今回は、「金沢まち博2019」の散歩学「辰巳用水巡り(兼六園~尾山神社)」が抽選で当たり、久しぶりに参加した。(7月27日)
集合は兼六園の「金沢神社」で、約30人くらいの参加者があった。今日の用水巡りの説明してくれるのは、「金沢の用水」の本を出しているおなじみの「笹倉信行」先生で私としては3回目となる。神社の中の畳の部屋で映像を見ながら「辰巳用水」などの説明を受けた。
まず、先生が体験した隧道巡りの「ツルハシ痕」、「タンコロ」、横穴などの説明があった。
また、寺津用水、塩硝蔵、遊歩道についても話があった。
辰巳用水の分水として「花里用水」があり、亀坂分水や石引分水と湧き水の「大清水」と合流して「勘太郎川」の流れとなって鞍月用水に流れる。また湧き水「とどろき」から「木曽坂」を通り辰巳用水の分水「八坂」の流れと合流して「源太郎川」が流れている。
藩政期前は犀川が暴れ川と言われ、現在の片町付近まで広がる河原であり、二筋の流れであった。藩政期の初期のころの犀川の大治水工事で、中洲を埋め立て町地にしたという。
文禄のころには、城づくり及び町づくりが始まり、「大野庄用水」は日本海から運ばれた材木を町中に持ってくるために作られた用水であり、「木揚場」で上げられた材木を材木商や木挽などが住んでいた「安江木町」や「木の新保」に運ばれたという。他に「木倉町」や「大工町」などもできた。また石垣に使う石を戸室山から金沢城に運ぶために、真っすぐな「石引通」などが作られた。
一方、江戸の川や用水について見てみると、徳川家康が入る前は、太田道灌が建てた江戸城(絵図の赤い部分)近くまで「日比谷入江」が入り込み「江戸前島」という小さな半島みたいに出ていた。
徳川家康が江戸城に入って、江戸城の防備のために堀を作り、掘った土などを使って、町づくりのために浅瀬を埋めていき、人々が住まわせる土地を広げていった。そして飲み水を確保するために「溜池」などとつなぐ水の流れを作っていった。
また、「神田川」が、以前は「日本橋川」を流れていたが、大雨の時には、埋め立てたところが洪水が多かったので、「本郷台」の今の「お茶の水駅」あたりを掘って「神田川」が「隅田川」に流れるように変えたという。これはすごい労力を必要とし工事は大変なものだったらしい。
「微地形散歩」より
江戸城のもっとも外にある堀にある橋は、枡形を有する城門があり「見附」と言われた。「赤坂見附」や「四谷見附」などはその跡が今でも残っている。
辰巳用水を金沢城に「逆サイフォン」の原理を使って上げているが、当初は今の兼六園のことじ灯篭付近より取り入れたが、城の三の丸までしか上がらなかった。それで2年間かかって、石引水門から取り入れて二の丸まで上げたという。
「逆サイフォン」で苦労したのは、木管などのつなぎ目の部分の「水漏れ」は「松脂」や「ヒワタ」などの接着剤を塗り対処した。また、湿った土の中の木管がすぐに腐ってしまい石管に替えたこと。そして、「逆サイフォン」の底に砂がたまると二の丸まで上がらないので定期的に砂抜きを行ったことなどがある。
2019年8月28日水曜日
2019年2月14日木曜日
中橋町、長田町界隈(2)筋違橋 旧古道木揚場 長田町小学校
中橋町、長田町界隈(1)の続きで、その後「鞍月用水」と「大野庄用水」が合流する地点へ向かった。「大隅橋」付近では金網上になった板が何枚も用水の中に並べられていたが、何のためだろうか?
用水が合流した「深川橋」から見た左側が「鞍月用水」で、右側が「大野庄用水」である。この辺は現在では細い流れになっているが、以前はもっと水量が多かったようである。そこに水浴びしている「サギ」の親子を見つけた。そっと近づくと親が子の方によって行き、危ないかどうか確かめているようで、ほほえましい風景だった。
その傍らに「旧古道木揚場」の標柱が建っていた。「藩政時代、宮腰(金石)から舟でざいもくを運搬し、陸揚げしたところからなのでこの名が付いた」とあった。ここで揚げられた材木が、材木商が多く住む安江木町(現在の安江町・本町・玉川町・芳斉などにまたがる)に運ばれたという。安江木町に隣接する「木の新保」は、木挽・大工・木材運搬人が多数住み、活気あふれるところだったという。
「深川橋」から用水の下流側を見ると、また流れが二つに分流する所で、片側に立派な水門が付けられていた。左側は「木曳川」そして右側は「樋俣用水」となって下流に流れていく。
その近くに「木曳川」にかかる「木曳橋」と「樋俣用水」にかかる「樋俣橋」がある。
下の写真は、昭和6年頃のこの付近の用水の様子で、子供たちが用水の中に入って遊んでいる。現在はもちろんこういう光景は見られない。
「金沢のいまむかし」より
さらに歩くと「まめだ大通り」に出る。駅西の「広岡」方面から「豆田大橋」を通る大通りでラッシュ時間帯はかなり混雑しているらしく交通量は多い。いつ頃この道が開通したのだろうか?
通りの向かい側には、立派な建物の「長田町小学校」がある。ここは昭和7年に開校したというから歴史は浅い。開校間もないころには、市立商業が併設されていたという時期があったらしい。街中の小学生はずいぶん減って統合されているが、この辺りの小学生の人数はどうなのだろうか?
下の写真は、昭和8年に長田町尋常小学校の屋上から撮ったもので、市内中心部をJR北陸線越しに眺めた風景で、金沢城跡の森が見え、右手に市営の大きなガスタンクが見える。このガスタンクは、私が小学生のころには街中のあちこちから見えたと記憶している。
「金沢のいまむかし」より
用水が合流した「深川橋」から見た左側が「鞍月用水」で、右側が「大野庄用水」である。この辺は現在では細い流れになっているが、以前はもっと水量が多かったようである。そこに水浴びしている「サギ」の親子を見つけた。そっと近づくと親が子の方によって行き、危ないかどうか確かめているようで、ほほえましい風景だった。
その傍らに「旧古道木揚場」の標柱が建っていた。「藩政時代、宮腰(金石)から舟でざいもくを運搬し、陸揚げしたところからなのでこの名が付いた」とあった。ここで揚げられた材木が、材木商が多く住む安江木町(現在の安江町・本町・玉川町・芳斉などにまたがる)に運ばれたという。安江木町に隣接する「木の新保」は、木挽・大工・木材運搬人が多数住み、活気あふれるところだったという。
「深川橋」から用水の下流側を見ると、また流れが二つに分流する所で、片側に立派な水門が付けられていた。左側は「木曳川」そして右側は「樋俣用水」となって下流に流れていく。
その近くに「木曳川」にかかる「木曳橋」と「樋俣用水」にかかる「樋俣橋」がある。
下の写真は、昭和6年頃のこの付近の用水の様子で、子供たちが用水の中に入って遊んでいる。現在はもちろんこういう光景は見られない。
「金沢のいまむかし」より
さらに歩くと「まめだ大通り」に出る。駅西の「広岡」方面から「豆田大橋」を通る大通りでラッシュ時間帯はかなり混雑しているらしく交通量は多い。いつ頃この道が開通したのだろうか?
通りの向かい側には、立派な建物の「長田町小学校」がある。ここは昭和7年に開校したというから歴史は浅い。開校間もないころには、市立商業が併設されていたという時期があったらしい。街中の小学生はずいぶん減って統合されているが、この辺りの小学生の人数はどうなのだろうか?
下の写真は、昭和8年に長田町尋常小学校の屋上から撮ったもので、市内中心部をJR北陸線越しに眺めた風景で、金沢城跡の森が見え、右手に市営の大きなガスタンクが見える。このガスタンクは、私が小学生のころには街中のあちこちから見えたと記憶している。
「金沢のいまむかし」より
2017年7月29日土曜日
扇町、暁町、横山町界隈(2)兼六湯 兼六大通り
扇町、暁町、横山町界隈(1)の続きで、「西光寺」のすぐ近くに銭湯の「兼六湯」がある。ここの銭湯を目指して初めてくる人にとっては非常にわかりにくい場所にある。また、建物の玄関を見ても銭湯だと人目では分からない。
今日は定休日で閑散としていた。大人440円とリーズナブルな値段である。銭湯好きの人にとっては、のんびりと入って憩いの場所だろう。
中には、昔なつかしい番台があり、扉の向こうに洗い場、窓の外には小さな庭と露天風呂がある。街中で露天風呂が味わえるので、近所の人だけでなく遠くの銭湯好きの人、観光客など結構人が多いと聞いている。
裏に回ると、銭湯の長い煙突が見え、駐車場には銭湯を守る地蔵さんが祀られていた。
大通りに戻ると「旧九枚町」の標柱があった。「加賀藩の老臣奥村氏(一万二千石)の下屋敷地であり、同家の家紋九枚笹にちなみ、明治の初め、この名がつけられた」とあった。
この前の大通りは、昭和に入ってから「公園下」から「賢坂辻」辺りまで、その後「田井町」、「旭町」まで通じ、住宅街が広がった所である。
大通りの向側には「旧火除町」の標柱があり、「藩政時代、防火のため城下町の所々に空地を設けて火除地としたが、ここもその一つであったのでこの名で呼ばれた。火避町とも書かれた」とあった。「旧馬場崎町」の標柱も、この近くにあり「藩政時代、藩の老臣横山氏上屋敷の馬場の横通りを馬場先と呼んでいたので、明治の初め、この名がついた」とある。
この付近に「田井用水」が流れている。この用水は田井町交差点付近から始まり、前回のブログで紹介した「西光寺」の前を通り、住宅地の裏を通り横山町と暁町の境から、材木町緑地脇を抜けて浅野川に注いでいる。この用水は、本来農業用水だったが、今では完全に住宅地になり、いつも水量は少ないという。
大通り沿いには、もう一つの銭湯「みろく温泉」があった。ここも地元密着型の天然温泉で、神経痛や筋肉痛などいろいろなものに効用がある。
今日は定休日で閑散としていた。大人440円とリーズナブルな値段である。銭湯好きの人にとっては、のんびりと入って憩いの場所だろう。
中には、昔なつかしい番台があり、扉の向こうに洗い場、窓の外には小さな庭と露天風呂がある。街中で露天風呂が味わえるので、近所の人だけでなく遠くの銭湯好きの人、観光客など結構人が多いと聞いている。
裏に回ると、銭湯の長い煙突が見え、駐車場には銭湯を守る地蔵さんが祀られていた。
大通りに戻ると「旧九枚町」の標柱があった。「加賀藩の老臣奥村氏(一万二千石)の下屋敷地であり、同家の家紋九枚笹にちなみ、明治の初め、この名がつけられた」とあった。
この前の大通りは、昭和に入ってから「公園下」から「賢坂辻」辺りまで、その後「田井町」、「旭町」まで通じ、住宅街が広がった所である。
大通りの向側には「旧火除町」の標柱があり、「藩政時代、防火のため城下町の所々に空地を設けて火除地としたが、ここもその一つであったのでこの名で呼ばれた。火避町とも書かれた」とあった。「旧馬場崎町」の標柱も、この近くにあり「藩政時代、藩の老臣横山氏上屋敷の馬場の横通りを馬場先と呼んでいたので、明治の初め、この名がついた」とある。
この付近に「田井用水」が流れている。この用水は田井町交差点付近から始まり、前回のブログで紹介した「西光寺」の前を通り、住宅地の裏を通り横山町と暁町の境から、材木町緑地脇を抜けて浅野川に注いでいる。この用水は、本来農業用水だったが、今では完全に住宅地になり、いつも水量は少ないという。
大通り沿いには、もう一つの銭湯「みろく温泉」があった。ここも地元密着型の天然温泉で、神経痛や筋肉痛などいろいろなものに効用がある。
2017年4月24日月曜日
泉野界隈(2)泉野櫻木神社、雀谷川
泉野界隈(1)の続きで、その後「泉ヶ丘通り」を寺町方向に歩いて右に回ると「泉野櫻木神社」がある。ここの境内は広く、三方向に鳥居が立つ入口があった。
古来より俗に「櫻木の八幡」とも呼ばれていて、明治5年に村社となり明治15年に泉野櫻木神社に改称されたという。金沢の神社仏閣の由来を書いた「亀尾記」には、この地が櫻の四郎というものの廷内であったとの記載があるという。
ここの神社の由来が刻まれた立派な石板が立っていた。
拝殿の建物とその前の狛犬、拝殿内部を見た。
手水舎は龍の口から水が出るようになっていているが、首の根元が細く、細かく彫刻されているので、あまり触られると壊れてしまいそうなのか、金網が張られていた。
境内には拝殿の前にしめ縄が掛けられたご神木をはじめ、市指定保存樹林のタブの木、ケヤキ、クロマツなどの大木が立ち並び、この住宅街の中の泉野地区に貴重な緑となっている。
この神社近くに、1870(明治3)年に金沢市の泉野で生まれ、Z項という地球の緯度変化を計測するための公式を発見、世界の天文学に貢献し、第1回の文化勲章をもらった「木村栄博士の誕生の地」の石碑が建っていた。ここは、現在「Z笹の湯」という銭湯になっている。
またこの近くを流れている雀谷川は、1846(天保14)年の絵図に描かれており、農業用水として泉野一帯を潤してきた。現在は長坂用水から取水し、伏見川に注いでいる。
旧鶴来街道を横断するところには「雀橋」という1898(明治31)年に架けられたというレンガ造りの太鼓橋が当時の姿のままで残っているのも珍しい。
泉野一帯に残る竹林などの緑と調和しながら用水景観を醸し出しながら有松方向へ下って流れている。
古来より俗に「櫻木の八幡」とも呼ばれていて、明治5年に村社となり明治15年に泉野櫻木神社に改称されたという。金沢の神社仏閣の由来を書いた「亀尾記」には、この地が櫻の四郎というものの廷内であったとの記載があるという。
ここの神社の由来が刻まれた立派な石板が立っていた。
拝殿の建物とその前の狛犬、拝殿内部を見た。
手水舎は龍の口から水が出るようになっていているが、首の根元が細く、細かく彫刻されているので、あまり触られると壊れてしまいそうなのか、金網が張られていた。
境内には拝殿の前にしめ縄が掛けられたご神木をはじめ、市指定保存樹林のタブの木、ケヤキ、クロマツなどの大木が立ち並び、この住宅街の中の泉野地区に貴重な緑となっている。
この神社近くに、1870(明治3)年に金沢市の泉野で生まれ、Z項という地球の緯度変化を計測するための公式を発見、世界の天文学に貢献し、第1回の文化勲章をもらった「木村栄博士の誕生の地」の石碑が建っていた。ここは、現在「Z笹の湯」という銭湯になっている。
またこの近くを流れている雀谷川は、1846(天保14)年の絵図に描かれており、農業用水として泉野一帯を潤してきた。現在は長坂用水から取水し、伏見川に注いでいる。
旧鶴来街道を横断するところには「雀橋」という1898(明治31)年に架けられたというレンガ造りの太鼓橋が当時の姿のままで残っているのも珍しい。
泉野一帯に残る竹林などの緑と調和しながら用水景観を醸し出しながら有松方向へ下って流れている。
2016年10月5日水曜日
寺津用水遊歩道(2) 永安寺
3週間度前に公開した寺津用水遊歩道(1)の続きで申し訳ないが、その後も遊歩道を歩いた。この付近にいる動物たちの説明書きがあった。歩いている途中に、トンボやチョウなどが飛んでいるのを見た。また、杉、松、コナラなど自然な雑木林は茂っており、ごく近いところに市街地がありながら、多くの動植物がまだいる場所だ。
所々に大小の水門があり、坂下の市街地に水が流れ込んでいる。
山に沿ってギリギリの所に用水が走っているので、所々にトンネルに入り、また開渠になっている。
民家が近くにある所は、辰巳用水遊歩道と同じで木の遮蔽板が廻らされている。
遊歩道の途中に墓場の真ん中を通っている所があった。
竹林の中に一部竹林が大きく曲がっているところがあったが、風によるものか、雪によるものなのか?
雑木林が多い中に小さなピンクの花が咲いていた。
用水の一部にブリキのようなもので覆われていたが、土砂崩れあるいは雪により用水がふさがれるのを防止するためか?
左側の開けた所からは白山山系の山並みが見える
さらに歩いていくと、右側の少し市広い道に出て、階段を上ると「永安寺」というお寺があるが、ここは真言宗醍醐派の別格本山のお寺である。金沢市一体と卯辰山が一望でき、砦や出城となる要衝の地であったが、大聖歓喜天尊の霊示を受け仏法興隆の道場とされているという。
「舞鶴山」永安寺という。ここには日本一大きい愛染明王像もあるという。
白寿観音で、延命、ぼけ封じの祈願されるという。他にもいろいろなものがありそうだった。
この先は、寺津用水も隧道になり浅野川に流れ込んでいる。右側に見えるのは「城東市民体育館」で、その横にあるテニスコートに20年位前によく来たところだ。
所々に大小の水門があり、坂下の市街地に水が流れ込んでいる。
山に沿ってギリギリの所に用水が走っているので、所々にトンネルに入り、また開渠になっている。
民家が近くにある所は、辰巳用水遊歩道と同じで木の遮蔽板が廻らされている。
遊歩道の途中に墓場の真ん中を通っている所があった。
竹林の中に一部竹林が大きく曲がっているところがあったが、風によるものか、雪によるものなのか?
雑木林が多い中に小さなピンクの花が咲いていた。
用水の一部にブリキのようなもので覆われていたが、土砂崩れあるいは雪により用水がふさがれるのを防止するためか?
左側の開けた所からは白山山系の山並みが見える
さらに歩いていくと、右側の少し市広い道に出て、階段を上ると「永安寺」というお寺があるが、ここは真言宗醍醐派の別格本山のお寺である。金沢市一体と卯辰山が一望でき、砦や出城となる要衝の地であったが、大聖歓喜天尊の霊示を受け仏法興隆の道場とされているという。
「舞鶴山」永安寺という。ここには日本一大きい愛染明王像もあるという。
白寿観音で、延命、ぼけ封じの祈願されるという。他にもいろいろなものがありそうだった。
この先は、寺津用水も隧道になり浅野川に流れ込んでいる。右側に見えるのは「城東市民体育館」で、その横にあるテニスコートに20年位前によく来たところだ。
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