2024年5月29日水曜日

十一屋、平和町界隈(2)

 十一屋、平和町界隈(1)の続きで、さらに付近を歩いた。大通りから少し奥の方に「金沢市十一屋生きがい交流館」がある。ここに「老人福祉センター万寿館」があり、シニアたちのいろいろな教室などやっている。私の知人もここで「陶芸教室」を楽しそうにやっている。それを「石川県立美術館別館」で作品が展示されているのを見たことがある。他に障害者たちの交流館もある。



















その前には、交流館を利用した人たちがリーズナブルな値段でコーヒやランチを取りながら一服しコミュニケーションとる場所である。



















さらに歩くと「平和町」交差点の角には、うどん屋の「加登長」がある。「寺町一丁目」の交差点の角にもあったが、この辺りの角には「加登長」がやけに多い。






















この角を曲がり、まっすぐ歩いていくと突き当りにお墓が多く並んでいる「十一屋墓地」がある。かなり多くのお墓がありが、「太平洋戦争」で亡くなった人たちの墓地であろうか?


















大きなお墓は、陸軍歩兵曹長の墓である。他にも「○○大尉」の大きな墓もあった。金沢のお盆(7月15日)ごろには、多くの家族や子孫たちがお参りに来るのであろう。


















墓地の向こうは崖になっていて、遠くの景色が見える。ところで前回に戦前の陸軍の配置図を載せたが、この辺りは「弾薬庫」があった場所と思われる。十一屋小学校を出た知人から聞いた話だが、地面にV溝が掘られた弾薬庫跡をあったと言っていた。そういえば「金沢城跡」の中の「弾薬庫」があった場所にも、地面にV溝が掘られていた。



















近くにあった「成功地蔵尊」


















平和神社はちょうど春祭りで、上り旗などが挙げられていた。
神社の由緒は「戦前この一帯は、旧陸軍輜重兵第9大隊の駐屯地であった。 昭和10年にh靖国神社の御分霊と同隊関係者の英霊593柱を祀り、営内の輜(し)勲(くん)神社として(現平和保育園の前あたりに)創立された。 昭和21年5月17日に外地引揚者等人口急増により、平和町の開町式典が輜勲神社前で行われ、この時に住民共に氏神として祀ることを誓う。 昭和24年『天(あま)照(てらす)大神(おおかみ)』を祀ると同時に、明治30年に軍用地に買い上げられるまで、この地の守護神であった『倉稻(うかの)魂(みたまの)命(みこと)』を、寺町の闕野(がけの)神社より再び遷座して祀り、神社名も「平和神社」とする。 昭和30年都市計画等の事情により、現在地遷座をした。
昭和48年10月の金沢輜重隊史編纂を機に、台湾で戦士された英霊を合祀し、合わせて千百三十八柱を祀る。 正月から始まり、左義長、春・秋の祭りなどが開催されている。平成19年より『平和神社』という名目になり、近隣のお宮さんと同じと言う事になりました。 主祭神の『天照大神』は日本の総鎮守神、伊勢皇大神宮(内宮)の御分霊、『倉稻魂命』は、稲荷神社祭神名の古式の神名です。(平和神社のホームページより)


















拝殿と灯がつけられた灯篭


















拝殿には宮司さんや世話係の人がいて、丁寧にお参りさせていただいた。


















隣には「稲荷大明神」が祀られていた。
























手水所


















今の大通り近くに軍隊の集会所前(現アルコ)には、戦死者を祀る「輜勲神社」が建立されていたが、戦後に「平和神社」に改称され、その石碑がここに移った。
























旧輜重隊の馬魂碑



2024年5月24日金曜日

十一屋、平和町界隈(1)

 今回は、寺町の奥の十一屋、平和町界隈を歩いた。ここは、「市民病院」に一時通ったときに少し歩いた以外、あまりゆっくり歩いたことがない。最近では、「犀川緑地公園」に時々散歩に行っているが、車でこの近くを通りすぎるだけの所である。

「寺町1丁目」の交差点は、野町から野田へと泉野から石引への二つの大通りが交差するところである。下図は野町方面を見た写真で、50年数年前に市内の路面電車が走っていたころは、この辺りが「寺町終点」だったところである。その頃には、この少し手前に映画館もあったことを聞いている。


「寺町1丁目」交差点から野田方面を見る。戦前にこちらは「野村練兵場」や陸軍の「三十五連隊」などの兵舎があったところである。
藩政期には3代藩主利常が、野田山にある利家の墓所へ行く道路を一直線に造成し、松樹を植栽した。1622(元和8)年に百姓衆11人が藩の政策により、屋敷地を拝領して茶屋を開き「十一軒」あったので「十一屋」の名前が付いた。


















下図は昭和5年当時のこの辺りの「野村練兵場」や陸軍の「歩兵三十五連隊」などの兵舎の配置図である。
1898(明治31)年、日清戦争後日本の軍備増強を図るために金沢に陸軍第九師団が設置された時に石川郡野村村に「歩兵三十五連隊」、「野砲隊」、「工兵隊」、「騎兵隊」、「輜重兵隊」の兵営が建設された。その時に各隊の調練場として野村練兵場も造営された。





















ここの大通りは「十一屋商店街」であるが、以前ほど店はやっていないようである。少し行ったところの右側に「嶋屋」という店があるが、20年くらい前に鰻を食べに行ったことを覚えている。美味しかったのでまた食べたいと思うが、今は鰻があまりとれないと聞いているのでどうだろうか。でも店の前には「うな重」などのメニューがあったので、まだ頑張っているようである。





































その向かい側には、随分向かいからある「十一屋小学校」の建物がある。ここは1878(明治9)年に石川郡長坂村に設置された。明治41年に石川郡野村村村立尋常小学校として現在地に移った。大正14年に金沢市に編入し、十一屋尋常小学校と改称された。1945(昭和20)年終戦後、広い軍用地が海外からの引揚者のや一般住民地として転用されたため児童数が急増し、昭和34年泉野小学校、昭和56年委長坂台小学校を分離した
































小学校校舎の裏から犀川、小立野台地方向の眺望が見える。橋が見えるのは「上菊橋」である。


















「十一屋小学校」の裏には、小さな「八幡神社」がある。
































境内には樹高30m、幹回り4m、樹齢約500年の欅が天を仰いでいる。




































また、「八幡神社」の隣には、立派な建物の「旅館 橋本屋」がある。






2024年5月19日日曜日

珠洲焼展 しいのき迎賓館

 ゴールディングウィーク中にしいのき迎賓館で「珠洲焼展」をやっていたので見てきた。今回は、1月1日の奥能登地震で多くの被害を受けながら、その中で被災を免れた珠洲焼の展示販売されていた。現在でも大半の窯元は作陶再開の見通しが立っていないという。






































「珠洲焼」といえば、12世紀後半(平安時代末)から15世紀末(室町時代後期)にかけて珠洲郡内で生産された中世日本を代表する焼き物の一つだそうだ。窯は半島先端部に築かれ、海運により日本海沿岸の東北、北陸の各地や北海道まで運ばれていた。重いものは海運が便利だということから、焼き物は重いことから、流通コストの面では、日本海に突き出た能登半島は地の利があったという。
14世紀には最盛期を迎え、日本列島の約1/4をを商圏となったが、15世紀後半には急速に衰えてまもなく廃絶した。そして1979年に約500年後の眠りの時を超えて発祥の地に再興されることになって現在に至っている。


















珠洲焼の特徴は、須恵器 の系統を継ぎ、粘土紐を巻き上げ、叩きしめて成形を行い焼き上げる。無釉高温のために、灰が自然釉の役割を果たし、幽玄ともいえる灰黒色の落ち着いた美しさを醸し出す。当時は亀や壷、すり鉢などの日用品が多く焼かれていた。


















現代の珠洲焼は当時の作陶工程はほぼ変わらないが、花器や酒器(徳利、ぐい飲み、おちょこ)、湯呑、茶器(抹茶碗、急須)、ビアカップ、コーヒーカップ、皿、鉢、箸置きなど多くのものが投稿の手によって作られるようになった。またその味わいは、使い込むほどに味わいが出てくるものになっている。


















鉄分を多く含んだ粘土で、釉薬を使わず高温で焼き締める焼き方のため、水の浄化機能をしてくれるため花器の花は長くもちする。またビアカップに入れたビールは、釉薬を使ってないため、表面の凹凸がビールの泡立ちをきめ細かくしてくれ、おいしく飲めるという。






































会場では、ビデオにより珠洲焼のつくり方を放映していた。表面の模様などは木材で造られ型材を轆轤で回しながらやわらかい状態の時に押し当ててシンプルな模様をつけていた。


















珠洲焼で造られた皿に乗せられた御馳走が写真で掲載されていたが、御馳走を引き立てさらにおいしそうに見える。


















3年前に珠洲国際見本市を見に能登を廻った時の「珠洲焼館」へ行った時のブログ

2024年5月13日月曜日

街中コンサート、兼六園の花

 今回は、「しいのき迎賓館」と「金沢城公園」でコンサートを別の用事で近くに行ったついで見に行った。

「しいのき迎賓館」では、定期的にコンサートやっているが、今回は「ガルガンチュア音楽祭2024」の一環として「100年の建物とピアノ」と題して開催され、ゴールデンウィーク中なので多くの人が聞き入っていた。


























100年前に作られたピアノによる演奏とボーカルの人のコンサートがあった。やはり生で聴くのはいいものだ。



















本日は3回の演奏が開かれ、別の時間には演奏者が変わり、多くの演奏者がピアノとボーカルなどを披露していた。窓の外には金沢城の石垣が見える最高のローケーションである。


















こちらは親子で一つのピアノに二人で素晴らしい演奏を行っていた。


















2日後は「金沢城公園鶴の丸休憩館」で、コンサートを聞いた。昨日もここで演奏があり休憩館前の芝生で行われたが、今日はいつ雨が降るかわからない天気だったので、館内での演奏であった。

























館内には20~30人の人が来ていて、静かに聞き入っていた。



















演奏者は「アンサンブル金沢」の3人で、フルートやクラリネットなど3種類の管楽器で、クラシックだけでなく、私たちになじみのある「ビートルズ」や「カーペンターズ」の曲や「童謡」なども演奏してくれたので、自然に体も動いた。


















この人は、自分は「フルート」を演奏していると紹介してくれた。

























この後、少し時間があったので兼六園を廻った。この白い花は、噴水付近にある秋にはオレンジの大きな実がなる「山査子」の花であることが分かった。


















「霞ヶ池」の脇に咲いていたピンクに白い花のツツジである。



















「霞ヶ池」に浮かぶように立つ「内橋亭」では、明日(5月7日)には、兼六園の一般公開記念150周年として「茶会」他いろいろな催しがある。


















こちらの辰巳用水の「曲水」付近では、ピンクの濃いツツジが咲いていた。曲水の中の「杜若」は今年もあまり咲いていないようだ。

2024年5月8日水曜日

金石 輪島朝市

 今回は、地震で焼失してしまった「輪島の朝市」を応援を兼ねて再現しようということで、金沢の金石で第2回目をやるということで見たいと思い、行ってきた。第1回目は3月23日に開催されたが、何しろ物珍しさに金石の人口より多くの13,000人が来て大御繁盛だったというのを聞いていた。午前8時からオープンするということだったが、たぶん駐車場が行列で入れないと思い、10時ごろに着くようにして妻に近くで降ろしてもらうようにした。

場所は、「木挽川」が「犀川」に流れ込む付近の「金沢市漁業協同組合」の建物の所である。



















ロープが張られ誘導員が立ち並んでいて、入口に誘導された。オープンして2時間後だからかなり人が減ってしまっただろう。建物の両側に店が30店ほど並び、お客さんが輪島の特産品調べをしていた。


















店の人たちも大混雑から逃れて一服しているような感じである。かなりのものが売れてしまったと思うが、それでもまだかなりの品物があった。能登の有名な「岩ノリ」は、干したものと練り状のものが置いてあった。また、土の上に海水をまいて作る「能登の塩」も売っていた。



















輪島塗の高級そうな箸も並べられていた。


















「アジの開き」や「干しタコ」、「もずく」など輪島の海産物がたくさん並んでいる。


















「滑らない箸」として輪島うるしを塗った箸やお椀が並べられていた。


















能登で獲れるお米を使った大きな「かきもち」も食べてみたかったがやめた。


















「輪島朝市」と言えば、売り手のおばさんと買い手の値段交渉や掛け合いが面白いということを聞いている。おばちゃんの元気な声が、能登の大震災被害も吹き飛ばしたいものである。


















漆ブレスレットや漆ストラップ、漆ペンダントなどの漆アクセサリーなども並べられていた。


















隣の広場では、テントの下のテーブルに集まって、ここで買ったものをさっそく食べている人たちもいた。



















輪島のPR資料なども手に入れられる。


















舞台が作られていて、音楽演奏や子供たちの踊りなどの催しなども開かれていた。


















ステージ横にあった黒板には「輪島頑張れ」や「笑顔溢れる素敵な市場」など、いろいろなメッセージが描かれていた。


















帰りは道に迷わないよう旗が立てられ、所々に誘導員がいた。この日ばかりは金石の人たちもボランティアで忙しかったのでは。輪島朝市2回目は9,500人の人たちが来たと後で知った。今後は別の商店街にも出張する案もあるらしい。寂しくなった商店街をもう一度活気のある商店街に輪島朝市も一役かってもらいたいものだ。


















私がここで買ったもので、特に「ゆず入りのイカの塩辛」は食べるのは楽しみだ。