2025年5月9日金曜日

石川県立能楽堂

今回は、石引にある「 石川県立能楽堂舞台」が見学できるということで見てきた。

加賀藩の前田家は、藩主を初めとして能に力を入れていたので、江戸時代には金沢城の二の丸御殿や今の兼六園に「竹沢御殿」があった頃に「能舞台」があったように、幕末まで能楽者を手厚く保護した。5代綱紀は,能楽者を宝生流への改流を命じ、一方で領内の士庶にも奨励したため、今でも金沢では能楽が盛んであり、「加賀宝生」と言われている。

明治時代には、金沢の能楽は一時衰退したが、加賀宝生「中興の祖」といわれる初代佐野吉之助が再興に尽力し、1931(昭和6)年二代佐野吉之助が「金澤能楽堂」内部に能舞台を建築した。そして1971(昭和46)年に、現在の「石川県立能楽堂」の内部に移築された。



















能「杜若」 吉田三郎作
















「能舞台」は、江戸時代までは屋外に建築されたため、雨から本舞台を守るため屋根が付ていた。明治時代以降は、能舞台を風雨から守るため屋内に納めるようになった。ここ「石川県立能楽堂」の建物の内部にあるが、館内にあっても同じように舞台の上には屋根がある。入母屋造りで、正面の破風には懸魚という装飾が付いている。



















舞台の上の梁には「蟇股」の装飾部材が付いている。舞台の奥に描かれている「老松」は「鏡板」と言われ、奈良県の春日大社にある「影向の松」の前で演じられた名残として描かれるようになったという。

ここの「老松」の作者は、金沢出身の日本画家・玉井敬泉であり、竹沢御殿にあった舞台の鏡板の原図(所在不明)を元にして描いたとされている。

舞台の前には2段の階段が付いているが、藩政期に寺社奉行が使い、開演の宣言をしていた名残で、現在は使われていない。



















左側の奥には「橋掛り」と言い、本舞台への通路であるとともに、重要な演技空間となっている。「橋掛り」の手前に植えられた松は、舞台に近い方から一の松、二の松、三の松と順々に小さくして遠近感を出しているという。



















通常の能舞台の下には大きな甕が埋められているが、それを見ることができた。これは、足拍子や謡の発声などの振動に共鳴し大きく響かせる効果、音の雑味をまろやかにする効果あるといわれている。中央に1個、周囲に6個を中央に向けて傾けて配置し、後座に2個、橋掛かりも傾けて2個、計11個設置されている。



















客席の後ろには 「能面」が置かれていた。能面にはいろいろな面があるが、広阪にある「能楽美術館」に行くと多くの「能面」を見ることができる。


















今回は、関係者がいたので舞台裏も少し見ることができた。この写真は舞台の入口にある「揚幕」をあげて、「橋掛り」・「舞台」・「見所」(見物席)が見える。


















この部屋は「楽座」といって「シテ」などの控室になるという。化粧など舞台に出る準備する場所だと聞いた。能に使う小道具なども置かれていた。


















館内の配置図