
ここは、代々加賀藩前田家のお抱え鍔師であった2代目甚兵衛が営んだ小亭塩梅屋「つば屋」が始まりである。そして3代目甚兵衛は、美味珍味に恵まれた加賀能登の幸にさまざまな創意工夫を加えた料理を友人たちをもてなしていたが、その評判が藩主にも伝わりお褒めの言葉を頂いたことから、この小亭を始めるに至ったという。
松尾芭蕉が宿泊し、句会、茶会などを催したといわれる「是庵」、そして伊藤博文は味ともてなし、眺望を愛で「風光第一楼」の揮毫を残している。
ブースには、金屏風の前に輪島塗の「ご膳」や「重箱」などが並べられていた。













「金澤老舗繫盛記」より














21.小西新薬堂(新竪町)創業明治39年(1905年)
店内には「サトちゃん」グッズがたくさん置いてあり、全国から多くのサトちゃんファンが訪れるという。
店の中の10帖のスペースを「会合・ギャラリー」などに貸すという。



















21.目細八郎兵衛商店(安江町)創業天正3年(1575年)
加賀の「めぼそ針」は、京の「みやす針」とともに全国に知られ、天正3年創業というから織田信長が活躍していたころからになる。初代八郎兵衛が考案した「めぼそ針」は、穴を大きく開けたことに特徴があり、目の悪い人でも苦労なく糸を通せることと丈夫であることが自慢であるという。
加賀藩に針を納めたことによって目細の姓と帯刀を許された。東別院が近くにあり、昔は遠近とわず信心家が訪れ、寺院を囲む塀に打ち付けられた針へ汚れた草履をつり、新しい履物に替えて参拝したという。









2020年2月22日土曜日

金沢町屋周遊ツアー(金沢駅界隈)(4)金澤町家スタジオ

金沢町屋周遊ツアー(金沢駅界隈)(3)の続きで、その後「金沢町屋スタジオ」に行った。ここは、戦後に建てられた、間口7間という大きな商家型高町屋だという。横の白い建物は、ここの主人が経営しているというゲストハウスである。



















去年(2019年)に、今後100年の維持に向け1階の能の稽古場を全面的の改修し、総ヒノキ造りの「金澤町家スタジオ」としてリニュアルオープンした。コンセプトは「日常から離れ”無”を直接に感ずる空間」だという。ここのご主人が「能楽小鼓」の先生で、講座を開いている。
























さすがの先生が打つ小鼓のよい音を聞いた後、参加者の勇気ある女性が二人出て、小鼓を打つ体験をした。最初は、うまく音が出なかったが、先生の指導によってだんだん音が出るようになった。
























その後、2階に上がるとすばらしい「群青の間」の座敷に案内された。壁に接触すると困るからということで、持ち物も1階に置いたまま入った。戦後まもないころ(?)に上級の武家屋敷を壊すということで、頂いたと言っていた。



















床の間の金色の掛け軸といい、欄間の透かし彫りや、障子の組子の模様も素晴らしい部屋である。




























また、その近くに茶室があったが、ここも洒落た部屋である。



















続いて、同じ町家に建物の横に入口がある寿司屋の「はた中」という店に入った。広々とした店内は、従来の寿司屋と一味違う店の雰囲気である。カウンターとこ上がりのテーブル席がある、以前はマレーシア(?)で寿司屋をやっていたという女性が握る店だ。



















最初に出てきたのが、カニやいくら、シラスが入ったちらし寿司である。あっさりした味でおいしかった。



















続いてにぎり寿司が三種出てきた。「トロ」と「アジ」と何だったか忘れたが、ご飯にしょうゆ味が付けられた、今までに食べたことがないようなお寿司だった。

2019年11月15日金曜日

中央通り町の小路(4)法船寺

中央通り町の小路(2)の続きで、さらに歩くと「法船寺」というお寺がある。はじめは尾張の国の犬山にあったが、開山念誉一公上人は、前田利家、利長に従い、越前府中、越中守山、富山と移り、1599(慶長4)年に金沢城移城に伴い、現在の犀川詰の旧地に寺地を拝領した。五枚町から古寺町に入る角にあった。1631(寛永8)年に金沢の町は大火に見まわれ地所を一旦返上するが、1701(元禄14)年の現在の地に堂宇を建立した。



















山門は江戸時代のもので古めかしく、また高くなって上に上がれるように周りに手摺が付いている。「上に上がって太鼓か何かを鳴らしていたのでは」とここの住職が言っていた。










山門のすぐ裏にある小さな石造物は「正月の寒さ あたらしい 人の袖」は「小松砂丘書」と刻まれていた。
























その横には、石垣積みの基礎上に「名号塔」が建っている。方形枠に一段掘り下げて「南無阿弥陀仏」と花押が刻まれている。江戸後期に活躍した「義賢」が揮毫した。
























ここは、江戸時代から地蔵信仰霊場のひとつであったという。山門の裏にも地蔵さんが置かれている



















法報会の会員より新しいお地蔵さんが境内に安置されていて、地蔵祭りが行われる。
地蔵大菩薩四十八か所詠歌にも巡拝46番目に指定され、御詠歌もある法報会の地蔵建立の目的は、自分一代で絶えてしまう家、また、仕事の本拠地が遠方であるために、お参りに来れなくなってしまうであろう人々の祖先の霊をその地蔵尊に守っていただくことである。
1631(寛永8)年に、この法船寺から出火した火災は城下をなめつくす大火となり、金沢城も焼失した。これを契機として、城内に水を引くために「辰巳用水」が造られた



















このお堂の中には「薬師如来像」が祀られているという。薬師講が盛んであったことがあり、そのお祭りの時は露天商も建ち並ぶ賑わいを見せていたという。



















「義猫塚」は「法船寺のねずみ退治」という昔ばなしに関連する石塔である。代々の住職が「義猫塚」として手厚く祀っているという。
この話は享保年間に存誉上人が住職をしていた時で、この法船寺に年老いた大鼠が住みつき、お経や仏具などを食い荒らすので、飼っていた猫に「あのドロボウネコを退治してみよ」と話しかけたが、「自分だけではできないので、能登にいる強い猫を呼んでくる」といって姿を消した。数日たったころに、本堂の天井裏でものすごい格闘の音がした。そして天井の隙間からポトリポトリと血が落ちてきた。天井裏に上がってみると猫より数倍大きいネズミが食い殺され、二匹の猫も力尽きて死んでいた。手厚く上人がなきがらを埋葬したのが「義猫塚」という。
























このお寺の裏側には多くのお墓があった。



















「法船寺」前の大通りに「旧寶船寺町」の標柱ががあった。「寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれた。明治4年、宝船路町に改められた。」とあった。