2025年11月30日日曜日

北斎・広重展(4)広重 東海道五十三次

 1か月前に掲載した北斎・広重展(3)北斎の画凶老人卍期 歌川広重 江戸風景画の続きで、さらに展示品を見る。次に広重の「東海道五十三次」の絵図を掲載する。

この作品は江戸時代の旅の様子が非常にわかりやすく描かれており、その時代の生活が手に取るように知れて見ていても面白い。

「お江戸人橋 七つだち・・・・」の歌でも知らるように、江戸の旅立ちは早朝を決まっていた。日本橋から京都まで約500kmで、十数日余りの旅が始まる。早朝七つは午前4時である。朱に染まる朝焼けの空を背に、鋏箱の奴、つづいて毛槍の奴を先頭に大名行列が日本橋を渡るシーンである。 橋の手前には魚河岸から鮮魚を運ぶ魚屋たちが騒がしい。


















品川は上方から下る江戸の玄関口江戸の人たちはここまで来て、旅立つ人を見送ったという。人によっては餞別の酒席まで用意し、旅つ人は品川遊女とも別れを惜しんだという。

八山橋のがけっぷちまに旅籠や屋料亭、葦簀囲いの小茶屋が立ち並び、ここからの品川湾の眺望はすごくよかったらしい。春は桜の名所の御殿山、夏は潮干狩り、秋は紅葉の海あん寺の行楽地であった。

















江戸を旅経ってから、初めて大きなか川に出合うが、多摩川の川下の六郷川である。古くは橋があったが、元禄の頃より渡船制度となり、「六郷渡し」と呼ばれた。川の向こうには川崎大師の参詣客でにぎわった川崎の宿。岸には船を待つ駕籠・人馬の群れ、川会所で船賃を払う人、筏を操つる人がいる。合羽で身を包む人も姿も見え、肌寒い趣である。西の空にたなびく霞は日差しに明るく映え、白い富士がくっきり見ええ、自然の風景、旅人や土着民の生活・人情が描かれている。
















日本橋を出発して十里半(42km)で、そろそろ旅の一日が終わろうとしている。戸塚で泊る旅人は多い。たどりついた旅籠で、馬から降りる旅人、そばの女人は笠のひもを解こうとしている。「こめや」の大きな看板がかかる旅籠で、軒下に「大山講中」「月島講中」「神田講中」などの札が下がっている。
柏尾川に架かる橋の袂に「左かまくら道」の石の道標から、その道の2里半先に鶴岡八幡宮に至る。
















土饅頭のような形の丸い山が中央にでんと座っていてユーモラスである。丸い山の影に白峰の富士山が少しだけ顔を覗かしている。田んぼに囲まれた縄手道は斑な松並木で、この道を飛脚が江戸に向けて走っている。一方からの籠を横に担ぐ相手方と息杖の先に二つの傘をかけ肩に担ぐ駕籠かきの二人がのんびりと談笑しながら帰る途中である。急ぎ飛脚とのんびり帰る駕籠かきのたいひがユーモラスである。
















酒匂川の渡河風景であり、立派な乗り物を輦台に載せ、20人近い人足が担いだものや4人で担いだ輦台もあり、人足の背にまたがり渡河する旅人もいる。増水で最新1mを越えれば、馬越を禁止し、1.4mを越えれば川渡を一切禁止した。遠景の山々は天下の剣に箱根山で、難所と言われた箱根越えをするには、どうしても小田原宿で十分な休息をとらねばならない。もちろん弥次喜多もここに泊まり、五右衛門風呂の失敗談を残している。
















この絵は、私もよく見た記憶があるが、大岩ばかりが目立つ山が天にも届かんばかりにそびえ立つ」。木も生えぬ山肌は、風雪の厳しさを物語っている。「天下の剣、千尋の谷」とうたわれたのは、まさに実感である。山あいの峠を下る参勤交代の大名行列が延々と続く。険しい山々から目を左に移せば、眼下に芦ノ湖の景観パッと開ける。静かな湖面で、河畔には箱根神社が書き添えられて、遠景の山並みのかなたには、雪化粧した富士が美しい姿を見せている。
















早春ののどかな梅の季節で、空がピンクでうららかな温かい雰囲気が漂う。中央の大きな白桃の花は、今を盛りに咲き誇り、梅もほころび、緑さすである、畑の中の一軒家。「名物とろろ汁」の看板、窓には「お茶漬け」「酒さかな」、柱にはあんどんには「お茶漬け」とある。
名物のとろろ汁をすすっている二人は、弥次喜多もどきの人物で、接待するのは乳飲み子を背負った店の女房。

















朝もやが立ち込める中を早立ちの旅人は箱根へと向かう。朝冷えに駕籠の中の客は身をすくめ、馬上の旅人も紺がすりの合波羽で身を包み、馬子も菰を撒いて寒さをしのいでいる。三島大明神の社殿も大鳥居も民家も、朝霧に包まれている。

















川幅1300mの大井川の渡しは街道一の難所であった。渡し賃は水深により異なり、肩車では水深膝通し46文から脇通し90文まで、水深5尺になると全面通行止め。そうなると島田宿も対岸の金谷宿も川止めをくった旅人がごった返した。ばくち場は繁盛し、飯盛り女は引っ張りだこ、川止が続けば旅人の懐も底をついてしまう。旅人の運・不運は、この大井川で決まるという。

















宇津ノ谷峠は、昼なお暗い山道である。丸子宿と岡部宿の中間に立ちはだかる宇都之山にあり、その昔の旧道は「蔦の細道」と呼ばれる険しい杣道であったらしい。図は商人らしき旅人や芝を背負った女性で、向こうは、薪をかついた杣人たちが行き交う。この峠を下ったところに小さな里がある。それが岡部宿である。先の大井川が川止になった時、大井川東側の島田宿、続いて手前の藤枝宿が満杯となり、その手前の岡部で泊る客が多くなる。

















東海道中最大の大橋と言われた「矢作橋」を、江戸に向かう大名行列が行く。先頭には、毛槍を高々とかかげ、立派な乗り物を中央に、大勢のお供が連ねる。この「矢作橋」のながさは300m、幅が約7mもあった。
行く先には家康公ゆかりの岡崎城の楼閣がいくつそびえる。この天守閣の威容には旅人も目を見張ったことだろう。中央の黒い山は、松平家の祈願所・甲山寺のある甲山。遠景の青くかすむのは村積山という。


2025年11月26日水曜日

卯辰寺院群探訪会 震災復興への道のり(2)

 卯辰寺院群探訪会 震災復興への道のり(1)の続きで、その後「來教寺」の裏の方にある「円光寺」に行った。ここは、妙法山と号する日蓮宗の寺院である。1521(大永元)年創建とされ、2代藩主利長からの信頼が厚く、利長にしたがい守山・富山・高岡に移り、1636(寛永13)年に現在地に移った。利長が高岡在城の頃に守り本尊として信仰した。観世音菩薩像が安置されている。

震災では本堂の外壁漆喰が剥落し、大屋根・向拝屋根ともに瓦にずれが生じた。土塀は東側石積みが崩れ、漆喰壁が剥落し、北側屋根瓦が落下した。本堂の外壁漆喰の塗りなおしはまだやられていない。












続いて「本光寺」は、鳳栄山と号する法華宗寺院で、当初は越中射水郡浅井にあったが、その後2代藩主利長に従い守山・富山・高岡に移った。金沢では当初泉寺町にあったが1649(慶安9)年現在地に移った。市指定文化財になっている山門は卯辰寺院群随一の薬医門で、築のランドマークになっている。

震災では山門前の常夜灯が被害を受けた。宝珠や火袋などの上部が落下し、土台の石積みにずれが生じた。















「全性寺」は妙具寺と号する日蓮宗の寺院で、当初は越中射水郡浅井に放生津あったが、その後2代藩主利長に従い守山・富山・高岡に移った。1786(天明6)年に現在地に移った。わらじ奉納寺として有名で、仁王門には身体健全や子供の成長を願って奉納された草履が多くぶら下がっている。「赤門寺」として卯辰寺院群でも目立つお寺である。

震災では西側土塀が基壇ごと崩壊し、東側土塀も版築上部が崩落した。



















令和7年には、これらの崩壊した所など修理しているという。


















続いて「妙国寺」にいった。ここは日向山と号し、日蓮宗の寺院である。。1614(慶長19)年開創とされている。日蓮作とつたえられる大黒天像を安置し、別名で大黒寺とも呼ばれている。境内の大黒堂は1810(文化7)年日亀の建立で、丸い宝珠をかたどったされる特徴的な形をしている。
震災では大黒堂の外壁漆喰のひび・剥落が生じた。令和6年に実施した修理では破損個所を一度はがし、荒壁を補修、中塗り漆喰仕上げをした。


















「心蓮社」は金池山と号し、浄土宗の寺院である。1612(慶長17)年に旧塩屋町に建立され、1634(寛永14)年に現在地に移った。金沢市庭名称となっている庭園は、江戸時代初期の作庭とみられており、金沢の寺院に残る築山池泉回遊式庭園の代表となっている。



















震災では西側土塀壁面が剥離し、屋根瓦も落ちた。南側土塀もれ根の棟瓦にずれが生じた。令和7年には実施した修理では、西側土塀は古壁を落とし中塗り仕上し、屋根部分は割れた瓦を取り換えて積んだ。南側土塀は屋根の棟瓦を積みなおした。


















ここの住職の計らいで寺内を見せていただいた。そして住職の話を聞かせていただいた。「お寺で「・・・社」と名が付いているのは珍しく、わずかしかないということであった。


















本堂の中の正面の上には「格天井」に絵が描かれたきれいで立派なものであった。


















下図は寺宝の「絹本著色阿弥陀三尊来迎図」であろうか。
























「心蓮社」の庭園は、寺院の中にある庭園としては金沢市内でも有数の素晴らしい庭園で、自然木で北限と言われるツクバネガシをはじめ、ケヤキ、タブノキなど年齢を重ねた庭の樹木と池が調和し「めでた造り」で知られる築山池泉回遊式庭園は、江戸期の庭園を今に伝えている。
以前んの心蓮社を見た時のブログ





























2025年11月21日金曜日

卯辰寺院群探訪会 震災復興への道のり(1)

 今回は「歴史探訪月間」のイベントの一つである「卯辰寺院群探訪会 震災復興への道のり」というテーマに参加した。(11月9日)

集合は東山の「宇多須神社」で、約30人くらいが参加していた。















下図のコースで、昨年の元旦に起きた能登地震で被害を受け、修理した現在の状況を知るために卯辰寺院群の9か所の寺や神社を廻った。






















まず「宇多須神社」は、1599(慶長4)年に卯辰八幡宮として現在地に建てられた。代々藩主の祈祷所として崇敬を集め、江戸時代の加賀藩の神社をまとめる役割である「触れ頭」であった。
震災では本殿の石積み部分が崩落し、基礎が沈下したという。拝殿は向拝棟木が外れ、土壁や漆喰が剥落し、玉垣も崩落した所があるという。
令和6年には本殿石積み部分を積みなおし、基礎部分も直した。令和7年には、本殿の覆屋を復旧し拝殿の向拝棟木を修理し、土壁や漆喰壁を塗りなおしたという。


















次に「宇多須神社」の横から裏に廻り階段を上がると「蓮昌寺」に出る。日蓮宗の寺院で1582(天正10)年に創建された。3代藩主利常の生母寿福院の帰依所であり、触れ頭でもある。


















大仏殿に安置された元禄年間の木彫りの釈迦如来像は丈六(4.8m)の高さがあり、金沢四大仏の一つとなっている。泉鏡花の絶筆作品「る紅新草」にも出てくるお寺である。
震災では本堂の漆喰壁の一部にヒビや剥落があった。大仏殿のしっくい壁もひびや漆喰壁が剥離した。
令和6年に両建物のしっくい壁の補修し、本堂・大仏殿正面側の外壁漆喰の塗り替え、下見板の張替えを行った。
























続いて、私も震災の1か月後に見た「來教寺」に行った。
毘沙門山と号する天台宗の寺院で、1564年に卯辰山の一本松に草庵を建てたのを開基とし、1708(宝永5)年に現在地に移転したと伝えられている。神仏混合の様相を伝える寺院で、本堂左内陣は金毘羅大権現、右内陣は阿弥陀仏を祀り、境目は小壁を入れるのみとなっている。


















震災では本堂屋根瓦がずれ、石積みや土塀が崩壊した。令和6年には本堂屋根瓦を修理し、北東側土塀の版築補修、腰板張り修理、屋根瓦の葺き替えを行った。令和7年に南西側土塀の基礎石積みを積みなおし、版築制作、腰板張り修理、屋根瓦の葺き替えを行った。


















版築工法の土を少しづつ入れ、土を叩きながら積み重ねていく、その何層にも積み重なった土が見えた。木枠が以外にも細いと感じた。
長町武家屋敷の土塀もこのやり方で作っている。


















能登地震10日後くらいに見に行った時点の「來教寺」は、このようにひどい状態であった。


















木枠の中の土があらわに出ている。


















続いて「來教寺」の通りの坂を上がると急な階段がある。この先が「西養寺」である。
清澄山と号する天台宗に寺院である。藩祖の前田利家、2代利長がからの信頼が厚く、利長が越中守山・富山・高岡と移住した際には、追従して移転し、1612(慶長17)年に現在地に移った。眺望絶景の立地はその格式の高さを表すという。
震災では階段石積みの崩落や石材のヒビ、本堂・聖天堂内壁の剥離・割れ、山門・塀の屋根瓦落下、鐘楼基壇のずれや稲荷社の傾きなどがあった。
令和6年には階段を補修し、本堂・聖天堂の壁面の塗りなおしを行った。山門と塀は瓦の葺きなおした。令和7年には鐘楼基壇石積みの積みなおしと稲荷社の礎石や柱脚を修理した。
下図の写真では階段の左端側がきれいな石材になっている。


2025年11月17日月曜日

雪吊作業日に見た兼六園のその他の風景

 雪吊作業日に見た兼六園のその他の風景について紹介する。

まず「唐崎松」の近くの「雁行橋」では曲水の中にある玉石を箒でで履いていた。これは玉石が曲水の水で汚れ、玉石に藻や汚れを落とすために定期的に箒で履いて磨いているのである。



















以前は、千歳橋の上流側には杜若が多く咲いていて、川底は泥となっているが、下流側は両岸に岩石が据えられていて、川底に玉石が敷き詰められている。玉石がある季節になると藻がひどくついて、せっかくの清い水も台無しになる。美しい曲水の流れ特に印象的なのが七福神山前付近から雁行橋前あたりである。玉石は約12万個あるらしいがそれを1個1個金たわしでこすりつけて洗っていう夏の風物詩として全国に有名であった。この作業が終わると再び美しい曲水が蘇った。

















「旭桜」の奥には、太い大きな「赤松」がかなり倒れ掛かって成長しているので、大きな支柱とロープで支えられている。
そういえば「赤松」はかなり倒れかかっている木をよく見かける。例えば兼六園の月見所の「玩月の松」や長町にある縁切りで有名な「貴船神社」の前の「赤松」もそうだ。これは雪の重みによるものか、風によるものか?


















この大木は、完全に横たわっていて、何本もの支柱で支えられている。


















「明治紀年之標」の左側にある西本願寺からの手向けの松の下側部分の枝は縦横無尽に広がっている立派な樹木である。



















鶺鴒島の奥に立ている樹木は「ひねくれの五葉松」で高さが12mもあり、枝がいくつにも分かれてそそり立ち、幹、枝とも激しくよじれている。
























三名石の一つの「龍石」のそばには春には赤と白の斑の花が咲くツバキの木に雪吊がなされている。
























兼六園の紅葉の最も見どころの「山崎山」は、まだ緑の葉が多く、2,3週間後ぐらいが見どころか。この場所で結婚式の前撮りであろうか、いろいろなポーズを撮り、何枚も写真を撮っていた。



















本多の森公園にある「国立工芸館」前も紅葉がきれいであった。


















擬洋風建築で戦前の陸軍が建てた洒落た建物の「偕行社」と紅葉のコントラスト


















「石川県立歴史博物館」横の紅葉でレンガの建物との調和がまた素晴らしい。



















NTT金沢支社と公営駐車場の間には大きくて高い木の深紅の紅葉が何本も立ち並び、見ごたえのある眺めである。


2025年11月13日木曜日

唐崎松の雪吊作業見学

 毎年、兼六園の唐崎松の雪吊作業が毎年11月1日に行われるが、その日は激しい雨によって、高いポールに上がるのが危険ということで4日になった。低木の木は先に始まっていた。

この日は最高の天気日和で、久しぶりに雪吊作業を見たいと思い、兼六園に出かけた。

雪吊作業をじかに見るのは10年ぶりくらいであろうか。

この日の霞ヶ池周辺の様子















































午前10時ごろ「唐崎松」付近に着いたら、5本の雪吊のうち1本がすでに作業が終わっていて、2本目を始めるまでの休憩タイムであった。
























既に作業が終わった雪吊とまだ作業が終わっていない「芯柱」で、この「芯柱」は約17m以上あり、細い棒を熟練した庭師さんがするすると先端に上がる。
























唐崎松の近くの、少しことじ灯篭よりの曲水際には既に低木のマツ2本が雪吊がなされていた。この雪吊は11月1日になされたのであろう。



















20から30分園内を廻った後、また唐崎松付近に戻るともう1本の芯柱の天辺に庭師が既に上がっていた。ビルで言えば5階ぐらいの高さになるであろうか。廻りに何も捕まるものはない


















先端に登った庭師は長く垂れ下がっている縄を数本ずつ手繰り寄せ、身をそらして反動をつけて必要な所へ投げている。
唐崎松は「りんご吊り」と呼ばれるもので、芯柱1本に80本の縄を円錐状に縛るもので5本の芯柱に結ばれると、素晴らしい光景で兼六園の冬の風物詩として慕われている。「りんご吊り」の他に、「幹吊り」、「竹又吊り」、「しぼり」の4種類がある。
























芯柱の天辺に撒かれた赤い縄は、作業者の腰にもまかれていた。これが何か危険があった場合の「命綱」である。
























下に何人かの熟練の庭師がいて、投げられた縄を受け取り、梯子などを使い必要なな位置の枝に縛るっていく。芯柱の上から投げる人と、下にいて縄を受け突人との呼吸がぴったり合わないといい姿にできない。
























吊り縄は、枝下の庭師によって弱い枝から順に吊られる。





































吊り縄の伸びを考慮して、少し吊り上げ気味に吊る。




















庭師さんだけでなく、この雪吊作業が安全に終わるように、周り見張っている人だろうか?



















雪吊作業の紐の結び方はにはいろいろあるらしいが、そのひとつに「男結び」というものもある。兼六園の雪吊をする木は、多くあり、縄の長さは約250kmにもなるという。