今回は、金沢大学中央図書館へ金沢城の中にあったころのことを調べようとして行った。
この建物の中に「資料室」があり、金沢大学の前身の学校の資料などが置かれていたので紹介する。
資料室に入るとまず目に入ったのが、「明倫堂」と「経武館」の扁額である。
加賀藩の藩校は、1792(寛政4)年に加賀藩11代藩主治脩によって創設された。朱子学を中心に、和学、漢学、漢医学、算術、歴史、天文学などを学ぶ文学校であった。この扁額は、初代学頭の「新井白蛾」の揮毫によるもので、額面は欅一枚板で造られ、文字の輪郭を片切彫にして文字面を浮き彫りにし、金箔を押した造りである。1871(明治4)年の廃藩置県により、藩校は廃止されたが、その後1936(昭和11)年石川県師範学校の講堂に掲げられ、金沢大学に引き継がれたものである。現存する全国の藩校の扁額としては最大級のものであり、金沢市有形文化財になっている。
同じ11代の藩主治脩によって創設によって「経武館」は、馬術、槍術、剣術、柔術などを学ぶ武学校であった。この扁額は「前田土佐の守直方」の揮毫によるもので、「明倫堂」の扁額と同じ造りである。「経武館」は、1868(明治元)年に同じく藩校であった洋学校「壮猶館」に合併された。その後、扁額は1936(昭和11)年石川県師範学校の講堂に掲げられ、金沢大学に引き継がれたものである。
「至誠」扁額の書は、1901(明治34)年に元帥小松宮彰仁親王が日本赤十字社総会に臨席するために来県した際に、時の第四高等学校校長北条時敬が講堂に掲げる扁額の染筆を願い出、下賜されたものである。小松宮は皇族軍人で、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争などのそれぞれ要職を担って出征している。
四高ではこれを額装して講堂の掲げ、以後その講堂を「至誠堂」と称した。至誠堂は1893(明治26)年に落成したが、現存せずこの扁額だけが歴史を語り継いでいる。
当時の講堂「至誠堂」の写真
この「金沢高等工業学校」は、1923(大正12)年に校舎が完成したが、その講堂に掲げられていたシャンデリアである。シャンデリア本体は真鍮製、塗料は漆であろうという。電線は火屋(シャンデリアの灯を覆うガラス部分)を吊り下げる環の中に入っている。右のちょっと写っている木製額の説明文は、当時の工学部長によるものという。
大正時代には、現在のようにマルチメディアが普及していなく、教室にはモノの教材が多く置かれていた。「金沢高等工業学校」では、精緻な立体模型や輸入品などの工学機器があり、その構造や意匠の基礎を学ぶために実験、実習に用いられた。
島津製作所製造の橋梁模型「下路アーチ橋」は、大阪にある木津川かかっていた「旧大正橋」がモデルという。