「歴史遺産月間」の一つで「旧森紙店 石置き屋根」の見学をした。参加者は約15人くらいだった。
野町にあるこの辺りははよく通る道で、古そうな石が置かれた屋根のある家の中はどんなになっているか一度は入りたいと思っていた。
旧森紙店は、旧北國街道沿いに立つ江戸末期の木造建造物で、明治中期に森家が購入し、紙を販売してきた。1983(昭和58)年に市指定保存文化財となった。数年前に道幅を広げるということで、建物をそのままの状態で残すため「曳家」で6m後ろに下がった。
金沢では、江戸時代から明治時代まで多くの民家が石置き屋根だったという。明治41年に石川県が屋上覆葺規則を公布して以降、石置き屋根が減少していった。戦災に合わなかった金沢は昭和30年頃までかなり残っていた。
下図は「福島秀川」の描いた「金沢城下図屏風」で江戸時代の「犀川町」、「犀川大橋」辺りのの絵 ほとんど石置き屋根
下図は明治時代の卯辰山から浅野川、金沢城辺りを見た写真(ほとんど石置き屋根)
「旧森紙店」の家の中に入って、石置き屋根の作り方や特徴などを「金沢市文化財保護課」の職員や「「金沢職人大学」の「木羽葺き研究会」の人たちから説明を聞いた。
新しい木材で作られた木場葺きの石置き屋根のサンプルが置かれいた。薄い板が何枚も積み重なられ、三角型の押さえ木の上に平たい石が整然と並ぶ、-石置き屋根は、こんなもので強風や地震になった時、大丈夫なのかと思ってしまう。しかし思ったより大丈夫なんだと職員が言っていた。
薄い板は幅が20cmくらいの長い板の2割くらいが順番に積み重なっている。そして乱雑に見えるが薄板が三重に整然と積み重なっていて、押さえ木の上に乗った石の重みで、屋根の機能が果たされていて、下への雨漏りはないという。しかし毎年板を乾燥させ、裏返しのメンテナンスをしなければならない。石の上の部分の下の薄板が水が溜まりやすく、一番痛む所だと言っていた。
「ワールド・モニュメント財団」は国や文化の枠を超えて、歴史建造物などの文化遺産を保護・保存することを目的として設立されたもので、金沢では唯一残る「石置き板葺き屋根」建築の「旧森紙店」の保存活用事業の支援活動を2023年より開始しているという。
下図は石置き屋根の葺き替えをやっている写真である。
金沢の「石置き屋根」に使われる板材はほとんどが「アテ」材(能登ヒバ)であるという。「アテ」材は他の木材より繊維が荒くそれがまた良いのだという。アテ材を割るいろいろな「斧」が並べられていた。
アテ材を溝の入った木型に立てて入れて、斧と木槌を使って先端に割を入れた後に、斧を人の力で少しづつ割っていく。約9.8mmの板材をふたつに割って4.9mmにし、さらにそれを二つに割って、最終的に2.45mmにするという。それで木型には9.8mmと4.9mmが入る溝がある。
アテ材の丸い原木から、下図のように気取りし大割、小割し、それを薄板や押さえ板を作っていく。
この町屋は2階建てで、急な階段も見られる。1階は店の間と吹抜の茶の間とさらに奥に座敷がある。
旧森紙店の平面図
2階は店の間の上に部屋があり、渡り廊下の後ろには「奥の座敷の間」あったらしい。
店の奥に石のブロックがたくさん置かれていたが、何に使われたものか分からなかった。このブロック一つ一つに番号が打たれていた。何か位置関係を示すものであろうか?
「曳きや」によって町家の建物と蔵と庭との間が狭くなったところ
一番後ろには蔵の入口があった。

