2025年12月16日火曜日

旧森紙店 石置き屋根

 「歴史遺産月間」の一つで「旧森紙店 石置き屋根」の見学をした。参加者は約15人くらいだった。

野町にあるこの辺りははよく通る道で、古そうな石が置かれた屋根のある家の中はどんなになっているか一度は入りたいと思っていた。

旧森紙店は、旧北國街道沿いに立つ江戸末期の木造建造物で、明治中期に森家が購入し、紙を販売してきた。1983(昭和58)年に市指定保存文化財となった。数年前に道幅を広げるということで、建物をそのままの状態で残すため「曳家」で6m後ろに下がった。



















金沢では、江戸時代から明治時代まで多くの民家が石置き屋根だったという。明治41年に石川県が屋上覆葺規則を公布して以降、石置き屋根が減少していった。戦災に合わなかった金沢は昭和30年頃までかなり残っていた。
下図は「福島秀川」の描いた「金沢城下図屏風」で江戸時代の「犀川町」、「犀川大橋」辺りのの絵 ほとんど石置き屋根
























下図は明治時代の卯辰山から浅野川、金沢城辺りを見た写真(ほとんど石置き屋根)


















「旧森紙店」の家の中に入って、石置き屋根の作り方や特徴などを「金沢市文化財保護課」の職員や「「金沢職人大学」の「木羽葺き研究会」の人たちから説明を聞いた。


















新しい木材で作られた木場葺きの石置き屋根のサンプルが置かれいた。薄い板が何枚も積み重なられ、三角型の押さえ木の上に平たい石が整然と並ぶ、-石置き屋根は、こんなもので強風や地震になった時、大丈夫なのかと思ってしまう。しかし思ったより大丈夫なんだと職員が言っていた。


















薄い板は幅が20cmくらいの長い板の2割くらいが順番に積み重なっている。そして乱雑に見えるが薄板が三重に整然と積み重なっていて、押さえ木の上に乗った石の重みで、屋根の機能が果たされていて、下への雨漏りはないという。しかし毎年板を乾燥させ、裏返しのメンテナンスをしなければならない。石の上の部分の下の薄板が水が溜まりやすく、一番痛む所だと言っていた。




























「ワールド・モニュメント財団」は国や文化の枠を超えて、歴史建造物などの文化遺産を保護・保存することを目的として設立されたもので、金沢では唯一残る「石置き板葺き屋根」建築の「旧森紙店」の保存活用事業の支援活動を2023年より開始しているという。
























下図は石置き屋根の葺き替えをやっている写真である。


















金沢の「石置き屋根」に使われる板材はほとんどが「アテ」材(能登ヒバ)であるという。「アテ」材は他の木材より繊維が荒くそれがまた良いのだという。アテ材を割るいろいろな「斧」が並べられていた。


















アテ材を溝の入った木型に立てて入れて、斧と木槌を使って先端に割を入れた後に、斧を人の力で少しづつ割っていく。約9.8mmの板材をふたつに割って4.9mmにし、さらにそれを二つに割って、最終的に2.45mmにするという。それで木型には9.8mmと4.9mmが入る溝がある。










































アテ材の丸い原木から、下図のように気取りし大割、小割し、それを薄板や押さえ板を作っていく。


















この町屋は2階建てで、急な階段も見られる。1階は店の間と吹抜の茶の間とさらに奥に座敷がある。
























旧森紙店の平面図



















2階は店の間の上に部屋があり、渡り廊下の後ろには「奥の座敷の間」あったらしい。


















店の奥に石のブロックがたくさん置かれていたが、何に使われたものか分からなかった。このブロック一つ一つに番号が打たれていた。何か位置関係を示すものであろうか?


















「曳きや」によって町家の建物と蔵と庭との間が狭くなったところ


















一番後ろには蔵の入口があった。



2025年12月10日水曜日

白峰雪だるまカフェ 旧吉野谷村

前回の「冬支度の白峰」の続きで、さらに白峰を歩いた。高台から川の向こうの白峰の街並みが見えた。



















郵便局の建物であるが側面には、着色された色ガラス(?)が入っていて洒落た建物である。


















一服したいと思い「雪だるまカフェ」に入った。毎年冬に開催される「雪だるま祭り」にちなんだ名前だという。午後3時で閉めるということで20分しかなかったが、コーヒーだけ飲むことにした。ここは夜は居酒屋になるということを聞いたが、その準備のために昼は3時で閉めるのだろう。



















白峰では2月に「雪だるま祭り」をするが、その雪だるまの人形や昔の弁当箱、民芸品などが置かれていた。


















店内の畳敷きの部屋は広く、たくさんのテーブルが並んでいた。コーヒーだけでなく最近誕生した「手取川ダムカレー」もランチには人気だそうだ。


















江戸時代後期には白峰の町には、すでに450軒民家が並んでいたというから、随分前から街並みがあったらしい。






















帰りには「旧吉野谷村」の国道沿いにある「工芸に里」に入る角に「大判役焼き」を売っている店がある。ここの「大判役焼き」は人気があって、午後4時過ぎというのに行列がついていた。ここまで来たらやはり食べたいと言いうことで、次に出来上がるまで約20分以上かかるということだったが、待つことにした。


















この辺りから雪が少し被った白山が見えた。


















「大判焼き」が焼けるのを待っている間、付近を歩いた。付近にある「御仏供杉」は国指定天然記念物で、普通の杉と異なり、一本立ちのこんもりと茂った仏供飯ににていることから名付けられた。1330(元徳2)年のこの地に木田寺を開基した大智禅師が植えられたと伝えられている。



















木の下から見ると多数の枝が込み入って広がっている。70年位前の小学生低学年のハイキングでここへ来た時に一番下の木の太い部分を手を広げて何人分の太さかを測ったことを覚えている。


















近くには、鮮やかな赤と黄色に紅葉した木がきれいだ。
























こちらは紫のような深紅と薄い黄色の木々もきれいである。

























「工芸の里」の建物の中に入り工芸作品を少し見た。こちらでは工芸教室もやっていて、金沢から習いに来ている人もいるらしい。この作品はガラスに可愛いい絵が描かれていた。


2025年12月5日金曜日

冬支度の白峰

 今日は非常に天気が良かったので、少しドライブがしたくなり、午後に1時間ちょっとで行ける「白峰」に行った。(11月22日)

「白峰」は、石川県一の豪雪地帯で、今年の冬も「白川郷」と同じ2.5mを超えたと記憶している。金沢に雪が降る頃はとても「白峰」には行けない。

下図は白峰の総湯で、十数年前に入ったことがあるが、それ以降入ったことがない。玄関には唐破風の屋根が目立つところである。



















この辺りの商店や民家は、こげ茶色に統一された街並みである。




















白峰は「かたどうふ」や「あぶらあげ」など昔から作って売っている店がいくつかある。。私の家の所まで「軽トラ」で毎週「巡廻販売」でやってくる。家の近くのマーケットの豆腐とは一味違う。


















重要伝統的建造物保存地区の中の代表格である「山岸家」も冬支度のために、壁面の外側に頑丈に木材や鉄を使って補強している最中であった。
以前の私の「山岸家」のブログ


















石垣に挟まれた門はかなり古そうであるが、この門前も作業者が木材で覆う最中であった。


















こちらは3階建ての主屋の正門で、大きい建物でまだ板塀の補強はなされていなかったが、大変な作業となるだろう。


















「山岸家」に、いくつかの蔵があるがこの建物は「板蔵」で、入口が2か所ありかっては北半を「米蔵」と南半は「板蔵」に別れていた。


















こちらはその隣にある「行動寺」の本堂で屋根下の建物は完全に木材で覆われている。



















こちらは「行動寺庫裏」で、木羽葺き屋根の上には石が載っている。その屋根の上には、仏事の触れ太鼓が遠くまで聞こえるように「太鼓堂」がある。現在1階部分は波形のプラスチックが張られた木枠が取り付けられたいた。2階にも玄関ドアのようなものが付けられているのは、大雪になった場合には、こちらから出入りするのであろうか。


















この建物の裏側に回ると、2階の大屋根まで上がれる長い梯子がかかっていた。こては大屋根の雪下ろしや屋根の修理などに使われるのであろう。この木羽葺き屋根は、毎年梅雨の前の時期に掃きながらすべての板をめくり、天日干しで乾燥させた後で、1枚1枚を葺き直す「くれ返し」が行われるという。




















その隣には、明治の神仏分離政策による廃仏毀釈を免れた白山から下ろされた十一面観音像など八体の仏像が安置されている「林西寺」がある。
以前の私が見学した時の「林西寺」のブログ


















ここの本堂の建物も瓦屋根の下は完全に木材で覆われていた。



















「林西寺」の隣にある「八坂神社」





2025年11月30日日曜日

北斎・広重展(4)広重 東海道五十三次

 1か月前に掲載した北斎・広重展(3)北斎の画凶老人卍期 歌川広重 江戸風景画の続きで、さらに展示品を見る。次に広重の「東海道五十三次」の絵図を掲載する。

この作品は江戸時代の旅の様子が非常にわかりやすく描かれており、その時代の生活が手に取るように知れて見ていても面白い。

「お江戸人橋 七つだち・・・・」の歌でも知らるように、江戸の旅立ちは早朝を決まっていた。日本橋から京都まで約500kmで、十数日余りの旅が始まる。早朝七つは午前4時である。朱に染まる朝焼けの空を背に、鋏箱の奴、つづいて毛槍の奴を先頭に大名行列が日本橋を渡るシーンである。 橋の手前には魚河岸から鮮魚を運ぶ魚屋たちが騒がしい。


















品川は上方から下る江戸の玄関口江戸の人たちはここまで来て、旅立つ人を見送ったという。人によっては餞別の酒席まで用意し、旅つ人は品川遊女とも別れを惜しんだという。

八山橋のがけっぷちまに旅籠や屋料亭、葦簀囲いの小茶屋が立ち並び、ここからの品川湾の眺望はすごくよかったらしい。春は桜の名所の御殿山、夏は潮干狩り、秋は紅葉の海あん寺の行楽地であった。

















江戸を旅経ってから、初めて大きなか川に出合うが、多摩川の川下の六郷川である。古くは橋があったが、元禄の頃より渡船制度となり、「六郷渡し」と呼ばれた。川の向こうには川崎大師の参詣客でにぎわった川崎の宿。岸には船を待つ駕籠・人馬の群れ、川会所で船賃を払う人、筏を操つる人がいる。合羽で身を包む人も姿も見え、肌寒い趣である。西の空にたなびく霞は日差しに明るく映え、白い富士がくっきり見ええ、自然の風景、旅人や土着民の生活・人情が描かれている。
















日本橋を出発して十里半(42km)で、そろそろ旅の一日が終わろうとしている。戸塚で泊る旅人は多い。たどりついた旅籠で、馬から降りる旅人、そばの女人は笠のひもを解こうとしている。「こめや」の大きな看板がかかる旅籠で、軒下に「大山講中」「月島講中」「神田講中」などの札が下がっている。
柏尾川に架かる橋の袂に「左かまくら道」の石の道標から、その道の2里半先に鶴岡八幡宮に至る。
















土饅頭のような形の丸い山が中央にでんと座っていてユーモラスである。丸い山の影に白峰の富士山が少しだけ顔を覗かしている。田んぼに囲まれた縄手道は斑な松並木で、この道を飛脚が江戸に向けて走っている。一方からの籠を横に担ぐ相手方と息杖の先に二つの傘をかけ肩に担ぐ駕籠かきの二人がのんびりと談笑しながら帰る途中である。急ぎ飛脚とのんびり帰る駕籠かきのたいひがユーモラスである。
















酒匂川の渡河風景であり、立派な乗り物を輦台に載せ、20人近い人足が担いだものや4人で担いだ輦台もあり、人足の背にまたがり渡河する旅人もいる。増水で最新1mを越えれば、馬越を禁止し、1.4mを越えれば川渡を一切禁止した。遠景の山々は天下の剣に箱根山で、難所と言われた箱根越えをするには、どうしても小田原宿で十分な休息をとらねばならない。もちろん弥次喜多もここに泊まり、五右衛門風呂の失敗談を残している。
















この絵は、私もよく見た記憶があるが、大岩ばかりが目立つ山が天にも届かんばかりにそびえ立つ」。木も生えぬ山肌は、風雪の厳しさを物語っている。「天下の剣、千尋の谷」とうたわれたのは、まさに実感である。山あいの峠を下る参勤交代の大名行列が延々と続く。険しい山々から目を左に移せば、眼下に芦ノ湖の景観パッと開ける。静かな湖面で、河畔には箱根神社が書き添えられて、遠景の山並みのかなたには、雪化粧した富士が美しい姿を見せている。
















早春ののどかな梅の季節で、空がピンクでうららかな温かい雰囲気が漂う。中央の大きな白桃の花は、今を盛りに咲き誇り、梅もほころび、緑さすである、畑の中の一軒家。「名物とろろ汁」の看板、窓には「お茶漬け」「酒さかな」、柱にはあんどんには「お茶漬け」とある。
名物のとろろ汁をすすっている二人は、弥次喜多もどきの人物で、接待するのは乳飲み子を背負った店の女房。

















朝もやが立ち込める中を早立ちの旅人は箱根へと向かう。朝冷えに駕籠の中の客は身をすくめ、馬上の旅人も紺がすりの合波羽で身を包み、馬子も菰を撒いて寒さをしのいでいる。三島大明神の社殿も大鳥居も民家も、朝霧に包まれている。

















川幅1300mの大井川の渡しは街道一の難所であった。渡し賃は水深により異なり、肩車では水深膝通し46文から脇通し90文まで、水深5尺になると全面通行止め。そうなると島田宿も対岸の金谷宿も川止めをくった旅人がごった返した。ばくち場は繁盛し、飯盛り女は引っ張りだこ、川止が続けば旅人の懐も底をついてしまう。旅人の運・不運は、この大井川で決まるという。

















宇津ノ谷峠は、昼なお暗い山道である。丸子宿と岡部宿の中間に立ちはだかる宇都之山にあり、その昔の旧道は「蔦の細道」と呼ばれる険しい杣道であったらしい。図は商人らしき旅人や芝を背負った女性で、向こうは、薪をかついた杣人たちが行き交う。この峠を下ったところに小さな里がある。それが岡部宿である。先の大井川が川止になった時、大井川東側の島田宿、続いて手前の藤枝宿が満杯となり、その手前の岡部で泊る客が多くなる。

















東海道中最大の大橋と言われた「矢作橋」を、江戸に向かう大名行列が行く。先頭には、毛槍を高々とかかげ、立派な乗り物を中央に、大勢のお供が連ねる。この「矢作橋」のながさは300m、幅が約7mもあった。
行く先には家康公ゆかりの岡崎城の楼閣がいくつそびえる。この天守閣の威容には旅人も目を見張ったことだろう。中央の黒い山は、松平家の祈願所・甲山寺のある甲山。遠景の青くかすむのは村積山という。