2025年1月30日木曜日

しいのき迎賓館 能登地震写真展

街中へ別の用事で行ったついでに「しいのき迎賓館」に寄った。館内では「 能登地震写真展」をやっていたので見てきた。













こちらから見えた「能登地震」による石垣の崩れはだいぶ修正されていたが、まだ完全じゃなくブルーシートがわずかに見えた。もう1年経たのになぜこんなにかかるのだろう。今回の地震による金沢城に石垣のずれやふくらみなどを元通りにするには15年かかると新聞に載っていた。



















この写真展示会を開催しているカメラマンは、松任谷由美さんから去年の3月に「少し前に能登へ行ってきました。あの光景は、もっと多くに人に知らせなければならない」というメッセージもらった。
その後、石川県から依頼を受けて、4月から幾度か被災地を訪れてカメラを撮ったという。あまりにもすごい光景だったので、どう写してよいか分からなく目の前のものを写すしかなかった。
しかし7月に松任谷由美さんと宇出津で開かれた「あばれ祭り」を見に行き、燃え盛る松明の周りをキリコがひしめき合い、神輿を水や炎でボロボロになるまで破壊する、街を破壊した自然の暴威に直面しながらもさらなる破壊で応えて見せる人々の破棄に心が震えたという。祭りは全国の支援への感謝として行われ、実際にその活況は能登が震災から徐々に復興しつつある象徴に思えたという。
ある街では、復興はこれからで、まだ始まってもいないと被災した人が話してくれた。その時でも能登の人々は黙々と泥をかき分けて前に進もうとしている。地震に豪雨が重なった自然災害は一過性ではない。持続的な支援が必要になる。この光景は能登だけのものではない。私たちすべてが直視すべき目の前の光景として考えなけらばならないと言っている。


















1階が完全に倒壊し、2階の屋根が残っている家の前に立つ「叔母さん」と地震前の写真と地震後の写真が並べられている。その前にメッセージが描かれていた。



















軍艦に似ていたので「軍艦島」と言われた「見附島」は、能登半島のシンボルだったが、地震後崩れてしまってすっかり形が変わってしまった。私はここには何度か来ているので目に焼き付いている。


















輪島市門前町の重要伝統建造物保存地区「黒島」の北前船の船主であった「角海家」の完全に倒壊した写真である。この辺りの海辺は4m隆起した所だ。私は2年半前に見学に来ている。昔の北前船で財を成した立派な家だった。


















道路沿いの家々が倒れ、電柱も傾ている無残な風景である。


















こちらの写真は、火災で一つのビルを残してほとんどががれきになっている「朝市通り」付近であろう。手前には車がペシャンコになっているし、陶器類が散在している。


















こちらの写真はお寺が完全に倒れているので、珠洲市の正院町のお寺の本堂などの写真である。住職はいつ復興するか、全く分からないという。


















道路の脇にがれきの山になっっている通りを買い物をした後、自転車を押している叔母さんなどいくつもの被害状況の写真が並べられている。


















能登の人たちに向けた応援メッセージや展示会の感想が描かれた多くの封筒が置かれていてそれを読めるようになっていた。これは1か月前に東京でこの写真展をやった時に寄せられたものだそうだ。


















他のカメラマンも別の場所で「能登地震」についての写真展をやっていた。「能登復興」のために何とかしたいという思いであろう。




























2025年1月25日土曜日

21世紀美術館(2025.1)(2)

 21世紀美術館(2025.1)(1)の続きで、さらに無料ゾーンの作品を見る。一番人気のある「スイミングプール」は館内から見えるが、外は雨模様なので誰も出ていない。でもプールの中はたぶん人がいるんだろう。(このプールを見たことない人は、この文章は不思議に思うだろう)















「光の窓」の横には、能登地震で壊れた九谷焼がきちんと並べられたていた。



















能美市に「リディスカバープロジェクト」という2024年能登地震により被災した能登の九谷焼と輪島塗の工場や職人の作業場などを救済するためにできたプロジェクトである。この破損した九谷焼をまとめて引き取り、新たに価値を見出し、職場を失った人たちに仕事を続けられるようにした。また、九谷焼と輪島塗は、それぞれ職域の違いから出会うことがなかったが、震災以後に出会うことで新たなオブジェクトとして壊れた九谷焼と輪島塗の職人の手によって新しいオブジェクトとして蘇らせることを目的としているという。

































有料ゾーンの長い木の作品がガラス越しに見えるが、何だろうか?



















別の部屋では「クリスバーデン」という人物が、コンセプチュアル・アーチストとして影響力を持ち、富や権力、軍隊といった題材をとりあげたものである。
この作品「メトロボリス」は交通機関を代表とした都市の暴力性を表現した。おもちゃのパーツやレゴのブロックで作られたニューヨークのと思われる街に、一方通行の道路にが複雑に入り込んでいる。おもちゃのミニカーが走り回る様子は、絶え間ない流れから逃れることができない現代の状況を表している。道路を一巡した車は最下位で再び回収され、最も高い道路まで戻されるという仕組みが何回も繰り返される。(説明文より)


















穴の開いた鉄ブロックをいろいろな方向に基礎柱として立てて、それを基に様々な方向にレールを回しおもちゃのパーツやレゴのブロックなどで建物やトンネルを作り、煩雑な街中を表している。その中をミニカーを走らせるというものである。
ミニカーを時々この中を動かしているが、まだ30分も待たなければならなかったので、残念ながら見ることをあきらめた。


















こちらの自転車は、2002年に中国の上海に行った時に、中国ではその当時、自転車は移動だけでなく、様々にカスタマイズされて荷物の運搬に用いられていること、食事や憩い、ミシンがけなどの多くの家事、団欒と商業行為が路上で行われていることに注目して、椅子やテーブルなどの家具と自転車を合体したもので、その印象をもとに日本人が作ったものだという。まるで自転車の後ろに昔はよくあったリヤカーを付けているようなものだ。日本ではこんな自転車を見たことがない。


















こちらも同じように横に広がっている荷台が付いている。こんな長い荷台を付けていると、走る時は横にあるものにぶつからないかいつも気にしなければならない。


















今回は「都市漂流」という題で、都市という川に漂流する一個人が見たものをテーマとして人が頭に浮かんだものを作品とした企画である。有料ゾーンでもあったので、さらに面白い作品が見られたであろう。この21世紀美術館では、現実にはない空想的なものが近代美術として見れるので、時々来てみるのも面白い。


2025年1月20日月曜日

21世紀美術館(2025.1)(1)

 今回は、小学生の孫の工作の作品が展示されているということで久しぶりに「21世紀美術館」へ見に行った。平日で雨模様だったので、人も少なかった。



















今回は、金沢市内の全小学校の作品が展示されている。私たちの時代はシンプルなものを作っていたが、今はいろいろなグッズがあり、自分でアイデアを出しグッズを組み合わせ面白いものを作っている。

























黒紅色をバックに鮮やかな扇子が並んでいたが、ちょっと茶屋街のイメージがあって、目を引いた。スタンプのようなものを作っていろいろな模様を付けたのかなあ?


















言葉の印象を白い紙に墨のような黒色で表現したものであるが、今に小学生は私たちの時代違って、タブレットやスマホなどでいろいろな映像を見ているので、随分様変わりしたなあと思う。
























これは、別の部屋での作品で、草原に何か虫か鳥の大群の模様の絵か?




















こちらは大河の上に鳥か虫の大群の映像でその模様が急激に変わって動いている。どんなふうに動くのかじっと見いってしまう。


















こちらはよくわからなかったが、「カルティカゾーンの記憶」として「ドイツ、ポーランド、ロシア、中国、日本」を細い線で思いのままに表しているという。
























こちらはクモがオスがメスの気を引こうと面白く動いている映像で、こても見入ってしまった。


















こちらはオスで小さなクモを大きく映しているので迫力がある。これを映像の前にあった台の上に上がって見ていたが、オスが羽をバタバタさせると台が振動するのを感じる面白い企画である。足なども激しく動かしメスの気を引こうとし一生懸命だった。ほかのオスも出てきて、お互いに争っているのも見ているのも面白かった。クモの動きとともに音響も迫力があった。


















こちらはメスであるが、多くのオスの動きに対応して、いろいろな動きをしていた。こういい映像をどうやって作るのか不思議である。
従来の美術と違ったこの近代美術の映像にしばらく見入ってしまった。
















大きく花の絵柄が描かれた壁の前の椅子に座って、「光庭」の上の方にある「雲をはかる男」の像を見て一服した。


2025年1月14日火曜日

湯涌温泉(4)総湯 夢二の歩いた道

 湯涌温泉(3)温泉街②の続きで、「やましたや」の斜め向かいに「湯涌温泉 総湯」がある。ここに来れば誰でも入れるので温泉好きの金沢市民も、よく行っている人も多い。

養老二年(718年)近郷の農夫が泉に身を癒す白鷺をみてこの温泉を発見したと伝えられています。藩政時代は、加賀藩の歴代藩主を始め一族が 常用し、その効能によって治癒本復することがしばしばあり、これを賞され湯宿の主人に名字帯刀が許されたと言われます。大正の初めドイツで開かれた万国鉱 泉博覧会に当時の内務省の推薦により日本の名泉として出展、泉質の良さが認められました。以来、文人墨客の来湯が繁くなり、特異な美人画で知られる大正の 詩人、竹久夢二が愛する女性彦乃を至福の日々を過ごした「ロマンの湯」としても知られています。(ホームページより)



















総湯と夢二館の間の階段を上ると、途中に「足湯」がある。温泉街のそぞろ歩きを楽しんだ後、足湯に浸かってのんびりするのもよい。



















さらに上がると、赤い鳥居が並んだ「湯涌稲荷神社」がある。


















この神社の「狛犬」は、珍しく花が描かれた前掛けをしていた。
























薬師堂はガラス張りの囲いがなされていた。
























この辺りは、「夢二」が歩いた道として紹介された道がある。湯涌に「夢二式美人画」で一世を風靡した詩人画家・竹久夢二が滞在したのは1917(大正6)年の秋のことだった。金沢市の金谷館で開催された画会が大成功し、恋人・笠井彦乃と病後療養が必要な次男・不二彦を伴っていた。夢二と彦乃はこの地で愛情を深めながら、日々スケッチや制作に励み、薬師堂裏から古道を通って湯涌河内まで足を延ばして人々と交流していた。湯涌の素朴で力強い自然とそこで育まれた人情に魅かれ、夢二は画室を建てたいと洩らしたと彦乃が記している。(パンフレットより)
明治に入っても湯涌温泉は明治19年刊行の「日本鉱泉誌」に紹介され、夢二たちが滞在した大正中期には旅館が三軒あったという。




















薬師堂の境内には「源泉臼」が置かれていたが、718(養老2)年にこの山里に1羽の鷺が舞下り動く気配がなかったので、近寄って見てみると湯が湧き出ているのを知った。すぐに井を掘り高温多量の薬湯を枠の中に石臼が溢れ、昼夜を問わず出てくる霊泉を見て、人々は感嘆して里の名を「湯涌温泉」と名付けたという。
後に加賀国3代藩主前田利常、6代吉徳は、いずれもこの石臼より汲んだ霊湯を飲浴し、思い患いも治ったとか。
























湯涌での歌十数首のうちの一首「湯涌なる 山ふところの小春日に 眼閉ぢ死なむときみのいふなり」が歌碑として刻まれている。
























「手水鉢」


















「御神木」
























さらに階段を上っていく長い道があり、片道540m、往復50分かかる散策路が続いている。


2025年1月9日木曜日

湯涌温泉(3)温泉街②

 湯涌温泉(2)旧江戸村 温泉街①の続きで、温泉街の宿などについて説明する。まず、温泉街の入口に「観光協会」があり、そこで地図をもらった。











そこにあった昔の湯涌温泉の写真があった。。いつの時代か分からなかったが、たぶん明治~昭和初期のころではと思う。道路の真ん中に小さな川が流れているが、現在の地図に載っている「湯の川」か?
































観光協会のとなりに「いわく温泉 いろは館」がある。


















ここは、「湯涌ぼんぼりまつり」のポスターや写真、グッズなどが置かれていた。この祭りは、2011年に放送されたテレビアニメ「花咲くいろは」のモデル舞台となった湯涌温泉街でスタートしたもので、放送開始以降多くのアニメファンが訪れるようになった。
毎年7月から300基のぼんぼりを設置し、10月の連休に祭事を行っているという。温泉街入口からいわく稲荷神社を通り、お焚き上げの儀を行う玉泉湖までやく500mを隊列の行列が進む形式である。毎年、この時期には湯涌温泉の旅館が満室になるほど、アニメファンのみならずカップルや家族連れなどが多数訪れる行事となった。
2011年当時は、こんなアニメのものが流行るか疑問に思ったが、若者などで大人気となり、その後も金沢市内の文化施設でも以前はシニアが多かったのが、アニメに絡んだイベントが多くなり、若者や家族連れなどが来るようになった。


















温泉街を歩いていくと、左手に通りがあるが、この通り沿いに4軒の温泉旅館がある。その通りの右側の2軒は能登にある「百楽荘」に経営が変わっている。以前は「戸田屋」と「あたらしや」という名前の旅館であった。その頃に小学校の同窓会があったことを覚えている。


















「百楽荘」といえば、能登の九十九湾付近にあったところは、随分前に岩のトンネルをくぐって、海を見ながら食事をした覚えがあるが、いつの間にか湯涌温泉にも進出しているんだなあと思った。


















その突き当りには、前回の「旧江戸村」に代わり、江戸時代の加賀藩にあった農家などの豪邸が並んだ「江戸村」がある。ここは、以前に入ったがあまり覚えていないので、改めて入った時に紹介したい。


















この辺りから見える山々にはうっすらと雪化粧していて、いつも見る山々と違って非常にきれいだった。


















湯涌温泉で一番の大きかった旅館と思われる「かなや」が「自然ゆめ館」に名前が変わっていた。やはり経営がきびしかたのだろうか?金沢の町中にこれだけの人が来ているのだから、宿泊する人も多いと思ったが・・・


















その奥に「金沢夢二館」の建物がある。こちらは、2000年に開館し、以前に宿泊した後入ったことがある。竹久夢二の作品やゆかりの品々が展示されている。夢二が1917(大正6)年9月24日から10月16日まで、この温泉の山下旅館(現在の:お宿やました)に滞在したことにちなんで建てられた。「大正ロマン」の美人画家として有名である。


















一番奥にある旅館「やましたや」は、加賀は歴代藩主も足繁く通ったというお宿で、大正時代には竹久夢二が恋人の彦乃と滞在した場所として有名である。こじんまりとした旅館だが料理がとくに自慢のところである。