2024年7月28日日曜日

敦賀ドライブ(7)金崎神社 金前寺

 敦賀ドライブ(6)金が崎城跡の続きで、その後、下に降りて「金ケ崎神社」に行った。

ここは、1890(明治23)年、尊良親王を祀る官弊中社金崎宮が金ケ崎城址に創立された。1892(明治25)年には恒良親王が合祀され、1893(明治26)年に現在地に遷座した。太平記の一話に尊良親王が長年の想いに寄せ続けた姫君御くしげ殿めでたく結ばれた話もあることなどから、恋の宮として恋愛祈願として多くの人が訪れるという。



















金崎神社付近の配置図


















摂社「絹掛神社」は明治30年に社合を金崎宮摂社絹掛神社として御鎮座祭が執り行われた。新田義貞などが祀られている。



















ご本殿は明治39年に焼失後、現在地に再建されたという。建築様式は流造から神明造に改められた。































金崎神社の階段を上り始めてすぐに右手に鳥居が見える。古くから愛宕大権現と称し、地方の崇拝が熱く、火防の神と崇められた。
























すぐ近くにある「金前寺」は、736(天平8)年に開創されたという古いお寺で、十一面観音の座像が本尊で縁結びの「袴掛地蔵」として知られている。また、北陸三十三か所観音霊場でもある。



















境内には金ぴかの立派なミニチュアサイズの「五重塔」や「梵鐘」などが置かれていた。




また、「弘法大師像」や「聖観音菩薩像」、「不動明王像」も置かれていた。


















こちらには、松尾芭蕉の句碑「鐘塚」があるが、敦賀を訪れた芭蕉が、宿の主人から南北朝時代の金ケ崎の戦いの故事を聞いた。すなわち新田義貞が陣鐘を海に沈めた後、ひき上げようとしたが、逆さに沈んでいたためできなかった。この話を聞いた芭蕉は「月いずこ、鐘は沈むうみのそこ」と詠んだ。



2024年7月24日水曜日

敦賀ドライブ(6)金が崎城跡

 敦賀ドライブ(5)人道の道 敦賀ムゼウムの続きで、その後、「赤レンガ倉庫」や「敦賀駅資料館」などがある敦賀平野南東部を取り巻く山の方に向かった。ここには、「金ケ崎城跡」や「金ケ崎神社」がある。



















「金ケ崎神社」は、次回に紹介するとして、その裏手の山を登ると「金ケ崎城跡」にでる。



















「金が崎城」の築城は不明だが、1180年頃の古文書に越前国主に敗れた平通盛が籠城した「津留賀城」が金崎城のこととされている。ここで二度歴史を動かす合戦が行われた。
一度目は南北朝時代に、二年余りにわたる金ケ崎城争奪戦である。1336(建武3)足利尊氏が京で光明天皇(北朝)を擁立して室町幕府を開き、後醍醐天皇は吉野に下る(南朝)そして新田義貞は後醍醐天皇の皇子らとともに金ケ崎城に籠城した。その後幕府側の主力が攻撃を開始し、新田義貞は破れて撤退し、城は幕府側が取り戻した。しかしまた義貞の反撃により奪回したが、長期戦の末また幕府側が取り戻した。
二度目は戦国時代の「金ケ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である。
1570(元亀元)年に信長は京から近江・若狭を経て越前に侵攻し、金ケ崎城の朝倉景恒を攻略し城を接収した。朝倉攻略の拠点とする構えを見せたが、近江の浅井長政が反旗を翻して越前国境に迫っていると聞き撤退したという。













「金崎城跡」へ急な階段の登り口から上った。


















途中に「金ケ崎古戦場」の石碑が建っていた。この古戦場は、決死の撤退戦で「金ケ崎の退き口」として有名で、信長軍には後に天下をとった豊臣秀吉、徳川家康や信長を攻めた明智光秀らもいたという。

15から20分上ったところで、辺りが開けた。ここは、金ケ崎の最高地(標高86m)で月見崎といい「月見御殿」と呼ばれる所である。

















この「月見御殿」の展望台からは、波おだやかな敦賀湾が見えた。今は横の岸壁に敦賀火力発電所やセメント工場などがあった。




































そしてこの一角に、1909(明治42)年皇太子時代に大正天皇が「月見御殿」を訪ねた記念に建てられた石碑が建っていた。この地に戦国武将が勢揃いしていたから来たのであろうか?

























帰りの下りる途中からは「新幹線敦賀駅」や先ほど見てきた「敦賀赤レンガ倉庫」などが見えた。
















2024年7月21日日曜日

敦賀ドライブ(5)人道の道 敦賀ムゼウム

 敦賀ドライブ(4)敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)の続きで、その後、海沿いを歩いて「人道の道 敦賀ムゼウム」へ歩いて行った。
























途中に「洲崎の高燈籠」があるが、これは敦賀湊の目印として、1802(享和2)年に回漕業を営んでいた庄山清兵衛によって建てられた日本最古の石積み灯台である。その前の広場でギターなどの演奏を行っていて、周りに多くの人が集まっていた。



















この辺りは「金ケ崎緑地」で、「敦賀鉄道資料館」から「敦賀ムゼウム」の建物までは洒落たウォーキングコースとなっている。


















そして洋風の四つの建物が並んでいる所の一つに「人道の道 敦賀ムゼウム」が展示されている。「ムゼウム」とはポーランド語で資料館という。


















この建物は、欧亜国際連絡列車が運行していた大正~昭和初期にあった建物群(外観)を当時の位置に復元したものである。
①敦賀税関旅具検査所・・国際航路で荷揚げされる荷物の検査を行う場所として、191     3(大正2)年竣工の敦賀港の改良工事の際に建てられ、4つの建物の中で最初に完成した。
②敦賀港駅・・三角屋根が印象的な敦賀港駅は、欧亜国際連絡列車の中継駅として建てられた。1階は旅客用のスペースとして使用され、2階はレストランがあった。
③大和田回漕部・・1906(明治39)年に建てられ、大阪商船や北日本汽船などの敦賀に入港する商船会社の代理店として、港の荷捌きなどを行っていた。
④旧露国義勇艦隊事務所・・ロシアの義勇艦隊の事務所として建てられ、ロシア海軍の補助を目的に組織された「義勇艦隊」は1907(明治40)年から1918(大正8)年まで敦賀ーウラジオストック間の定期航路を運航した。


















三度にわたるポーランド分割で祖国を失ったポーランド人は再び自由を求めて蜂起しますが戦いに敗れ、捕らえられた政治犯や愛国者の家族などは、ロシア極東のシベリアに流刑された。その後、第1次世界大戦やロシア革命がおこると多くのポーランド人が難民となり、労働のための移民も含めシベリアには15~20万人ものポーランド人がいたといわれている。


















日本赤十字社はシベリアに派遣された日本軍の協力を取り付け、救助活動に入った。敦賀でも孤児たちを迎えにあたり、敦賀役場、敦賀警察、敦賀税関支署などが協力し、上陸後の東京までの輸送にあたっては鉄道の指示により多くな便宜を図った。さらにに日赤本社から敦賀へ職員を派遣し、関係機関との連絡調整や孤児たちの受け入れと輸送に努めた。


















シベリアから救出され、敦賀に上陸したポーランド孤児の忠実について紹介され、孤児が残した日記などの資料のほか、来日100周年を記念して製作された大型の陶板レリーフも展示されている。
































なぜポーランド孤児とユダヤ難民が敦賀に上陸したのか、「人道の港敦賀」にまつわるエピソードなども展示されている。













2024年7月17日水曜日

犀川大橋 百寿祭(2)御陣所太鼓ほか

 犀川大橋 百寿祭(1)の続きで、「犀川大橋 百寿祭」のイベントを紹介する。さらに人が多くなって舞台を見るには人の頭の間から見るしかなくなった。



















イベントの最初の催しは「御陣所太鼓」があり、まず説明があった。


















私が御陣所太鼓を初めて見たのは50年以上前で、その時既に東京に住んでいたが、金沢に帰省した時に友達と輪島に行き民宿に泊まった時に、その夜に輪島駅付近で「御陣所太鼓」の演技を見たが、怖い面とともにその演技が非常に迫力があり、すごいものを見せたもらったと記憶している。それでまた見たいと思っていた。

























御陣所太鼓の発祥は、天正年間(1573~92)に奥能登に上杉謙信の軍勢が攻め入った際に、村人が木の皮で作った面に海藻を着けて被り、夜半に太鼓を打ち鳴らして撃退したという武勇伝がよく知られている。


























しかし能登地方では、神輿の渡御をゴジンジョ、ゴゼンジなどと言われることから、御陣所太鼓はご神事の太鼓のことで、輪島市名舟の白山神社の夏祭りが7月31日、8月1日に行われる。7が31日の夜、舳倉島の奥津ひめ神社を遥拝する海中に建てられた鳥居まで神輿舟を出し、神迎えがなされる。神迎の儀を終えた神輿舟は静かに岸へ引き返し、村の西にしつらえた御旅所で一泊し翌日帰社する。この時に太鼓舟、太鼓山車に異様な扮装を凝らした仮面の者達が乗り込み、神輿の先供として太鼓を打ち鳴らしたのが元来の姿である。これが外能登の荒波を背にした有名な御陣所太鼓である。
今では、この御陣所太鼓は祭りの両日、浜辺の特設舞台で披露されている。大太鼓が中央に据えられ、夜叉、海坊主、山荒し、土左衛門、達磨などの面をかぶり、序・破・急の三段で打ち込まれる。この間、各自自由な形で見えを切り、面に応じた芸を入れ周り打ちする。さながら面の下に顔はなく、面そのものが本当の顔であるかの如く、凄愴、鬼気迫る想いにさそいにしまう。


















































昭和の初期には全国的に観光ブームが高まる中、能登半島では旧七尾線が輪島まで乗り入れが決まり、秘境とされていた奥能登をアピールするための策として御陣所太鼓に目が向けられ、発展していった。
太平洋戦争の時も御陣所太鼓だけは戦勝祈願の太鼓として特別に憲兵から演奏を許可されていたという。
戦後は、昭和35年に保存会を結成した御陣所太鼓は36年に輪島市無形文化財に指定され、38年には、日本文化芸能使節団として、日本の太鼓としては初めての海外ツアーにも参加した。何しろ昭和の頃は、あちこちに行って縁起を披露して回ったという。


















続いて招待者の開会のあいさつがあった。


















村山金沢市長のあいさつでは、「この100年間のうち今日が一番人出が多かっただろう」と言っていたが、100年前の大橋の竣工式の写真を見たら、橋の上いっぱいの人が映っていた。その後、水辺での乾杯があった。


















あまりにも人の多さに私はここで帰ることにしたが、まだまだ大橋に来る人もいた。まだまだイベントが続いていて、最後の「にし」の芸妓による踊りも見たかったが、あきらめた。


















「亀割坂」付近では、市内の小学生に作成の行灯が展示されていた。


















金沢市内の思い思いの景色の大作の絵が並べられていた。


















また、金沢生まれのビールなどの販売されたキッチンカーも出ていて、盛り上げていた。

2024年7月13日土曜日

犀川大橋 百寿祭(1)橋の構造 歴史

今回は、現在の「犀川大橋」ができてから100年ということで、「 犀川大橋 百寿祭」が催しされていたので、よく通っている「犀川大橋」がどんな風になっているかと思い見に行った。

























午後6時30分から始まるということで、野町に車を置いて歩いて行った。既に「広小路」から「片町スクランブル」までは、バスや車は通行止めになっていた。


















そして「犀川大橋」周辺は、いつも見る風景とは全く違う、多くの人でごった返していた。このイベントがあることを皆さん、いろいろと聞きつけているんだなあと思った。



















日本橋梁の先駆者、関場茂樹が設計し、1924(大正13)年に完成された「ワーレントラス」形式の大橋で、この橋以前のものは何度も流失しては架け替えられたが、この橋になって100年間を維持している。


















長さが約62m、幅21~23m、高さが約10mで形式が「下弦式単純曲弦ワーレントラス橋」
竣工が1924(大正13)年である。
路面電車を通すために路幅を広くした「鉄筋コンクリート桁製」の橋を作ったが、3年であえなく流失してしまったので、橋桁のない「ワーレントラス製」になったのであろう。















最初に架けたのは藩祖の前田利家で、その頃には浅野川大橋と小橋と犀川大橋だけだったという。城下一の大橋であったことから、今と変わらず当時の人の交流や物流が盛んだった。明治維新以降も洪水や氾濫によりたびたび流失し、1898(明治31)年に木造橋最後の架け替えが行われたという。

















下図は、大正8年の鉄筋コンクリートの橋で市電施設のために木造橋を取り壊して作られた。フランス・アンネビック式で鉄筋は一部米国製を使ったりと堅牢さが自慢だったが1922(大正11)年8月金沢測候所開設以来の集中豪雨により崩壊し、3年間の短命だった。















1924(大正13)年に開通したばかりの上図と同じ場所の現大橋の写真
















1994(平成6)年の改修工事で日本の伝統色である青色を加賀友禅に見られるグラデーションの配色を施した。
歩道は御影石で舗装し、柔らかな曲線を取り入れ、バルコニー的空間は、橋上を散策する人々の憩いの場所になっている。


















犀川の両側にある「犀星のみち」との調和を意識して、ガス燈をイメージしたレトロな照明や両側の橋の柵もライトアップされる。