今回は、朝6時半ごろ家をて、見ごろだということで卯辰山の花菖蒲園へ行った。
14代藩主前田義康が、幕末から明治にかけて、この辺りに「卯辰山開拓」を行った案内板があった。卯辰三社などがある上の方へ行く登り階段は、地震の影響があったのか閉鎖されていた。
今回は、朝6時半ごろ家をて、見ごろだということで卯辰山の花菖蒲園へ行った。
14代藩主前田義康が、幕末から明治にかけて、この辺りに「卯辰山開拓」を行った案内板があった。卯辰三社などがある上の方へ行く登り階段は、地震の影響があったのか閉鎖されていた。
梅雨前 早朝の兼六園(1)の続きで、さらに園内を歩く。霞ヶ池には雪吊で有名な「唐崎松」があるが、その枝ぶりがすごく、池まで張り出している。雪吊作業の時は、作業者は池の中に入って、紐を枝に結ばなければならない。
こちらは、北方向・能登方面だが、「シティーモンド」の建物が眺望を阻んでいる。
今年は梅雨に入るのが遅れているが、久しぶりに早朝の兼六園を歩いてきた。
金沢神社 ひとりの人が長くお参りしている。
「放生池」には、黄色のハス(?)はまだ蕾
「随身坂」の右側は趣のある「成巽閣」の塀、左側は藩政期からの大木
敦賀ドライブ(1)気比神社①の続きで、さらに神社内を歩く。「外拝殿」の回りには立派な柱や長押、梁、屋根下の垂木の下に釣灯篭がぶら下がっている。
奈良時代から平安時代にかけて、渤海使が相次いで日本海沿岸に漂着した。当時の日本の対外窓口は大宰府であったが、渤海使は海流の影響は、で日本海側のいろいろな場所に来着するため、その場合は敦賀で上陸させて、迎賓館である松原客館に滞留させた。松原客館は気比神宮宮司が管理、監督することになっており、敦賀湊の行政機能に気比神宮が深くかかわっていたという。紫式部の父である藤原為時は文学の才能を認められ996(長徳2)年に越前国守になり、松原客館で渤海使に漢詩を披露した。このように文学の面でも、敦賀は海外文化の窓口であった。