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2020年7月16日木曜日

一乗谷朝倉氏遺跡(2)

一乗谷朝倉氏遺跡(1)の続きで、「復元された街並み」を歩いた。下図は復元された武家屋敷で、東西30m、南北30mの敷地がある。発掘により2か所に門、主屋、茶室、庭などが発見された。他に日常使われる蔵や井戸、便所なども復元された。この復元武家屋敷は、発掘遺構面に60cm土盛りし、当時の材料、工具、技術などを十分検討して建てられたという。



















堀に面して朝倉館跡正面に立つ「唐門」は、この遺跡のシンボル的な存在となっている。幅2.3mの唐破風造りの屋根で、戦国時代の朝倉氏の遺構ではなく、後に建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うため造られたとされ、現存する門は江戸中期に再建されたものらしい。
























下図は5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500m程の敷地があり三方は土塁と濠で囲まれている。三方は土塁にはそれぞれ門を開き、西門を正門としている。また濠をへだてた南には、関連や屋敷の拡がりもあり、西方には馬場が存在していた記録されている。東の山裾は一部がこの館に取り込まれ、一段上がった平坦部には「湯殿跡」という庭園なども残っている。




















下図の朝倉館復元模型は、発掘による成果をもとに、現存する建物の様式や文献資料などを参考にして推定復元したものだという。10数棟の建物が整然と立ち並んでいる。これらの建物は、その柱間寸法や方位のずれから二期に分けて造営されたものとみられる。多くの建物は常御殿とみられる館内最大の建物を中心に、その南方の庭園を取り囲むように配された表向き(接客)施設群と、北方の台所などの内向きの日常生活群と土塁上の隅櫓などの警護施設群に大別できるという。



















一乗谷には、庭池を伴った林泉式庭園として湯殿跡、南陽寺跡、諏訪館庭園、館跡の4つの庭園がある。そのひとつ「諏訪館跡庭園」は、朝倉館跡を見下ろす高台にあり、まずは荒々しい石組がすごい。どの石も力強い表情を持ち迫力がある。鶴岩亀岩を思わせる中島や出島があり、水路が山際に沿って南から北に走り滝口にそそぐ池泉庭園のもっとも古いとされる庭園である。江戸時代の多くの大名庭園の先駆けともいえる。



















この一乗谷を見下ろす東の山稜には山城が築かれていた。大きな礎石がある「千畳敷」、土塁をめぐらした観音屋敷、赤渕神社、福井を一望できる宿直、小高い丘の本丸、一の丸、二の丸、三の丸などと呼ばれる郭群が、自然を巧みに利用して空堀、堀切、竪堀、伏兵穴が多数残っている。




















一乗谷朝倉氏は織田信長によって滅びたが、応仁の乱後に一乗谷には公家や文化人たちが戦禍を逃れて居を移していた。彼らに従って茶道、華道、、連歌、能楽などの音曲なども都から移り、彼らの高雅な生活を支えるため、技術者たちも集まった。今日越前地方の伝統工芸とされる、越前和紙も漆器も焼き物も、そして能楽の伝統も、すべて文化水準の高かった朝倉氏の時代に培われたものだった。その美意識は脈々と越前に伝えられている。
帰りに一乗谷朝倉氏遺跡資料館に寄って、展示物を見学した。
繋馬図屏風からは、区分けされた馬小屋に馬を繋いで、武士たちが余暇を見つけた遊びに興じていたことが見える。



















双六で使用したサイコロや将棋の駒などが出土している。



















一乗谷から発掘されたガラス片から復元されたコブレットで、日本最古のベネチアングラスとされる。三国港から九頭竜川、足羽川、一乗谷川と舟運がつながっていたので、外国のものも手に入ったのだろうという。





2020年3月9日月曜日

金澤の老舗百年展 21世紀美術館(4)

金澤の老舗百年展 21世紀美術館(3)の続きで、さらに店を紹介する。
17.加賀麩司宮田(東山1)創業明治8年(1875年)
ここは、明治8年に北国街道の春日町に「宮田屋」の屋号で店を構えたのが始まりで、宮田商店、宮田麩製造と改名し、昭和57年に東山に本店を開店し加賀麩司宮田としたという。
麩の原料は小麦で、小麦粉から取り出した小麦タンパク(グルテン)が一般的だといわれている。焼麩はグルテンに小麦粉を加えよくかき混ぜた後焼き上げたものである。生麩はグルテンか、グルテンに餅粉、米粉、小麦粉などをよく練り合わせた後、蒸すか湯で上げたものである。












「金澤老舗繫盛記」より















18.戸手惣次郎商店(堀川町)創業明治2年(1869年)
明治2年に初代宗太郎が箔打ち職人として独立し、13年には販売も行うようになり、その後は銀箔を中心に販売してきた。今は、各種の箔の製造販売、箔の二次加工、粉を手掛けるようになったという。
箔は、それだけでは何もならないが、日本の誇る美術工芸品の芸術性を高める貴重な材料であり、伝統工芸に携わる匠の技によって、はじめて真価が発揮されるという。
















「金澤老舗繫盛記」より














19.金澤豆腐(専光寺町)明治45年(1912年)
初代道越彦次郎が金沢市菊川で「道越豆腐店」を創業し、2代目道越一男が戦後、金沢市で初めて「稲荷自動揚げ機」を導入するなど積極的に経営を行ってきた。現在はの社長は、全国各地の催事へ積極的に参加し、金澤豆腐を広げる一方、大豆をすべて石川県に切り替え、地産地消にこだわった豆腐作りを行っているという。
ブースに「ひろず」写真が貼られていたが、昔よく食べた記憶がある。「かんもどき」とも言い、中に、小さなレンコンやニンジン、シイタケ、ぎんなんなどが入っていて、油揚げの汁がなんともおいしかった。



















20.つば甚(寺町5)創業宝暦2年(1752年)
ここは、代々加賀藩前田家のお抱え鍔師であった2代目甚兵衛が営んだ小亭塩梅屋「つば屋」が始まりである。そして3代目甚兵衛は、美味珍味に恵まれた加賀能登の幸にさまざまな創意工夫を加えた料理を友人たちをもてなしていたが、その評判が藩主にも伝わりお褒めの言葉を頂いたことから、この小亭を始めるに至ったという。
松尾芭蕉が宿泊し、句会、茶会などを催したといわれる「是庵」、そして伊藤博文は味ともてなし、眺望を愛で「風光第一楼」の揮毫を残している。
ブースには、金屏風の前に輪島塗の「ご膳」や「重箱」などが並べられていた。













「金澤老舗繫盛記」より














21.小西新薬堂(新竪町)創業明治39年(1905年)
店内には「サトちゃん」グッズがたくさん置いてあり、全国から多くのサトちゃんファンが訪れるという。
店の中の10帖のスペースを「会合・ギャラリー」などに貸すという。



















21.目細八郎兵衛商店(安江町)創業天正3年(1575年)
加賀の「めぼそ針」は、京の「みやす針」とともに全国に知られ、天正3年創業というから織田信長が活躍していたころからになる。初代八郎兵衛が考案した「めぼそ針」は、穴を大きく開けたことに特徴があり、目の悪い人でも苦労なく糸を通せることと丈夫であることが自慢であるという。
加賀藩に針を納めたことによって目細の姓と帯刀を許された。東別院が近くにあり、昔は遠近とわず信心家が訪れ、寺院を囲む塀に打ち付けられた針へ汚れた草履をつり、新しい履物に替えて参拝したという。









2018年1月10日水曜日

出初式 加賀鳶 2017(2)

出初式 2017(1)の続きで、その後、約50本の梯子が並べられ、昔からちょっと面白い支え方と思っていたが、団員が4人づつの長蔦口と短蔦口と呼ばれる道具で、そして1人の人が両手で梯子を押さえた後、演技をする人が梯子の上に登って準備態勢に入った。



















テレビ局や新聞社の報道陣たちが演技の前の方に陣取ってきた。



















 演技が始まり、下の写真は大技のひとつである梯子の上方の先端2本だけで体を支え、バランスと平衡感覚をとる技の「二本大の字」である。一点だけで体を支える「一本大の字」も見られた。そして手を広げ、技が決まるたびに掛け声がかかり、纏が振られる。



















さらに思い思いの演技を見せ、それぞれの梯子で、いろいろな態勢の姿が見られた。



















「梯子登り」の演技と背後の金沢城の「菱櫓」の風景は 、いかにも金沢らしい光景である。




















 そして、名前をよく知っている源義経の「八艘飛び」で片手と片膝で体を支え、手を広げて遠くへ飛び越える姿勢である。

























 そして腕だけの力で体を逆さに引き上げて、足を広げる力技の「腕どめ」である。























足のつま先をひっかけるだけで全身を逆さにぶら下がる「つま留め」
























上下の梯子に対して水平の体勢になる大技も見せてくれた。























次から次へとすごい技が見れる度に、見物客から気勢や拍手が沸き起こっていた。



















続いて、「フンドシ」姿の団員がホースと纏を持って出てきた。



















そして、すぐに水が出ないホースもあったが、間もなく約50本のホースから一斉に放水され、消防自動車のサイレンが鳴り響いた。これだけの並んだ放水の風景は素晴らしいもので「金沢城の菱櫓」を背景に見ごたえがあった。



















今日は風もなく、まっすぐ上がっているので、見物客に降りかかることはなかっただろう。







そのうち「飛沫」が激しくなり、向こう側が見にくくなってきた。



















団員の纏を振る姿も激しくなり、体もずぶぬれ状態だが、寒いだろうなあと思う。
























数分間続いたであろうか、一斉放水が終わり無事終わりとなったが、周囲は水浸しとなった。



















終わって見物客を見るとすごい人が見に来ていたのに気づいた。過去最多の約7,000人の人で、去年より2,500人多いという。地元客に混じって観光客も多かっただろうが、「加賀鳶」発祥300年を迎えた金沢の伝統の妙味に酔いしれただろう。

2018年1月9日火曜日

出初式 加賀鳶 2017(1)

長年金沢に住んでいるが、今までなかなかチャンスがなく、今回初めて「出初式」を見ることができた。「出初式」では、呼び物の加賀鳶の「梯子登り」や「一斉放水」を見れると思い、わくわくして行った。



















「出初式」は、1月の第1週の日曜日に開かれているが、今年は1月7日に金沢城の新丸広場で行われた。昔は犀川河川敷で行われていたが、2003年より金沢城公園に移った。そういえば、昔、東京にいる頃に、この時期に全国ニュースで、犀川河川敷での「出初式」の様子を放映していて、金沢を誇りにしていたのを思い出す。
午前10時から開かれるが、30分前に会場に着いた。
お堀通りから会場を見ると、既に多くの消防自動車や消防隊が待機していた。


































「出初式」は、今から350年前にの1659(万治2)年に4代将軍「徳川家綱」が、幕府の定火消に火消しを高めるため、上野東照宮前で行ったことが始まりといわれている。また、「加賀鳶」は金沢の義勇消防のことで、江戸時代は加賀前田藩が江戸藩邸で抱えていた大名火消で、中でも特異な装束と威勢のよさ、見事な火消し活動で名高い存在だったという。1718(享保3)年に8代将軍徳川吉宗が江戸藩邸の火消しの強化を命じ、加賀藩5代綱紀が上屋敷の自衛消防隊を強化したのが始まりで、今年でちょうど300年の節目になるという。



















「加賀鳶発祥から300年」の看板が掲げられていた。「梯子登り」は、江戸時代に火消が火災現場で高い梯子を立て、火事の状況や風向き、建物の状況を確かめたことがきっかけで、さらには高所での作業を行うための訓練や度胸勇気を付けるために行われたといわれている。



















ようやく式典が始まり、約50分団、消防団員約1170人が勢ぞろいした。



















約50分団の消防隊は、金沢市内の旧小学校の学区である「校下」で分かれていると思っているが(?)。また、「出初式」を盛り上げる「纏」は、梅鉢をかたどった金箔を施された豪華なもので、これを作っていた人が高齢で、ひとりだけになっていたが、後を継ぐ人ができたというニュースが、最近あったと記憶している。




















 式典では、金沢市長の山野さんが前の出ていて、団長らしき人から報告を受けていた。



















また石川県知事の谷本さんが壇上に立って、記念の表彰状などを渡していた。二人の簡単な挨拶もあった。



















30分くらい式典があり、ようやくお待ちかねの「梯子登り」が始まるので、梯子がずらりと並べられた。「梯子登り」と「一斉放水」の演技については、次のブログで紹介します。













2017年12月20日水曜日

森八菓子本店 主計町「貴船」の弁当

今回は、大手町にある菓子屋「森八本店」で、金沢で超人気の主計町「貴船」の特性弁当を仲間と一緒に食べに行った。
森八は、菓子作りを始めて390年という老舗で、金沢の中でも最も有名な菓子店のひとつで、「ひがし茶屋街」にはいくつかの店を出している。
3代森下八左衛門が、藩主利常の創意により、小堀遠州の筆による「長生殿」の文字が浮き彫りになっている菓子を出した。
11代八左衛門の時に家柄町人地して「苗字帯刀」を許され「森下屋」から「森八」に改めたという。江戸時代から尾張町にあったが、近年大手町の方に移った。



















今日は、その建物の2階で「貴船」の弁当が頂けるということで、わくわくして入った。
2階の部屋からは、有名な武家の「寺島蔵人」邸の庭園が、目の前に見える場所である。
ここの庭園は、「ドウダンツツジ」で有名であるが、今は「雪吊」された木々のほかに、薦で包まれた灯篭など冬の風情があった。きれいな庭園を見ながら、おいしい食事ができる最高の場所である。


































3段に入ったケースから、料理が入ったお重が取り出され並べられた。
前菜には「ぶりの照り焼き」、「伝燈寺芋のくるみ田楽」、「梅貝」、「干柿チーズ」、「鴨ロース」など、お造りには「ぶり」と「甘エビ」そして小鉢に「揚げクワイ」、「タラの昆布ジメ」、「このわたなまこ」などがあった。普段食べられない北陸の高級食材が使われ、見た目も豪華そのものだった。


































さらに、「カニ御飯」と「カニ真丈と三つ葉しいたけ」のお吸い物
そして、最後にデザートとして「あんみつ」と抹茶が出てきた。どれもおいしく頂いた。



















周りを見ると、カウンター席の前に九谷焼の器が並べられている。

向かい側には「楽庵」という茶室とその向こうに小さな庭が見える。



















江戸から明治、大正、昭和、平成時代の「森八のあゆみ」について描かれていた。
江戸時代には、「金花糖」、「にらみ鯛」、「大鰤」などを金沢城に献上している。
また、明治天皇の石川県行幸の際、あるいは昭和天皇の「御大礼」の際に「長生殿」などを献上している。また、明治には「森下八左衛門」が金沢電気会社を設立していることなどが記されていた。



















その奥には「金沢菓子木型美術館」として、江戸時代から使われてきた菓子木型など数千点が展示されている。以前にここで木型を見たことがあるが、非常に精巧に彫られた木型は、必見の価値がある。



















おいしいものを食べ大満足した後、近江町の「いちば館」で、金沢城調査研究所の所長木越隆三さんの「加賀藩の改作奉行と改作法」についての講座を聞いた。



















この「改作法」によって、加賀藩のお米は安定的に入るようになり、財政が強化され「政治は一に加賀、二に土佐」と称されるようになった。
3代藩主利常が作った「改作法」について、3代利常のころと12代藩主斉広の150年の間にそのやり方が随分変わってきたことなどを詳細に説明してくれた。