2024年10月31日木曜日

山中温泉 無限庵(2)

 山中温泉 無限庵(1)の続きで、さらに「無限庵」の中を見ていく。下図は屋敷の配置で、南側の白い部分に部屋は、横山男爵が建て移築された建物で、灰色部分はのちに新家家が建てた部分である。前回は灰色部分を説明したので、今回は旧横山家が建てた御殿部分を紹介する。













こちらの部屋はカメラ禁止だったので冊子「無限庵」より紹介する。廊下の両側は格式の高い群青の壁になっていた。












この横山家が建てた御殿の方は、書院主室と次の間の二つの部屋がある。書院主室は間口4間奥行4.5間(36畳)の堂々たる尾州造りの座敷である。正面には中央に2間の床の間、右に琵琶台、左に地袋と天袋を設けている。天井のシャンデリアも大きなものが付いている。壁面は一面に張付け壁で金粉で連山と雲を描いている。

















地袋の天板は欅摺漆、束は黒柿、黒塗縁の小襖を4本立てる。天袋は鮮やかな文様は入っており、黒柿の釣束をもといている。

























琵琶台の束は黒柿で摺漆塗、正面の羽目板に優美な蒔絵が施されているが、これは加賀蒔絵の名工大垣昌訓の作である。
















奥の庭側の障子と金粉の雲が描かれた壁



















次の間との境の欄間には木瓜の枠の中に彫刻を入れている。左に雲間に月を配し、右に枝を這わせた松樹である。左右の間は大きく抜けている。















この座敷の裏手には文様のぬき穴がある手摺が設けられた縁と群青壁になっている。この前の庭には、大きな沓脱石が据えられ昇降するようになっている。
























この「無限庵」を山中温泉の観光振興に役立てるために数年前にこの建物の一部を改修し、カフェ・レストランに再生し、一般の観光客が気軽に入れるようにしたことが新聞に掲載されていた。
























ここの御殿の庭を眺めながら山中漆器に盛り付けられたスイーツやコーヒなどを提供する部屋である。


















山中漆器に盛り付けられた「海鮮丼」の味をじっくり味わった。


















当時の庭も質素ながら趣がある。



















庭を眺めるガラスや枠なども昔懐かしい雰囲気で、大きな灯篭や大きな飛び石などが据えられている。


















この建物が、金沢の高岡町にあったということを聞いて、高岡町のどの辺に屋敷全体はどんなものだったか気になった。
また昔の写真本に大手町に「横山鉱業部」の立派なビルがあったことが掲載されているが、これも大手町のどこにあったのであろうか?
なにしろ、その当時は「金沢は横山でもつ」と言われていほど栄えていたことから気になるところである。




2024年10月27日日曜日

山中温泉 無限庵(1)

山中温泉の「厨八十八」を出た後、「こおろぎ橋」を渡った右手の坂を上がるとすぐに 「旧加賀藩家老武家書院の「無限庵」がある。



















玄関から二階書院へ続く外観で、入母屋造妻には狐格子に懸魚を付け、四方に桟瓦葺きでめぐらせている。
この建物の南半分は、1912(大正元)年で、小松市の尾古屋銅山などの経営にあたっていた横山章が、金沢市高岡町に建てた。横山家は言わずと知れた加賀藩の重臣で加賀八家のひとつで、章は十三代の分家にあたる。建築後しばらく経って鉱山の経営が悪化し、家屋も手放さざるを得なくなった。これを山中町出身の実業家・新家正次が引き受け、別宅として1921年に現在地に移築した。その際に北側に座敷が増築されたといわれる。
1980年になって建物の運営は、財団法人に代わり、以降「無限庵」の名で公開されたという。






「無限庵」より











北側にある玄関はこじんまりとしやガラス引き戸の上に透かし彫りの上塀、両側に土壁にぬき穴がありやはり透かし彫りと下に竹が並んでいる。そして玄関前に近代建築としては珍しく「狛犬」(?)が置かれている。
































土間には一面にたたきに那智黒石を敷き、大石が据えられている。式台の前には平たい自然石(青石)の沓脱石に、式台は欅の厚板が敷いてある。







「無限庵」より
















式台を上がるとすぐ右手に小さな洋間の応接間がある。豪華なシャンデリアに洒落た丸窓はギヤマンで窓の間には鏡がはめ込まれていて、その周りにも細かな細工がなされている。そして豪華な深紅の分厚いカーテンが架かっている。
























天井は格天井でと木象嵌の洒落た文様が入っている。































外から見た応接間は、石の台の上に栗のなぐりを、剣先に見付にし詰めうちされている。







「無限庵」より
















次の間と座敷の間には桐の図案を透かした桐板がはめ込まれている。二つの部屋にはお宝が多く展示されている。
































有名な人が作ったものであろう江戸時代後期の「将棋の盤と駒」


















「菊御紋」の蒔絵の天台


















「菊御紋 文台・硯箱」大垣昌釧作で、金沢で活躍した明治から昭和初期の加賀蒔絵師である。


















茶室は二畳台目中板入り向切りであり、客座二畳の間に中板を入れ中板と一畳の客座に沿って台目の点前座を敷き、もう一畳の客座に面して床を構えている。
























洒落たデザインの窓ガラスと障子の小部屋

2024年10月21日月曜日

山中温泉 厨八十八

 今回は、山中温泉の「こおろぎ橋」よりさらに奥にある「厨八十八」に泊まった。家のものは何度か来ているらしいが、私は初めてである。

館内から見えた風景で、山の上の方に大きな岩「天狗岩」があるのが見えた。



















部屋からは、下の方には竹藪、さらに下にわずかに「大聖寺川」が見える。


















ここ「厨八十八」は、テラスの前に米を作っており、従業員一同で田植えや稲刈りを行うという。料理をする場所を意味する「厨」と米の字からとった「八十八」から付いた宿の名前という。(稲を作るのの88日かかることから)そして前面に広がる四季折々の現景色を感ずることができる場所である



















続いて夕食に出てきたメニューを紹介する。北陸の秋の味覚を少しづつ味わう「八十八厨吟味懐石」で、まず「預け皿」に「秋刀魚の棒寿司」、「子持ち鮎紀州煮」、「フォアグラパイ包み」など9種類の料理と「食前酒」で乾杯


















「お椀」には、「ごま豆腐」、「松茸」、「ニンジン」などのすまし


















「御造り」には「甘エビ」や「ノドグロ」と3種類のタレ


















「スズキ」の焼き魚と丸十のオレンジ煮


















甘鯛と丸茄子の鍋仕立て 車麩やマイタケ、シメジも入っている。


















コールドビーフ、和風ラタトゥイユ(フランス ニースの郷土料理)



















「海老」「とうもろこし」などの揚げ物


















冬瓜、ほうぼう、蟹身などの酢の物



















そして秋鮭の煮込みご飯と漬物、赤だし味噌汁


















デザートは抹茶ババロアにフツーツ添え


















朝食は「八十八」で作った米を炊いたごはんと味噌汁と生野菜、棒葉に包まれた鮭のなべものなど


2024年10月17日木曜日

山中・山代温泉(4)山代 薬王院② 服部神社

 山中・山代温泉(3)山代 薬王院①の続きで、ちかくに水の流れに岩組された場所に小さな「不動明王」があり、なかなか趣があった。



















階段横に「百度石」と描かれていたので、この階段を百回上り下りするとご利益があるようだ。これはかなり大変なことだ。石の穴の部分に十枚の板が二列架かっており、何回上がり下がりしたかの数を印をつける為か?また階段には「あ」、「い」、「う」などの字が埋め込まれていた。



















中央に大きな像のそばにたくさんの像が並べられた「水子供養」





































「祖師堂」の石碑には「明治時代に萬松園四国八十八か所霊場開設の折に建立されたともので宗祖 弘法大使 空海をお祀りしてある」と刻まれている。
























背の高い立派な「白寿観音像」

























この樹木は樹齢300年の「ヤブツバキ」で、与謝野晶子が夫鉄幹とともに山代温泉に湯治に来られた際に、このツバキを眺めて歌った句が「久谷なる かまが作るも山代の薬王院に 咲けるも椿」

この長い108段の階段を上ると「服部神社」にでる。この神社は山代温泉の鎮守社として、菊理姫命、山代日子命など三神を祀る延喜式内社である。元の社地は、広大であったが、越前朝倉氏と一向一揆の争いによって戦火を受けて絶滅した。明治8年に現在地に社殿を復興した。
























こちらの手水鉢の上にはまた珍しく「鷲」が載っていた。
























さらに上の階段を上ると拝殿がある。拝殿の周りには幹回り6mスダジイをはじめ、タブノキ、ヤブツバキなど樹齢200年以上の巨木が林立している。拝殿裏の生い茂った樹木がライトアップされると見ごたえがある。


















両側には「狛犬」が社殿を守っている。
























社名の「服部」の語源は「はとり、機織(はたおり)」と伝えられている。


















服部神社の御利益は、とくに「足病の平癒」「足怪我の平癒」に効果があるとされる。プロサッカーの選手から信仰を集めているという。


















「子授け地蔵尊」の前には「手水鉢」があり、手を洗ってお参りする。