2024年7月4日木曜日

敦賀ドライブ(4)敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)

 敦賀ドライブ(3)越前そば 敦賀赤レンガ倉庫の続きで、次に「敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)の建物の中に入った。













この資料館内には、他の鉄道駅とは大きく違った面白い歴史がある敦賀駅について案内パネルが展示されたいた。



















その敦賀鉄道歴史年表が展示されていて変遷ぶりがはっきり分かった。



















その鉄道が敷かれる発端となったのが、1853(嘉永7)年に浦賀に来航したペリーの存在である。ペリーは江戸幕府の首脳と会談を要求し、徳川政権の首脳たちは、停泊した黒船の威容と蒸気船の技術に圧倒され、大いに困惑したと伝えられている。「太平の眠りを覚ます蒸気船わずか4隻で夜も眠れず」と狂歌にも歌われた蒸気船の迫力は、日本の鎖国という眠りから呼び覚ますのに十分だったようだ。翌年に今度は7隻の艦隊を率いて品川沖にまで船を勧めた。この後に横浜で日米両国の会談がが行われ、あの有名な日米和親条約が締結された。この時、ペリー側は日本に対し自国の技術を誇示するためにさまざまのものを献上しており、その中に蒸気機関車の模型があり、1/20の大きさながら、実際に人を乗せて走ることができ、横浜でレールを敷き、幕府高官らを乗せたという。後に近代国家として歩み始め
たきっかけのひとつが、この蒸気機関車であった。


















明治になって新政府は富国強兵をスローガンに掲げて近代化路線を進むことになるが、その重要課題の一つになったのは鉄道の施設であった。鉄道建設は工部省などが主導して推進されたがその先頭に立ったのが、当時鉄道頭であった「井上勝」であった。明治2年には、東京ー京都間、京都ー神戸間、そして敦賀から琵琶湖周辺までの敷設が計画され、明治5年にその発端として新橋-横浜間に日本に初めて鉄道が開設された。
























その後、明治10年に神戸ー京都間が敷設され、明治17年には難航した「柳瀬トンネル」が開通し敦賀ー長浜間が全線開通した。大都市付近の二つ線路は早くにできたのは、普通に考えらるが、ここはあまり人口の少ないところでるが、長浜から琵琶湖を湖上交通で大津まで通って、そこから鉄道で繋げば、大陸から大阪までの交通が繋がることになるというものだ。
























工事が難航した柳瀬トンネル石額「萬永永頼」は、「伊藤博文」が揮毫したもので当時のトンネル工事の政府関係者の意気込みが感じられる。

















下図は「刀祢トンネル」で、敦賀付近はこのようなレンガ造りのトンネルがあちこちに造られた。



















鉄道が開通した敦賀には物資が集積し、輸送が追い付かないほどであった。当時は和船が活躍していた。(明治20~30年代)
















大陸のウラジオストックでのシベリア鉄道が起工を受けて、敦賀港は対岸貿易が活発になり、敦賀-ウラジオストックの定期航路が開設された。
下図は金ケ崎桟橋と建物は税関旅具検査場(大正2年)

















こうした中で新橋ー金ケ崎間に直通列車が走ることとなり、明治45年から運行された。これはウラジオストック直行便に連絡し、ウラジオストックからシベリア鉄道によってヨーロッパに通じる欧州とアジアを結ぶ国際便となった。東京からベルリン・パリに行ける壮大な交通が運行された。
















下図は東京から敦賀、ウラジオストック、ハバロフスク、ワルシャワを経由してベルリンまでの国際連絡切符の第一券である。




















活気に満ちていた昭和10年ころの敦賀港のジオラマ

戦後は敦賀付近では、昭和37年に総延長13.87kmの「北陸トンネル」が開通し、当時としては日本最長のトンネルが完成した。