扇町、暁町、横山町界隈(2)の続きで、この辺りは加賀八家の「横山家」の上、中、下屋敷などがあったところである。「横山山城守」の屋敷は藩政期初めは金沢城の中にあったが、火事で焼けた後に、元禄(1668~1704)のころに今の横山町に移ったという。当時5,500坪あり、居住地付近は一族や家臣の屋敷が立ち並び、あたかも横山家の小城下町の様相を呈していたという。
横山町界隈は狭い道が多いが、その中で異様に広い所がある。ここは、上図の古地図からもわかるが、「横山家上屋敷」の前にある広見があるが、ここに正門があったらしい。金沢に30くらいあるという広見の中でも、かなり大きい方だ。ここに加賀八家の「横山家」の説明板があった。
この広見の脇にまだ建てて新しそうな「横山町地蔵尊」があった。
この付近の道は藩政期にできた狭い道が多く、金沢らしい城下町の雰囲気が残った所である。まだ、再開発が遅れているのか古そうな家が多い。この辺りを歩くのは初めてで、狭い道で行きどまりが多く、歩いているうちに何度か道に迷ってしまった。
ここに、知る人ぞ知る「どじょうのかば焼き」を売っている「浅田」という店がある。今では近江町市場のほかで売っているのはここだけではと思うが?
店の中では、ちょうど観光客の京都から来たという女の人がどじょうを食べていたが、金沢駅からかなり遠い、ここまで「金沢名物のどじょうのかば焼き」を求めて食べに来る人もいるのだなあと思った。
「浅田」さんは約50年位前からやっているという。店の中にはどじょうを焼く古めかしいかわいいコンロがあった。
「金沢名物のどじょうのかば焼き」は、藩政期に長崎浦上のキリシタン、500人余りが政府の改宗に応じなかったため捕らえられ、その後加賀藩に託され、卯辰山にこもっていた時に、食うや食わずの中で少しでも精のつくものと、せせらぎを行くどじょうを採り、醬油をつけて焼いたのが始まりである。ウナギももちろんおいしいが、このどじょうのかば焼きの、少し苦みを感ずる独特の味は私も大好きで、ビールのつまみには最高である。
「加賀、能登 郷土料理」より
この付近辺からは町の中心に出るには大変であるが、「ふらっとバス 材木町ルート」が走っているので、シニアにとっても便利であろう。
少し歩くと、浅野川に架かる「常盤橋」に出る。昭和28年の大洪水で流失した後、現在の橋になった。擬宝珠のある橋で、「天神橋」と「鈴見橋」の間にあるが、ここは車の行き来が少ない静かな橋である。
直木賞をもらった地元の女流作家「唯川 恵」の作品の「川面を滑る風」は、その主人公が「常盤橋」周辺で生まれ、東京から帰郷した子供連れの女性が実家に帰ってきたところから話が始まる。5年経つが、自分自身もここの風景も全く変わらないことを記している。確か「唯川 恵」がこの近くで生まれ育っているはずだから、主人公と自分自身を重ねている作品か?
下の写真は「常盤橋」から上流側を見る。
「常盤橋」の下流側を見る。私の子供のころに、この近くに「油谷牧場」があり、よく行ったのを覚えている。
この「常盤橋」の近くに「金箔製造販売 舞谷」の看板が掛かったひときわ立派な町屋風の建物があった。
2017年8月2日水曜日
2016年7月7日木曜日
2016東京ドライブ(4)徳田秋声旧宅 東京大学(旧加賀藩上屋敷)①
2016東京ドライブ(3)の続きで、その後、「旧岩崎邸庭園」から近い本郷の「東京大学」に向かった。そして「東京大学」の正門の向かいの通りに入り、以前から近くに「徳田秋声旧宅」があるということを聞いていたので、そちらへ向かった。しかしなかなか見つからず、途中に二人の人に聞きながやっと見つけることができた。
しかし、鍵がかかっていて中を見ることはできなかった。現在は秋声の孫が住んでいると聞いている。「東京大学」の正門前の大通りから近いが、細い通りに入るとひっそりしたところだった。こういうところで長い間秋声が執筆活動をしていたのかと思いをはせる。
また、家の裏にある白い建物が、泉鏡花の弟が住んでいたというアパート(秋声と鏡花が和解したきっかけとなった)なのであろうか?(建物は改修はされているが)
秋声が使っていた書斎は、まだそのままあると聞いたが、見ることはできなかった。下図の写真は「徳田秋声記念館」にある再現された書斎。

「徳田秋声旧宅」を見た後「東京大学」に行き、正面から入った。ここは、言わずと知れた江戸時代には「加賀藩上屋敷」のあったところである。
構内での撮影は許可がいると、あらかじめ聞いていたので、前に立っていた警備員に確認したところ、「どうぞ、どうぞ」と言われ難なくは入れた。他にも見物客らしい人が何人もいた。
正門を入って、安田講堂までは銀杏並木があり、両側にレトロな建物が建ち並んでいる。
銀杏並木を超えると「安田講堂」がある。この建物は1921年に起工し、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年に竣工したというからかなり古い。
この建物で、何といっても思い出すのは1969(昭和44)年にあった大学解体を掲げ過激派学生たちが立てこもった事件で、機動隊と衝突し、機動隊が放水をしていた様子をテレビで見たのを覚えている。
闘争により一時荒れ果てたが修繕で修復し、現在は広場の地下には食堂が、また講堂の裏側には、生協購買部やコンビニなどが入っているという。講堂前の玄関のタイル、ガラス張りにはレトロな装飾がなされていた。
安田講堂の前を右に回ると大きな銅像があった。誰だか分らなかったが、後で調べてみると濵尾新(あまお あらた)という人物で、東大創成期に最も活躍した一人で、東大の発展に生涯を費やしたという。
この銅像の裏側の坂を下りると「三四郎池」に出る。夏目漱石の小説の「三四郎」以来、この名前がついたが、もとは旧加賀藩上屋敷の庭で、3代前田利常が1638年に築造された池で、その死後、5代綱紀が、さらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園のなかでも第一と称されているという。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の名称は「育徳園心字池」である。この庭園「育徳園」こそ、兼六園の作庭のきっかけとなった庭である。3代利常は、徳川秀忠、家光の「御成」のために作庭したものである。一体どんな庭園だったのであろうか?
池の近くに、この池に注ぐ滝があったが、この辺りにいると東京大学のキャンパスの中にいることを忘れてしまいそうな深山の中にいるような静けさだ。
しかし、鍵がかかっていて中を見ることはできなかった。現在は秋声の孫が住んでいると聞いている。「東京大学」の正門前の大通りから近いが、細い通りに入るとひっそりしたところだった。こういうところで長い間秋声が執筆活動をしていたのかと思いをはせる。
また、家の裏にある白い建物が、泉鏡花の弟が住んでいたというアパート(秋声と鏡花が和解したきっかけとなった)なのであろうか?(建物は改修はされているが)
秋声が使っていた書斎は、まだそのままあると聞いたが、見ることはできなかった。下図の写真は「徳田秋声記念館」にある再現された書斎。
「徳田秋声旧宅」を見た後「東京大学」に行き、正面から入った。ここは、言わずと知れた江戸時代には「加賀藩上屋敷」のあったところである。
構内での撮影は許可がいると、あらかじめ聞いていたので、前に立っていた警備員に確認したところ、「どうぞ、どうぞ」と言われ難なくは入れた。他にも見物客らしい人が何人もいた。
正門を入って、安田講堂までは銀杏並木があり、両側にレトロな建物が建ち並んでいる。
銀杏並木を超えると「安田講堂」がある。この建物は1921年に起工し、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年に竣工したというからかなり古い。
この建物で、何といっても思い出すのは1969(昭和44)年にあった大学解体を掲げ過激派学生たちが立てこもった事件で、機動隊と衝突し、機動隊が放水をしていた様子をテレビで見たのを覚えている。
闘争により一時荒れ果てたが修繕で修復し、現在は広場の地下には食堂が、また講堂の裏側には、生協購買部やコンビニなどが入っているという。講堂前の玄関のタイル、ガラス張りにはレトロな装飾がなされていた。
安田講堂の前を右に回ると大きな銅像があった。誰だか分らなかったが、後で調べてみると濵尾新(あまお あらた)という人物で、東大創成期に最も活躍した一人で、東大の発展に生涯を費やしたという。
この銅像の裏側の坂を下りると「三四郎池」に出る。夏目漱石の小説の「三四郎」以来、この名前がついたが、もとは旧加賀藩上屋敷の庭で、3代前田利常が1638年に築造された池で、その死後、5代綱紀が、さらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園のなかでも第一と称されているという。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の名称は「育徳園心字池」である。この庭園「育徳園」こそ、兼六園の作庭のきっかけとなった庭である。3代利常は、徳川秀忠、家光の「御成」のために作庭したものである。一体どんな庭園だったのであろうか?
池の近くに、この池に注ぐ滝があったが、この辺りにいると東京大学のキャンパスの中にいることを忘れてしまいそうな深山の中にいるような静けさだ。
2015年2月12日木曜日
石川近代文学館 島田清次郎
今回は、広阪にある洒落たレンガ造りの旧四高の建物の中にある「近代文学館」に行った。
建物の中の左半分は「旧四高記念館」になっており、以前に中に入り、このブログでも紹介しているが、今回は右側は半分の「石川近代文学館」の方に入った。
通常展示されている三文豪をはじめ石川県関係の文学作家については後日、紹介するとして、今回の特別展示として「彷徨の作家 島田清次郎」が開催されていた。私が特に興味のある作家の一人であったので、詳しく知りたいと思ってきた。
この日は私しかお客さんがいなく、「少し詳しく知りたい」と受付で言ったら、学芸員の人が来て「マンツーマン」で説明を受けた。
島田清次郎は石川県の美川の廻船問屋の家で生まれたが、2歳の時に父が亡くなり、母と一緒に祖父が経営している西茶屋街の「吉米楼」の2階に住むようになった。
島田清次郎が住んでいた「吉米楼」は現在の「西茶屋資料館」となっている
金沢商業時代には、弁論大会では学校の体制を批判し退学されているが、その頃、友人からドストエフスキーの小説を勧められ、これをきっかけに小説家になることを志す。
そして、若干20歳で評論家の生田長江に認められ、新潮社より「地上」を出版すると、忽ち30万部が売れるという当時の大ベストセラーとなった。そして、この小説は、特に若い世代に読まれたという。
「地上」は島田清次郎本人の分身の「大河平一郎」が主人公で、地上から「貧乏」という悪を一掃するために、自ら政治家になりたいという考えと、また一方、彼の少年時代の恋の破綻も描かれた青春小説として、大正時代の代表傑作であるという。
また、当時暮らしていた「西茶屋街」の様子も詳細に描かれ、郭小説の先駆をなすものであるという。
西茶屋街入り口にある石碑
時代の寵児となった清次郎は若い女性からもファンレターが多くきたり、欧米へ視察旅行に行ったりなど、有頂天になり、傲慢になっていた。そんな中で、彼のファンであった父が金沢出身の軍人少将の令嬢とのスキャンダルに遭うことになった。
彼は少年時代に「にしの郭」という特殊な環境で育ったことから、女性への偏見があって、その疑われる行動と、貧乏に対する反感から政治や官僚の不満、軍人などの考えと真っ向から対立していたし、そして時代の寵児となっていた流行作家ということで、恰好のスキャンダルとして取り上げられ、世間からたたかれることとなった。
世間でもうらやむ人が何か事件を起こすと、ジャーナリストがたたき、いじめたたく風潮は今の時代でもよくあることである。
後日、少将側の告訴は無実であることが分かったが、この事件はマスコミで大きく取り上げられ、裁判で多額の弁護料の支払いも重なり、心身ともに凋落した。
以後も奇矯な行動が目立つようになり、25歳で早発性痴呆(統合失調症)と診断され精神病院に収容され、31歳の若さで肺結核により亡くなったという。
精神病棟に入ってからのことはあまり知られていないが、ここの学芸員の話によると、そんな精神異常者が描く文章ではなかったという。あまりにも世間がたたきのめたからあろうと言っていた。
若干20歳で時代の寵児となった人格の未熟さが命取りになったということであるが、このベストセラーの「地上」もさることながら、その31歳で亡くなるまでの、天と地の人生を味わった生き様が、人々の感動を与えているという。
その後、七尾出身の作家の杉森久英が、この島田清次郎の人生について「天才と狂人のあいだ」という本を出して直木賞をもらっている。
昭和32年に放映された映画「地上」では金沢でロケがあり、仲の良い二人の演技が評判となった「川口浩」と「野添ひとみ」がその後結婚した。
「西茶屋資料館」より
また、昭和50年代には漫画雑誌「ジャンプ」でも題材となり、連載され多くの人の読まれし、平成に入ってからもテレビドラマにもなった。
「西茶屋資料館」より
最近の若い人は「島田清次郎」ついてあまり知らないかと思いきや、学芸員の話によるとマニアの人のなかでは評判で、「地上」や島田清次郎の人生に関しての書籍が電子書籍などでよく売れているらしい。
建物の中の左半分は「旧四高記念館」になっており、以前に中に入り、このブログでも紹介しているが、今回は右側は半分の「石川近代文学館」の方に入った。
通常展示されている三文豪をはじめ石川県関係の文学作家については後日、紹介するとして、今回の特別展示として「彷徨の作家 島田清次郎」が開催されていた。私が特に興味のある作家の一人であったので、詳しく知りたいと思ってきた。
この日は私しかお客さんがいなく、「少し詳しく知りたい」と受付で言ったら、学芸員の人が来て「マンツーマン」で説明を受けた。
島田清次郎は石川県の美川の廻船問屋の家で生まれたが、2歳の時に父が亡くなり、母と一緒に祖父が経営している西茶屋街の「吉米楼」の2階に住むようになった。
島田清次郎が住んでいた「吉米楼」は現在の「西茶屋資料館」となっている
金沢商業時代には、弁論大会では学校の体制を批判し退学されているが、その頃、友人からドストエフスキーの小説を勧められ、これをきっかけに小説家になることを志す。
そして、若干20歳で評論家の生田長江に認められ、新潮社より「地上」を出版すると、忽ち30万部が売れるという当時の大ベストセラーとなった。そして、この小説は、特に若い世代に読まれたという。
「地上」は島田清次郎本人の分身の「大河平一郎」が主人公で、地上から「貧乏」という悪を一掃するために、自ら政治家になりたいという考えと、また一方、彼の少年時代の恋の破綻も描かれた青春小説として、大正時代の代表傑作であるという。
また、当時暮らしていた「西茶屋街」の様子も詳細に描かれ、郭小説の先駆をなすものであるという。
西茶屋街入り口にある石碑
時代の寵児となった清次郎は若い女性からもファンレターが多くきたり、欧米へ視察旅行に行ったりなど、有頂天になり、傲慢になっていた。そんな中で、彼のファンであった父が金沢出身の軍人少将の令嬢とのスキャンダルに遭うことになった。
彼は少年時代に「にしの郭」という特殊な環境で育ったことから、女性への偏見があって、その疑われる行動と、貧乏に対する反感から政治や官僚の不満、軍人などの考えと真っ向から対立していたし、そして時代の寵児となっていた流行作家ということで、恰好のスキャンダルとして取り上げられ、世間からたたかれることとなった。
世間でもうらやむ人が何か事件を起こすと、ジャーナリストがたたき、いじめたたく風潮は今の時代でもよくあることである。
後日、少将側の告訴は無実であることが分かったが、この事件はマスコミで大きく取り上げられ、裁判で多額の弁護料の支払いも重なり、心身ともに凋落した。
以後も奇矯な行動が目立つようになり、25歳で早発性痴呆(統合失調症)と診断され精神病院に収容され、31歳の若さで肺結核により亡くなったという。
精神病棟に入ってからのことはあまり知られていないが、ここの学芸員の話によると、そんな精神異常者が描く文章ではなかったという。あまりにも世間がたたきのめたからあろうと言っていた。
若干20歳で時代の寵児となった人格の未熟さが命取りになったということであるが、このベストセラーの「地上」もさることながら、その31歳で亡くなるまでの、天と地の人生を味わった生き様が、人々の感動を与えているという。
その後、七尾出身の作家の杉森久英が、この島田清次郎の人生について「天才と狂人のあいだ」という本を出して直木賞をもらっている。
昭和32年に放映された映画「地上」では金沢でロケがあり、仲の良い二人の演技が評判となった「川口浩」と「野添ひとみ」がその後結婚した。
「西茶屋資料館」より
また、昭和50年代には漫画雑誌「ジャンプ」でも題材となり、連載され多くの人の読まれし、平成に入ってからもテレビドラマにもなった。
「西茶屋資料館」より
最近の若い人は「島田清次郎」ついてあまり知らないかと思いきや、学芸員の話によるとマニアの人のなかでは評判で、「地上」や島田清次郎の人生に関しての書籍が電子書籍などでよく売れているらしい。
2013年11月14日木曜日
鏡花うさぎまつり(1) 鏡花ゆかりの地ウォーク
今回は、泉鏡花誕生140周年記念ということで「鏡花うさぎまつり」が下新町の久保市乙剣宮で開かれていたので参加した。(11月3日参加)
催しは、いろいろあり午前中から夕方、夜まであるという。
まず、午前10時から「鏡花ゆかりの地ウォーク」に参加した。約80人の参加者があり、4グループに分かれてウォークした。説明は「まいどさん」がやってくれた。
久保市乙剣宮の裏の「暗がり坂」を通り、主計町、ひがし茶屋街を通って、卯辰山寺院群に入り、赤門寺と呼ばれていて、門にわらじがかかっている「全性寺」(ぜんしょうじ)に行った。
わらじがかかっているのはこの辺を「高道町」といって飛脚が多く住んでいて、健康と健脚を願って奉納されたという。
ここは鏡花の母方の菩提寺で、幼いときに亡くなった母への思いが込められた作品の「夫人利生記」(ぶにんりしょうき)の舞台となったところである。
寺内のある摩耶夫人(まやぶじん)(釈迦の生母)の姿を母の面影に重ね合わせているという。
また、10代前田重教の生母が安産祈願のために寄進したという不動明があった。
寺の横には能楽で有名な宝生流15代宗家の宝生紫雪、波吉宮門や諸橋権之進の墓がある。また鏡花の母方の実家が能楽の大鼓方(おおかわかた)であった中田家の墓もある。ということは、ここは能楽師の墓が非常に多いということだ。
次に鬼子母神さんで有名な真成寺(しんじょうじ)に行った。ここは毎年4月29日に人形供養が行われるし、無病息災や安産、子授かりの祈願で訪れる人も多いという。
ここは鏡花が母に連れられて幼いときの参拝した寺で、山門の扉にある釘隠しは鏡花の作品の「鶯花径」(おうかけい)のなかで鬼子母神の乳だといって「すいすいした」と描いている。
また、ここには江戸時代中期に活躍した悪役をやらしたら天下一品だった宮腰(現金石)出身の中村歌右衛門の墓もある。
次に日蓮宗で3代利常の生母の福寿院の祈祷所でもある蓮昌寺に行った。ここは鏡花を親身になって助けた又従姉にあたる「目細てる」の菩提寺でもある。
寺の中には日蓮の誕生から死までを描いた絵が何枚か飾られていた。
ここは鏡花の絶筆となった「る紅新草」の舞台となった所で、そのことについて石川文学館の前館長の香村幸作さんが説明してくれた。作品の中では盆の時に墓地に燈籠を供えることから「燈籠寺」として呼ばれ、山門から日本海や河北潟が見えたことや「赤とんぼ」が登場し、物語のカギを握ることなどを話された。
ここには金沢4大仏のひとつである丈6の釈迦如来立像も見ることができた。住職は非常にユーモアのある気さくな方で、いつでも寺内を見せてくれるということであった。
帰りに宇多須神社、鏡花の「滝の白糸」の像などを見た後、久保市乙剣宮に戻った。
散歩時間2時間、7600歩でした。
より大きな地図で 卯辰山寺院群 を表示
催しは、いろいろあり午前中から夕方、夜まであるという。
まず、午前10時から「鏡花ゆかりの地ウォーク」に参加した。約80人の参加者があり、4グループに分かれてウォークした。説明は「まいどさん」がやってくれた。
久保市乙剣宮の裏の「暗がり坂」を通り、主計町、ひがし茶屋街を通って、卯辰山寺院群に入り、赤門寺と呼ばれていて、門にわらじがかかっている「全性寺」(ぜんしょうじ)に行った。
わらじがかかっているのはこの辺を「高道町」といって飛脚が多く住んでいて、健康と健脚を願って奉納されたという。
ここは鏡花の母方の菩提寺で、幼いときに亡くなった母への思いが込められた作品の「夫人利生記」(ぶにんりしょうき)の舞台となったところである。
寺内のある摩耶夫人(まやぶじん)(釈迦の生母)の姿を母の面影に重ね合わせているという。
また、10代前田重教の生母が安産祈願のために寄進したという不動明があった。
寺の横には能楽で有名な宝生流15代宗家の宝生紫雪、波吉宮門や諸橋権之進の墓がある。また鏡花の母方の実家が能楽の大鼓方(おおかわかた)であった中田家の墓もある。ということは、ここは能楽師の墓が非常に多いということだ。
次に鬼子母神さんで有名な真成寺(しんじょうじ)に行った。ここは毎年4月29日に人形供養が行われるし、無病息災や安産、子授かりの祈願で訪れる人も多いという。
ここは鏡花が母に連れられて幼いときの参拝した寺で、山門の扉にある釘隠しは鏡花の作品の「鶯花径」(おうかけい)のなかで鬼子母神の乳だといって「すいすいした」と描いている。
また、ここには江戸時代中期に活躍した悪役をやらしたら天下一品だった宮腰(現金石)出身の中村歌右衛門の墓もある。
次に日蓮宗で3代利常の生母の福寿院の祈祷所でもある蓮昌寺に行った。ここは鏡花を親身になって助けた又従姉にあたる「目細てる」の菩提寺でもある。
寺の中には日蓮の誕生から死までを描いた絵が何枚か飾られていた。
ここは鏡花の絶筆となった「る紅新草」の舞台となった所で、そのことについて石川文学館の前館長の香村幸作さんが説明してくれた。作品の中では盆の時に墓地に燈籠を供えることから「燈籠寺」として呼ばれ、山門から日本海や河北潟が見えたことや「赤とんぼ」が登場し、物語のカギを握ることなどを話された。
ここには金沢4大仏のひとつである丈6の釈迦如来立像も見ることができた。住職は非常にユーモアのある気さくな方で、いつでも寺内を見せてくれるということであった。
帰りに宇多須神社、鏡花の「滝の白糸」の像などを見た後、久保市乙剣宮に戻った。
散歩時間2時間、7600歩でした。
より大きな地図で 卯辰山寺院群 を表示
2012年11月23日金曜日
市民芸術村 泉鏡花フェスティバル
大和町にある市民芸術村で、泉鏡花フェスティバルが5日間ある
ということで、最初の日に行ってきた。
最後の日に、泉鏡花文学賞の受賞式があるということで、見たかったが
もう既に申し込みがいっぱいで受付が終了していた。
泉鏡花は17歳で東京に出て、尾崎紅葉の弟子として小説を書きはじめたが、
小さい頃育った金沢を舞台にした作品が多い。
徳田秋声の自然派とは違って、ロマン主義文学の作家として活躍したが、
鏡花の「怪奇」、「幻想」、「妖美」な世界に触れることができた。
鏡花の作品のなかで「化鳥」という作品があるが、これは浅野川の中の橋
で渡る人から一文銭をとる母と子が、渡る人や川の中でくりひろげられる
ことをモチーフとしている。この作品のイメージしたデジタルアートを見ること
ができた。
その他鏡花の作品をjめイメージした絵、金属造型や刺繍などのアート作品
を見ることができ、鏡花の世界に引き込まれるような感じになり、不思議な
経験をした。
この市民芸術村は大和紡績の金沢工場の跡地であったが、現在は
そのレンガ造りの建物を利用して、音楽など芸術に関するいろいろな
イベントなどをやっている。
私が中学生の頃に、この大和紡績に工場見学に来た記憶がある。
もうもうとしたあまり環境のよくない工場の中で、女工さんたちが紡績の
機械を動かしていたのを覚えている。
最近ずっと雨が多くて、ゆっくり散歩できないが、こういう日は、建物の中の
イベントを見るのもひとつの方法だ。
今日の見物時間は1時間30分
より大きな地図で 市民芸術村 を表示
ということで、最初の日に行ってきた。
最後の日に、泉鏡花文学賞の受賞式があるということで、見たかったが
もう既に申し込みがいっぱいで受付が終了していた。
泉鏡花は17歳で東京に出て、尾崎紅葉の弟子として小説を書きはじめたが、
小さい頃育った金沢を舞台にした作品が多い。
徳田秋声の自然派とは違って、ロマン主義文学の作家として活躍したが、
鏡花の「怪奇」、「幻想」、「妖美」な世界に触れることができた。
鏡花の作品のなかで「化鳥」という作品があるが、これは浅野川の中の橋
で渡る人から一文銭をとる母と子が、渡る人や川の中でくりひろげられる
ことをモチーフとしている。この作品のイメージしたデジタルアートを見ること
ができた。
その他鏡花の作品をjめイメージした絵、金属造型や刺繍などのアート作品
を見ることができ、鏡花の世界に引き込まれるような感じになり、不思議な
経験をした。
この市民芸術村は大和紡績の金沢工場の跡地であったが、現在は
そのレンガ造りの建物を利用して、音楽など芸術に関するいろいろな
イベントなどをやっている。
私が中学生の頃に、この大和紡績に工場見学に来た記憶がある。
もうもうとしたあまり環境のよくない工場の中で、女工さんたちが紡績の
機械を動かしていたのを覚えている。
最近ずっと雨が多くて、ゆっくり散歩できないが、こういう日は、建物の中の
イベントを見るのもひとつの方法だ。
今日の見物時間は1時間30分
より大きな地図で 市民芸術村 を表示
登録:
投稿 (Atom)