前回の13代藩主の能登巡見巡り(11)石動山①は、石動山の歴史について紹介したが、今回は、資料館で見た「仏像」やその他の展示物について紹介する。また、昭和53年に国の史跡指定されて以来、石動山の整備がなされてきたが、その様子について説明する。
江戸時代後期の「木造毘沙門天立像」と「虚空蔵菩薩像」(石動山天平寺蔵)
前田利家寄進の「木造十一面観音像」
上記の4つの像は2007年の能登地震により破損したが、その後修復されたもの
「大宮坊」の入口で、この「大宮坊」は石動山の中心的な坊で、最盛期(中世)には360余坊、江戸時代には58坊すべてを支配した別当寺(寺務を取り仕切る本坊)として最も高い格式と権威を有していたという。ここでは、一山の支配・運営、加賀藩や京都の本山との交渉、年中行事などのぼうだいな寺務が処理されていた。
鳥居をくぐると拝殿があり、もとは権現堂と呼ばれ、1701(元禄14)年に建立され、五社権現の5つの神興が安置されていた。
その背後には、明治の初め石動山山頂の大御前にあった本社(大宮・白山宮)を移築した本殿がある。大宮、白山宮、梅宮、火宮、剣宮に祀られていた五社権現を合祀したものである。本殿は1653(承応2)年に前田利常の寄進で建立されたものである。
「多宝塔跡」
「梅の宮跡」は五社権現のひとつで、鎮定大権現と称し祭神を天目一箇命、本地仏を勝軍地蔵菩薩としている。1674(延宝2)年に再建されたもので一辺11m、高さ1mの正面を石積みした基壇に整然と礎石が配されている。
「自然人」より