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2019年3月6日水曜日

大和町広場(2)市民芸術村②

大和町広場(1)市民芸術村①の続きで、広場のわきに「パフォーミングスクエア」という変わった形の建物が独立して建っている。ここには、芸術村で一番大きな練習場があり、大編成での練習に使用されているという。



















この日も、ピアノを含めた管弦楽団員たちが練習をしていた。



















連なったレンガ棟の奥に「里山の家」という大正時代に金沢市郊外に建てられた古い農家を移築された建物がある。ここは、多目的な文化活動に活動できる施設である。

































この日は、シニアの「ギター弾き語り」のグループが練習していた。囲炉裏のある(今回は塞がれていたが)「オエ」で心地よいメロディーが聞こえ、ちょっとふすまを開けると「どうぞお入りください」といわれたので、私も一時期かじっていたことがあるので30分ほど聞かせてもらった。ここで月に2回練習をやっているらしく、非常にうまく人前でもよく演奏しているようだった。



















床の間に掛け軸や生け花が飾られている素晴らしいお座敷には、グループのギターが置かれていた。



















「大和町広場」の入り口の左側に「事務所棟」があるが、この建物は外観から見るとレトロなものなので「旧大和紡績」から建っているものだろう。もちろんここも改装された所とそのままの所があるらしい。



















1階は「芸術村」の受付をやっている事務所や研修室があり、2階には広い和室があり、ここでは今日は、子供たちの演劇の練習をしていた。



















このフロアや階段、窓などはかなり古そうだ。



















入口の右側には洒落たレンガ造りの建物があるが、ここはカフェとイタリアンレストランとなっている「れんが亭」である。以前に打ち合わせなどで何度か利用したことがある。

2017年10月7日土曜日

2017年10月3連休初日の金沢駅の様子

10月の行楽シーズンで、3連休の初日の金沢駅の様子(10月7日)
午前10時なので、まだ人も少ない。前田家の藩主が「能」が好きだったことから鼓形をした「鼓門」



















その中は、ガラスが300枚以上使われた「もてなしドーム」で、金澤に観光に来た人が最初に目にする景観だ。

































金沢駅構内の様子出、門型柱には県内有名作家の伝統工芸品が飾られている。



















「北陸新幹線」の改札口、新幹線が到着するたびに人でいっぱいになる。
新幹線の切符売り場
金沢に来た観光客のための案内所
駅構内にある、お土産、食事、ショッピングができる「リント」
バスの切符売り場で、観光客にとっては知らない土地での観光地への行き先や何番乗り場に行けばよいか教えてくれる。



















バス乗り場の6番は「兼六園」方向、7番は「ひがし茶屋街」方向



2016年12月29日木曜日

信州ドライブ(1) 北国街道 高田宿付近

今回は、加賀藩が参勤交代で使った「北国街道」について、現在何か残っている場所を巡りたいとうことと、内の者が久しぶりに軽井沢へ行きたいということで、2泊3日で信州地方にドライブに出かけた。(10月下旬)
北陸高速道路の「上越インター」を下り、一般道路に入り、まず向かったのが「加賀道」と「奥州道」の追分の碑がある場所である。
この辺りは、高田の街並みで、全国有数の豪雪地帯で商店街の人の通路が雪が降っても歩けるように庇が長く突き出た「雁木」(がんぎ)がある場所である。この雁木は江戸初期からあるという。
金沢は、最近あまり積もらなくなっているが、この辺りはどうなのだろうか?




















その追分の碑が建っているところを、この周辺で何人かの人に聞いたが、知らないと言われた。たまたまその日に「高田を巡るウォーキング」のイベントを開催していた「町屋交流館」で聞けばと言われ、やっと場所を知ることができた。この碑はもとは別の場所にあったが、交通の弊害になることから、この宇賀魂神社の境内の一角に移されたという。




















続いて、「高田城」に行った。ここは石垣を持たない土塁づくりの城である。福井城とともに前田家を抑える城として1614(慶長19)年に江戸城を手本として築城されたという。初代城主は松平忠輝で、縄張りと総監督を伊達政宗が担当したという。




















二の丸から本丸に架けられていた木造の反り橋の極楽橋が、発掘調査をもとに2002年に再建された。




















輪郭式平山城で外堀に囲まれた城壁は、220m四方の本丸囲む形で二の丸、三の丸、北の丸が配置されていて、関川、矢作川、別所川などの川跡を利用されている。北国道や旧北国街道の接点に近い交通の要所にある。




















築城当初は二階櫓であったが、1993(平成5)年に高田城のシンボルとして三階櫓の外観が再建された。








































高田城の藩主松平家と将軍徳川家の関係する家系を見ると、初代藩主松平松平忠輝は徳川家康の6男であり、その後、1624年に藩主となった松平光長は徳川秀忠とお江の孫で、加賀藩4代藩主前田光高と従姉妹になる。徳川御4家となると高田藩が入るという。




















外堀は、明治に入って食用の蓮根を採るために蓮が栽培され、東洋一の蓮と呼ばれた。









「北国街道を歩く」より










この近くに、日本のスキーの発祥といわれるレルヒ少佐を招いた髭の長岡外史はこの付近にある旧師団長官舎の庭に建つ。











「北国街道を歩く」より


2016年11月17日木曜日

京都ドライブ(5) 祇園 花見小路

京都ドライブ(4)のつづきで、その後、京都の花街の一つである「祇園」にある「花見小路」に行った。ここは、京都にある伝統的建造物保存地区で、金沢の茶屋街とどう違うのか見たいと思い来た。「花見小路」はちょうど昼時でもあり、多くの人でにぎわっていた。
















茶屋街の1階には、格子戸の前に木の柵や犬矢来などが付いていた。2階には縁を張り出して「すだれ」が掛かっているところが多くあった。建物は黒っぽい色や焦げ茶色などののものが多かった。「一見さんお断り」の敷居の高い本物のお茶屋からお茶屋を改装したカフェやレストランなどが混在しているのは同じだが、金沢の今の茶屋街とは随分違うなあという雰囲気だった。
































茶屋の玄関には赤い提灯や玄関の上に飾られた守り神(?)の他に、店の名前入りの看板の横に舞子さんか芸妓さんの名札が掛かっていた。夜ともなれば、提灯や店の明かりがともり、がらりと雰囲気が変わるのであろう。
















店と店の間には非常に細い道があり、裏側にも茶屋が並んでいた。花街には、こういう細い道が入り乱れてある。


























この「花見小路」の中にある和食の店「きらら」に入った。京都の農家さんが育てたという「京野菜」や旬の鮮魚を出してくれるという店である。
















ランチとしてはちょっと張り込んで頼んだら、天ぷらや刺身ほか多くの料理が付いてきて、おいしくいただいたが、食べ終えたときは満腹になった。マスターにいろいろ話を聞いていたら、「舞子さんに会いたいのですか?」と言われてしまった。
















花見小路の奥に「祇園甲部歌舞練場」というレトロな建物がある。100年にわたり「京をどり」を上演されている歴史と伝統に培われた芸能文化の殿堂であるという。
















その横にあった建物の中に入ると、京都の花街の説明コーナーがあり、現在でもやっている五つの花街の「歌舞会」の紹介がなされていた。「祇園」のほかに「宮川町」、「先斗町」、「上七軒」がある。江戸時代にはもっと多くあり、芸妓さんの人数も多かったという。
















また、舞妓さんの身に着ける「花簪」(はなかんざし)や髪型、あるいは扇子、櫛、小物入れなどが飾られていたが、きらびやかなものばかりで一体どんな高級な材料で作られているのであろうか?




2016年11月10日木曜日

京都ドライブ(4) 京都御所

京都ドライブ(3)の続きで、その後に「京都御所」に行った。ここは「桂離宮」などと同じで、「宮内庁」の管轄で、予約しないと見れないと思っていたが、最近、いつでも一般公開されるようになったと聞いたので直接行った。
現在の御所は、1331(元弘元)年に光厳天皇が、ここに即位された以後、1869(明治2)年に明治天皇が東京に遷られるまで、皇居とされた。
パンフレットに載っていたコースに従って見学した。
































「新御車寄」は1915(大正4)年の大正天皇の即位に際し建てられたものである。大正以後の天皇皇后両陛下の玄関であるという。
















朱色の「承明門」から「紫宸殿」を見る。
















「紫宸殿」は、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式高い正殿である。昭和天皇の即位礼もここで行われた。入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築で、南に面して建てられている。
















入母屋桧皮葺の実物模型が飾られていた。檜の皮が何重にも重ねられていた。
















「清涼殿」は、平安時代に日常の生活の場としていようされていた御殿で、入母屋桧皮葺の寝殿造りである。現在のものは平安時代のものより小さくなっているが、古制に則して建てられ、主に儀式の際に使用された。元は日常の御殿であったため内部の襖などによる間仕切りが多くなっている。
































ここの庭園は、木々が生い茂り、池を中心とした回遊式庭園であり、前の方は洲浜で、池の中に飛び石を置き、欅橋が架かり、対岸に樹木を配し、様々な景色を楽しむことができるという。
















「御内庭」には、曲折した鑓水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奥に茶室を構えている。

































「小御所」は、いろいろな儀式が行われ、武家との対面にも用いられた。寝殿造りと書院造りの両要素を混合した様式の建物である。1867(慶応3)年の王政復古の大号令が発せられた日の夜に「小御所会議」がここで行われたという。
















この「京都御所」の周りには「京都御苑」という広大な公園になっている。明治2年に御所が東京に移るまでは、約200軒にもおよぶ公家屋敷や宮家があった。その邸宅跡は、現在玉砂利を強いた広い道に変わり、広大な芝生が人々の憩いの場になっている。