2024年9月22日日曜日

歴史博物館 石川県鳥瞰図(2)能登方面 吉田初三郎

 歴史博物館 石川県鳥瞰図(1)の続きで、前回は「加賀地区」を見てきたので、今回は「能登地区」を見る。下図は羽咋から先に電車が走っており、私も学生時代に三明まで電車に乗り、その先はバスで「巌門」まで行ったのが懐かしい。柴垣海岸にもよく行ったし、「気多大社」や国宝にしたい「妙成寺」もこの近くにある。



















七尾湾には「能登島」があり、今は二つの大きな橋が架かっているが、この時は船で行くしかなかった。藩政期には、罪人をこの島に流したこともある所である。この絵図では見えないが、描かれたのは軍国時代だから「七尾港」近くには軍艦と思われる黒い船が何隻か描かれていた。



















七尾湾の向こうには「佐渡島」さらに東北、北海道、樺太まで描かれている。実際には全く見えるはずがないが、鳥瞰図では方向的にずっと先に行くとあるはずということで描かれているのが面白い。


















今回の能登地震で被害を受けた「輪島の町」や門前の「総持寺」などがまだ立派な状態で描かれている。


















外浦には大きな「塩田」と描かれているが、その頃はこの辺りには海水をばらまいて作る多くの「塩田」があったのであろうか?奥能登の「禄剛埼」灯台の向こうには朝鮮半島の町が描かれているのか?内浦の先端には「蛸島」の名前が見える。昭和40,50年代にはここまで「奥能登線」が走っていた。この辺りも今回の「能登大地震」で大きな被害を受けたところである。あの美しい風景はどうなっているのだろうか?


















その手前には「宇出津」や「鵜川」などの漁港の名前が見える。「九十九湾」は、島々の間を遊覧船が走っているのは現在もそうであろうか?



















吉田初三郎(1844~1955)は、大正中期から昭和20年代の30年間にわたって、1600枚を超える鳥瞰図を描いた人物である。最近は吉田初三郎に関する展覧会が数多く開催されている。アカデミックな画壇の外で活躍した人物であったが、これほどまでにとりあげられるようになったのは稀であるが、また当然でもあるようである。
























吉田初三郎の鳥瞰図の工程は、①実地踏査写生②構想の苦心③下図の苦心④着色⑤装幀、編輯⑥印刷の6段階からなるという。①実地踏査写生については、自身の鳥瞰図が「手で描くのではなく足で描き、頭で描く絵」であり自らを「労働画家」と呼んでいる。画室にこもっての制作活動は4月と9月だけで、それ以外は現地の写生がほとんどだったのだろう。
画室で執筆する吉田初三郎
























下図は初三郎が描いた「乃木神社」と「春日大社」であるが、これらの多くの名所旧跡は人が見た高さで書いているが、これらもうまく鳥瞰図の中に使われている。
























私が九州へドライブに行った時に見た「高千穂峡」は非常に印象に残っている場所であるが、ここも初三郎はすばらしい鳥瞰図を残している。
















この頃はちょうど「石版印刷」から「オフセット印刷」移行する時代で、大量生産も行われるようになった。