2024年7月21日日曜日

敦賀ドライブ(5)人道の道 敦賀ムゼウム

 敦賀ドライブ(4)敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)の続きで、その後、海沿いを歩いて「人道の道 敦賀ムゼウム」へ歩いて行った。
























途中に「洲崎の高燈籠」があるが、これは敦賀湊の目印として、1802(享和2)年に回漕業を営んでいた庄山清兵衛によって建てられた日本最古の石積み灯台である。その前の広場でギターなどの演奏を行っていて、周りに多くの人が集まっていた。



















この辺りは「金ケ崎緑地」で、「敦賀鉄道資料館」から「敦賀ムゼウム」の建物までは洒落たウォーキングコースとなっている。


















そして洋風の四つの建物が並んでいる所の一つに「人道の道 敦賀ムゼウム」が展示されている。「ムゼウム」とはポーランド語で資料館という。


















この建物は、欧亜国際連絡列車が運行していた大正~昭和初期にあった建物群(外観)を当時の位置に復元したものである。
①敦賀税関旅具検査所・・国際航路で荷揚げされる荷物の検査を行う場所として、191     3(大正2)年竣工の敦賀港の改良工事の際に建てられ、4つの建物の中で最初に完成した。
②敦賀港駅・・三角屋根が印象的な敦賀港駅は、欧亜国際連絡列車の中継駅として建てられた。1階は旅客用のスペースとして使用され、2階はレストランがあった。
③大和田回漕部・・1906(明治39)年に建てられ、大阪商船や北日本汽船などの敦賀に入港する商船会社の代理店として、港の荷捌きなどを行っていた。
④旧露国義勇艦隊事務所・・ロシアの義勇艦隊の事務所として建てられ、ロシア海軍の補助を目的に組織された「義勇艦隊」は1907(明治40)年から1918(大正8)年まで敦賀ーウラジオストック間の定期航路を運航した。


















三度にわたるポーランド分割で祖国を失ったポーランド人は再び自由を求めて蜂起しますが戦いに敗れ、捕らえられた政治犯や愛国者の家族などは、ロシア極東のシベリアに流刑された。その後、第1次世界大戦やロシア革命がおこると多くのポーランド人が難民となり、労働のための移民も含めシベリアには15~20万人ものポーランド人がいたといわれている。


















日本赤十字社はシベリアに派遣された日本軍の協力を取り付け、救助活動に入った。敦賀でも孤児たちを迎えにあたり、敦賀役場、敦賀警察、敦賀税関支署などが協力し、上陸後の東京までの輸送にあたっては鉄道の指示により多くな便宜を図った。さらにに日赤本社から敦賀へ職員を派遣し、関係機関との連絡調整や孤児たちの受け入れと輸送に努めた。


















シベリアから救出され、敦賀に上陸したポーランド孤児の忠実について紹介され、孤児が残した日記などの資料のほか、来日100周年を記念して製作された大型の陶板レリーフも展示されている。
































なぜポーランド孤児とユダヤ難民が敦賀に上陸したのか、「人道の港敦賀」にまつわるエピソードなども展示されている。