信州ドライブ(2)北国街道の続きで、ここ「関川関所の道の歴史館」には、他にもいろいろ展示されていた。
庶民の男性と女性の旅姿(この姿なかなかかっこいいと思う)
旅人の携帯するものが展示されていた。夜の明り取りのための「がん灯」や「煙草入れ」、「キセル」などが並んでいた。
「関川の関所」には、さらに佐渡でとれた金を江戸へ運ぶ際の3ルートの一つで、この関所で厳しく取り締まったということが展示されていた。
佐渡の金、銀は江戸時代には全国の産出量の半分くらいはあったという。5~10万に人が金を求めて佐渡に渡った。そして、江戸幕府が天領(直轄地)として、佐渡金山奉行を置き管理していたという。
佐渡鉱山から掘り出された金銀は、貨幣に鋳造された後の御金荷(おかねに)として箱詰めされ、舟で運ばれ陸揚げされ、馬で搬送され、北国街道、三国街道、会津街道のどれか一つを使い、江戸城内の御金蔵に運ばれた。こうして運ばれた佐渡の金銀は、幕府の重要な財源として江戸経済を支えていたという。
最初は、なぜここに「きんさん、ぎんさん」の像があるのか最初は分からなかったが、佐渡の金銀が運ばれた街道の姥坂に座像があった。
この関所跡のすぐ近くに「加賀藩本陣跡、明治天皇行在所跡」があった。ここは、関川宿にある本陣で、加賀藩はじめ九つの大名の本陣として門、玄関、上段の間の設置が許された。1879(明治11)の明治天皇の北陸行幸に際して、行在所(宿泊所)となったが、その後の火災により、建物は焼失したが、庭は残っている。
大石家の庭園は、小堀遠州の指導を受けたといわれ、池泉回遊式の庭園は当時として屈指の規模を持ち、旧家にふさわしい風格を備えているという。
池の東側に位置する長範山を借景とし、関川の清流を眺めることができるところに茶室があり、茶人・歌人を招いての催しも開かれていたという。
北国街道の通りの向かい側に北林山「浄善寺」というお寺がある。ここ住職は寺小屋の師匠で俳号を「指月」といい小林一茶と親交があった寺で、この寺で句会がよく行われたという。
階段を上がった境内に「指月上人の位階上りけるを祝して いたれりや仏の方より花衣」の小林一茶の句碑があった。寺の中には親鸞聖人ゆかりの松で作った親鸞聖人像と親鸞聖人が念仏を書いたきょうせきがある。
寺の裏の方には、さらに上の方に上る階段があり、杉の大木とお墓が数多くあった。
2017年1月6日金曜日
2016年11月26日土曜日
京都ドライブ(7) 竜安寺
京都ドライブ(6)の続きで、次の日、ホテルから近い世界遺産であり、国宝となっている「竜安寺」に行った。ここは、徳大寺家の別荘だったのを、1450(宝徳2)年官領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものという。
ここで何と言っても有名なのは、この石庭で、東西25m、南北10mの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配したものである。
朝早く行って見るのがよいよいうことで、まだ人があまりいない時に見に行った。そしてこの庭を見て何を感ずるかは人それぞれ自由であるという。何人かの外国人もいて、長く座ってじっと庭を見つめていた。
石の配置から「七五三の庭」とか「虎の子渡しの庭」とも呼ばれる。ここには、どこから眺めても一度に15個の石を見ることはできないという。同じ庭を見ていても場所によって石の見え方が違う。同じものを見ていても自分の見方だけが正しい思うなということか。
毎朝、このきれいな砂紋を引いているというが、この広さの庭全面をきれいに引くのは大変な作業で、また技術である。
方丈の襖絵は白と黒だけの地味であるがこれもまたすばらしい。
方丈から眺められるしっとりとした苔がすばらしい。
水戸光圀公から寄進されたと伝わる蹲は、禅の格言を謎解きに図案化された無言の悟道であるという。秀吉が称賛したと伝えられる。
お寺の周りを歩いていると、苔庭に大きな石や木々がうっそうと伸びている。
周りの枝や葉を伐採し、まっすぐに伸びた木だけを残した杉が何本かあった。面白い光景である。
「鏡容池」は、徳大寺家によって築かれたもので、かってはおしどりの群れが遊んだところからおしどり池と呼ばれた。石庭鑑賞後に一巡りして眺めるとほっとするのは、やはり池の水の効果であろうか。
池の向こう側に三つの島があり、「弁天島」には真田幸村の眠る墓があるという。遠くの山並みもきれいに眺望できる所である。
ここで何と言っても有名なのは、この石庭で、東西25m、南北10mの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配したものである。
朝早く行って見るのがよいよいうことで、まだ人があまりいない時に見に行った。そしてこの庭を見て何を感ずるかは人それぞれ自由であるという。何人かの外国人もいて、長く座ってじっと庭を見つめていた。
石の配置から「七五三の庭」とか「虎の子渡しの庭」とも呼ばれる。ここには、どこから眺めても一度に15個の石を見ることはできないという。同じ庭を見ていても場所によって石の見え方が違う。同じものを見ていても自分の見方だけが正しい思うなということか。
毎朝、このきれいな砂紋を引いているというが、この広さの庭全面をきれいに引くのは大変な作業で、また技術である。
方丈の襖絵は白と黒だけの地味であるがこれもまたすばらしい。
方丈から眺められるしっとりとした苔がすばらしい。
水戸光圀公から寄進されたと伝わる蹲は、禅の格言を謎解きに図案化された無言の悟道であるという。秀吉が称賛したと伝えられる。
お寺の周りを歩いていると、苔庭に大きな石や木々がうっそうと伸びている。
周りの枝や葉を伐採し、まっすぐに伸びた木だけを残した杉が何本かあった。面白い光景である。
「鏡容池」は、徳大寺家によって築かれたもので、かってはおしどりの群れが遊んだところからおしどり池と呼ばれた。石庭鑑賞後に一巡りして眺めるとほっとするのは、やはり池の水の効果であろうか。
池の向こう側に三つの島があり、「弁天島」には真田幸村の眠る墓があるという。遠くの山並みもきれいに眺望できる所である。
2016年11月10日木曜日
京都ドライブ(4) 京都御所
京都ドライブ(3)の続きで、その後に「京都御所」に行った。ここは「桂離宮」などと同じで、「宮内庁」の管轄で、予約しないと見れないと思っていたが、最近、いつでも一般公開されるようになったと聞いたので直接行った。
現在の御所は、1331(元弘元)年に光厳天皇が、ここに即位された以後、1869(明治2)年に明治天皇が東京に遷られるまで、皇居とされた。
パンフレットに載っていたコースに従って見学した。
「新御車寄」は1915(大正4)年の大正天皇の即位に際し建てられたものである。大正以後の天皇皇后両陛下の玄関であるという。
朱色の「承明門」から「紫宸殿」を見る。
「紫宸殿」は、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式高い正殿である。昭和天皇の即位礼もここで行われた。入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築で、南に面して建てられている。
入母屋桧皮葺の実物模型が飾られていた。檜の皮が何重にも重ねられていた。
「清涼殿」は、平安時代に日常の生活の場としていようされていた御殿で、入母屋桧皮葺の寝殿造りである。現在のものは平安時代のものより小さくなっているが、古制に則して建てられ、主に儀式の際に使用された。元は日常の御殿であったため内部の襖などによる間仕切りが多くなっている。
ここの庭園は、木々が生い茂り、池を中心とした回遊式庭園であり、前の方は洲浜で、池の中に飛び石を置き、欅橋が架かり、対岸に樹木を配し、様々な景色を楽しむことができるという。
「御内庭」には、曲折した鑓水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奥に茶室を構えている。
「小御所」は、いろいろな儀式が行われ、武家との対面にも用いられた。寝殿造りと書院造りの両要素を混合した様式の建物である。1867(慶応3)年の王政復古の大号令が発せられた日の夜に「小御所会議」がここで行われたという。
この「京都御所」の周りには「京都御苑」という広大な公園になっている。明治2年に御所が東京に移るまでは、約200軒にもおよぶ公家屋敷や宮家があった。その邸宅跡は、現在玉砂利を強いた広い道に変わり、広大な芝生が人々の憩いの場になっている。
現在の御所は、1331(元弘元)年に光厳天皇が、ここに即位された以後、1869(明治2)年に明治天皇が東京に遷られるまで、皇居とされた。
パンフレットに載っていたコースに従って見学した。
「新御車寄」は1915(大正4)年の大正天皇の即位に際し建てられたものである。大正以後の天皇皇后両陛下の玄関であるという。
朱色の「承明門」から「紫宸殿」を見る。
「紫宸殿」は、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式高い正殿である。昭和天皇の即位礼もここで行われた。入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築で、南に面して建てられている。
入母屋桧皮葺の実物模型が飾られていた。檜の皮が何重にも重ねられていた。
「清涼殿」は、平安時代に日常の生活の場としていようされていた御殿で、入母屋桧皮葺の寝殿造りである。現在のものは平安時代のものより小さくなっているが、古制に則して建てられ、主に儀式の際に使用された。元は日常の御殿であったため内部の襖などによる間仕切りが多くなっている。
ここの庭園は、木々が生い茂り、池を中心とした回遊式庭園であり、前の方は洲浜で、池の中に飛び石を置き、欅橋が架かり、対岸に樹木を配し、様々な景色を楽しむことができるという。
「御内庭」には、曲折した鑓水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奥に茶室を構えている。
「小御所」は、いろいろな儀式が行われ、武家との対面にも用いられた。寝殿造りと書院造りの両要素を混合した様式の建物である。1867(慶応3)年の王政復古の大号令が発せられた日の夜に「小御所会議」がここで行われたという。
この「京都御所」の周りには「京都御苑」という広大な公園になっている。明治2年に御所が東京に移るまでは、約200軒にもおよぶ公家屋敷や宮家があった。その邸宅跡は、現在玉砂利を強いた広い道に変わり、広大な芝生が人々の憩いの場になっている。
2016年7月7日木曜日
2016東京ドライブ(4)徳田秋声旧宅 東京大学(旧加賀藩上屋敷)①
2016東京ドライブ(3)の続きで、その後、「旧岩崎邸庭園」から近い本郷の「東京大学」に向かった。そして「東京大学」の正門の向かいの通りに入り、以前から近くに「徳田秋声旧宅」があるということを聞いていたので、そちらへ向かった。しかしなかなか見つからず、途中に二人の人に聞きながやっと見つけることができた。
しかし、鍵がかかっていて中を見ることはできなかった。現在は秋声の孫が住んでいると聞いている。「東京大学」の正門前の大通りから近いが、細い通りに入るとひっそりしたところだった。こういうところで長い間秋声が執筆活動をしていたのかと思いをはせる。
また、家の裏にある白い建物が、泉鏡花の弟が住んでいたというアパート(秋声と鏡花が和解したきっかけとなった)なのであろうか?(建物は改修はされているが)
秋声が使っていた書斎は、まだそのままあると聞いたが、見ることはできなかった。下図の写真は「徳田秋声記念館」にある再現された書斎。

「徳田秋声旧宅」を見た後「東京大学」に行き、正面から入った。ここは、言わずと知れた江戸時代には「加賀藩上屋敷」のあったところである。
構内での撮影は許可がいると、あらかじめ聞いていたので、前に立っていた警備員に確認したところ、「どうぞ、どうぞ」と言われ難なくは入れた。他にも見物客らしい人が何人もいた。
正門を入って、安田講堂までは銀杏並木があり、両側にレトロな建物が建ち並んでいる。
銀杏並木を超えると「安田講堂」がある。この建物は1921年に起工し、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年に竣工したというからかなり古い。
この建物で、何といっても思い出すのは1969(昭和44)年にあった大学解体を掲げ過激派学生たちが立てこもった事件で、機動隊と衝突し、機動隊が放水をしていた様子をテレビで見たのを覚えている。
闘争により一時荒れ果てたが修繕で修復し、現在は広場の地下には食堂が、また講堂の裏側には、生協購買部やコンビニなどが入っているという。講堂前の玄関のタイル、ガラス張りにはレトロな装飾がなされていた。
安田講堂の前を右に回ると大きな銅像があった。誰だか分らなかったが、後で調べてみると濵尾新(あまお あらた)という人物で、東大創成期に最も活躍した一人で、東大の発展に生涯を費やしたという。
この銅像の裏側の坂を下りると「三四郎池」に出る。夏目漱石の小説の「三四郎」以来、この名前がついたが、もとは旧加賀藩上屋敷の庭で、3代前田利常が1638年に築造された池で、その死後、5代綱紀が、さらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園のなかでも第一と称されているという。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の名称は「育徳園心字池」である。この庭園「育徳園」こそ、兼六園の作庭のきっかけとなった庭である。3代利常は、徳川秀忠、家光の「御成」のために作庭したものである。一体どんな庭園だったのであろうか?
池の近くに、この池に注ぐ滝があったが、この辺りにいると東京大学のキャンパスの中にいることを忘れてしまいそうな深山の中にいるような静けさだ。
しかし、鍵がかかっていて中を見ることはできなかった。現在は秋声の孫が住んでいると聞いている。「東京大学」の正門前の大通りから近いが、細い通りに入るとひっそりしたところだった。こういうところで長い間秋声が執筆活動をしていたのかと思いをはせる。
また、家の裏にある白い建物が、泉鏡花の弟が住んでいたというアパート(秋声と鏡花が和解したきっかけとなった)なのであろうか?(建物は改修はされているが)
秋声が使っていた書斎は、まだそのままあると聞いたが、見ることはできなかった。下図の写真は「徳田秋声記念館」にある再現された書斎。
「徳田秋声旧宅」を見た後「東京大学」に行き、正面から入った。ここは、言わずと知れた江戸時代には「加賀藩上屋敷」のあったところである。
構内での撮影は許可がいると、あらかじめ聞いていたので、前に立っていた警備員に確認したところ、「どうぞ、どうぞ」と言われ難なくは入れた。他にも見物客らしい人が何人もいた。
正門を入って、安田講堂までは銀杏並木があり、両側にレトロな建物が建ち並んでいる。
銀杏並木を超えると「安田講堂」がある。この建物は1921年に起工し、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年に竣工したというからかなり古い。
この建物で、何といっても思い出すのは1969(昭和44)年にあった大学解体を掲げ過激派学生たちが立てこもった事件で、機動隊と衝突し、機動隊が放水をしていた様子をテレビで見たのを覚えている。
闘争により一時荒れ果てたが修繕で修復し、現在は広場の地下には食堂が、また講堂の裏側には、生協購買部やコンビニなどが入っているという。講堂前の玄関のタイル、ガラス張りにはレトロな装飾がなされていた。
安田講堂の前を右に回ると大きな銅像があった。誰だか分らなかったが、後で調べてみると濵尾新(あまお あらた)という人物で、東大創成期に最も活躍した一人で、東大の発展に生涯を費やしたという。
この銅像の裏側の坂を下りると「三四郎池」に出る。夏目漱石の小説の「三四郎」以来、この名前がついたが、もとは旧加賀藩上屋敷の庭で、3代前田利常が1638年に築造された池で、その死後、5代綱紀が、さらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園のなかでも第一と称されているという。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の名称は「育徳園心字池」である。この庭園「育徳園」こそ、兼六園の作庭のきっかけとなった庭である。3代利常は、徳川秀忠、家光の「御成」のために作庭したものである。一体どんな庭園だったのであろうか?
池の近くに、この池に注ぐ滝があったが、この辺りにいると東京大学のキャンパスの中にいることを忘れてしまいそうな深山の中にいるような静けさだ。
2016年5月26日木曜日
旧園邸 松向庵
今回は、西町の尾崎神社に向かう通りの左側にある、「旧園邸 松向庵」に行ってきた。
外観は、長屋門を思わせる門と塀が端正な趣を醸し出している。
玄関は、前庭に石塔などがある趣のある近代和風住宅である。私の子供のころには、よくこのような家の玄関を見かけたものだ。そして、最近の私の小学校の同窓会で聞いたが、ここの家に住んでいたという同級生もいた。
ここは、1921(大正10年ごろに羽二重商の本郷長次郎が茶道に通じおり、邸宅を建てる際に各部屋が茶事に使えるように、露地ともども茶道表千家家元の指導を受けて作られた。大正から昭和のはじめにかけては、月例の窯がかけられていたといわれている。
その後は、この建物は園西四郎氏が取得、氏の亡き後は時子夫人の住まいとしていたが、夫人の死後、その道志により平成4年10月、金沢市に寄贈され、平成6年に金沢市指定文化財に指定されたという。
玄関の左手の渡り廊下、土間の奥に土蔵が見える。
10畳の座敷と7.5畳の仏間がつながっており、最近はここで茶会が開かれるという。
その間にある簾欄間
仏間から見える中庭、縁の廊下には風流な手摺がついている。
座敷の横にある水屋は、茶会の時に使われる。
玄関横にある座敷
そこから見える庭には、石灯篭や手水鉢などが置いてある。
座敷から庭を見る前に土縁があるが、その上には長い庇が付いていて、その庇に明かり採りのためか障子が付いていた。
本来の茶室「松向庵」は三畳の狭い部屋であり、裏には「躙り口」もある。今は利用できない。
座敷が3つあり、庭も「前庭」、「中庭」を含めると4つもある、「茶室」をもった大きな住宅ですばらしいものを見た。
外観は、長屋門を思わせる門と塀が端正な趣を醸し出している。
玄関は、前庭に石塔などがある趣のある近代和風住宅である。私の子供のころには、よくこのような家の玄関を見かけたものだ。そして、最近の私の小学校の同窓会で聞いたが、ここの家に住んでいたという同級生もいた。
ここは、1921(大正10年ごろに羽二重商の本郷長次郎が茶道に通じおり、邸宅を建てる際に各部屋が茶事に使えるように、露地ともども茶道表千家家元の指導を受けて作られた。大正から昭和のはじめにかけては、月例の窯がかけられていたといわれている。
その後は、この建物は園西四郎氏が取得、氏の亡き後は時子夫人の住まいとしていたが、夫人の死後、その道志により平成4年10月、金沢市に寄贈され、平成6年に金沢市指定文化財に指定されたという。
玄関の左手の渡り廊下、土間の奥に土蔵が見える。
10畳の座敷と7.5畳の仏間がつながっており、最近はここで茶会が開かれるという。
その間にある簾欄間
仏間から見える中庭、縁の廊下には風流な手摺がついている。
座敷の横にある水屋は、茶会の時に使われる。
玄関横にある座敷
そこから見える庭には、石灯篭や手水鉢などが置いてある。
座敷から庭を見る前に土縁があるが、その上には長い庇が付いていて、その庇に明かり採りのためか障子が付いていた。
本来の茶室「松向庵」は三畳の狭い部屋であり、裏には「躙り口」もある。今は利用できない。
座敷が3つあり、庭も「前庭」、「中庭」を含めると4つもある、「茶室」をもった大きな住宅ですばらしいものを見た。
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