2024年6月23日日曜日

梅雨前 卯辰山 花菖蒲園

 今回は、朝6時半ごろ家をて、見ごろだということで卯辰山の花菖蒲園へ行った。

14代藩主前田義康が、幕末から明治にかけて、この辺りに「卯辰山開拓」を行った案内板があった。卯辰三社などがある上の方へ行く登り階段は、地震の影響があったのか閉鎖されていた。













まだ朝早いせいもあって見に来ている人はわずかしかいなかった。


















一面に咲いた濃い紫、淡い紫、黄色などの、花菖蒲、あやめなどが見事に咲いている。


















30分ほど前に自動的に水がまかれたようで、花がしっとり濡れていた。


















ここではあじさいも多く咲いていて、見ていても飽きない。


















「ハナショブ」、「アヤメ」の違いが説明されていた。































菖蒲の葉は、子供のころに銭湯に行った時に湯船の中に置かれていたのを思い出した。































こちらの白いや紫の花菖蒲もきれいだ。



























紫やピンクの紫陽花も見事に咲いている。この時期には、また見たくなってよく来ている所である。


















ライオンズクラブのこの花菖蒲園の思いについて描かれた碑が置かれていた。

2024年6月20日木曜日

梅雨前 早朝の兼六園(2)

 梅雨前 早朝の兼六園(1)の続きで、さらに園内を歩く。霞ヶ池には雪吊で有名な「唐崎松」があるが、その枝ぶりがすごく、池まで張り出している。雪吊作業の時は、作業者は池の中に入って、紐を枝に結ばなければならない。



















仙人が住むという不老長寿を願った「蓬莱島」は亀甲島とも呼ばれ亀に似ているが、その頭を表す石が3年ほど前のある時に倒れていて、まるで亀が水を飲んでるようだった。


















卯辰山が見える「眺望台」付近から、近くに建物が新しく建つのか大きなテントが覆われているのが見えた。あまり眺望を遮らないでほしいが。


















こちらは、北方向・能登方面だが、「シティーモンド」の建物が眺望を阻んでいる。



















いつも見る所とは違う方向から見る「ことじ灯篭」と雰囲気が変わる。


















「琴橋」の横からも「辰巳用水」の分水の出口が見えた。こちらは「噴水」方向に流れているのか?


















今日は水量が少ないのか琴の弦を表すという小滝が見えなかったが、その石段の上にピンの花弁が載っている。


















こちらは大名庭園の代表的な「池泉回遊式」の典型的な場所で、開けたところから森の中に入っていくところである。


















近くの休憩場所で一服し、のんびり池を眺めた。静かな場所で物思いにふけるのに格好な場所である。


















その近くに「辰巳用水」の枡があり、ここから流れが分離しているのかなあ?


















兼六園の御除け石として有名な三要石一つの「虎石」は自然石であるが、以前は足付近がもっと虎が飛び出そうとする姿によく似ていたが、少し崩れてしまったのだろうか。


















「黄門橋」は、一の設には手取渓谷の「黄門橋」付近に似ているからという名前が付けられたというが?


















こ「黄門橋」の近くにある「獅子巖」があるが、これも兼六園の魔除けの三要石に一つであるが、今では獅子に全く見えない。


















栄螺山へあがる途中の石垣にはまだテントが被ったままで、地震で崩れたのがまだ修復が終わってないようだ。


















こちらの簾の下にも「辰巳用水」の分離する枡があるのか?


















時雨亭付近の小川のそばに濃い紫色の「アヤメ」が咲いていた。


















反った石橋のひもで結ばれた石(結界)が置かれていた。ここから先は入るなということだ。














2024年6月17日月曜日

梅雨前 早朝の兼六園(1)

 今年は梅雨に入るのが遅れているが、久しぶりに早朝の兼六園を歩いてきた。

金沢神社 ひとりの人が長くお参りしている。



















神社前にあった灯篭。頭は獅子で、体は龍のようなものが刻まれているが、こんな灯篭以前からあったのか?
























古めかしい神社前の橋















「放生池」には、黄色のハス(?)はまだ蕾



















こちらはピンクのスイレン(?)どちらもこれからもっと開いてくる。


















白や紫の釣鐘状の花のホタルブクロ











「随身坂」の右側は趣のある「成巽閣」の塀、左側は藩政期からの大木



















「成巽閣」の裏門は東京本郷のミニチュア赤門である。


















今年に改装された「花見橋」、橋の中央下側にある小屋根のようなものは何なのか?


















「花見橋」から見る「辰巳用水」の下流側。今年も杜若があまり咲かなかった。


















「日本武尊像」の両側にある「本願寺」から寄進されたという「御花松」(手向松)とも呼ばれている。


















「兼六園菊桜」の根元部分


















卯辰山を借景にしたおめでたい七福神に見立てた自然石が置かれた築山の「七福神山」


















大きな傘を乗せた3本の脚の「雪見灯篭」と幅広く流れる曲水

2024年6月13日木曜日

敦賀ドライブ(2)気比神社②

 敦賀ドライブ(1)気比神社①の続きで、さらに神社内を歩く。「外拝殿」の回りには立派な柱や長押、梁、屋根下の垂木の下に釣灯篭がぶら下がっている。



















回廊出口の木造の扉には、金色の菊の御紋と銅板の文様が付いている。























奈良時代から平安時代にかけて、渤海使が相次いで日本海沿岸に漂着した。当時の日本の対外窓口は大宰府であったが、渤海使は海流の影響は、で日本海側のいろいろな場所に来着するため、その場合は敦賀で上陸させて、迎賓館である松原客館に滞留させた。松原客館は気比神宮宮司が管理、監督することになっており、敦賀湊の行政機能に気比神宮が深くかかわっていたという。紫式部の父である藤原為時は文学の才能を認められ996(長徳2)年に越前国守になり、松原客館で渤海使に漢詩を披露した。このように文学の面でも、敦賀は海外文化の窓口であった。

























気比神宮古図には、戦国時代前の古い境内図が記されている。この中には神宮寺、食堂、鐘楼、塔といった寺院施設があり、神仏習合の姿が見える。他に音楽殿や本殿前に右、左楽屋が見える。平安時代の歌謡集の中に、気比歌、気比神歌が残されていることから、古代の気比神宮では、神事の際に神学歌が歌われていたという。


















天筒山の方向、神宮北東部に残る「土公」は気多大神降臨の地とされ当神宮鎮座にかかる聖地である。社殿家屋建立の際に「この土砂をその地の撒けば悪しき神の祟りなし」と信ぜられる伝説と神秘に富む神代の述霊である。古い時代には、大きな岩を中心とした山での祭祀、大木を中止なとした森での祭祀など自然の形を損なわなく祭祀が営まれた。仏教伝来の影響もあって、奈良時代から現代のような社殿を建て祭祀を行うように変化した。


















「大神下前神社」は、末社で祭神は大己貴命、式内社、敦賀市内気比大神四守護神のひとつとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間に現在の地に移転された。特に海運業者の信仰が篤い。


















「角鹿神社」(つぬがじんじゃ)は、摂社で祭神は都怒我阿羅しとを祀った神社である。
ツヌガアラシトは朝鮮南部の国・任那(みまな)の皇子で、第10代崇神天皇の御代に気比の浦に貢物をかかえて携えて上陸し、気比大神宮の司祭と越国の政治を任せられた。その政所跡にツヌガアラシトを祭神として祀られた。
























昭和天皇在位60年記念として植えられた「紅白梅」


















この天然記念物「ユーカリ」の巨木で、当時の陸軍関係者が武運長久を祈願して献木されたものである。オーストラリア原産・フトモモ科ユーカリ属の常緑樹で、当時は北緯の寒冷地に生存することは珍しいといわれたが、昭和58年に天然記念物に指定された。平成29年、30年に相次いでの台風により大木が折れる被害にあい、様相が大きく変わった。
























絵馬堂の周りには池があり、橋を境にして「亀の池」と「南の池」に分かれている。


















池の中には、水をまくように噴水があり、多くの鯉が泳いでいる。池に近づくと多くの鯉が自分の所に寄ってきた。































平成28年には、気比神社境内地の全域が気にの名勝「奥の細道の景勝」に指定された。芭蕉は「奥の細道」の旅で、「月を詠むことが目的の一つであり、杖置きの地敦賀のでの中秋の名月を心待ちにしていたという。
芭蕉の銅像の下に「月清し遊行の持てる砂の上」が刻まれている。
























1689(元禄2)年8月14日夕刻に敦賀に入り快晴である。。芭蕉は旅籠出雲屋に宿を取る。「明日の夜もかくあるべきにや」芭蕉の問いに出雲屋の主人は「北陸の天気が変わりやすい。明日は分かりません。今のうちに(気比神宮に)参りませんか」と答えた。それならばと夜参りに出かけ月を堪能する。翌朝の天気は主人の言葉通り雨天で、「明月や・・」の句を残す。