3月15日に更新したブログの13代藩主の能登巡見巡り(8)喜多家③の続きで、その後同じ宝達志水町にある「岡部家」に行った。
13代藩主斉泰は、能登巡見巡り25日間の23日目に「荻谷村」今の「宝達志水町」にある「岡部家」に宿泊している。すなわち「喜多家」に宿泊する前日に宿泊している。
「岡部家」の敷地は2万坪あり、荻谷集落のほぼ中央で、山を背にして建物が配置され、主屋正面は西に約40度振って南面する。建物は自家山林から取り出した木材を使っており、この期間を含めると7年の歳月を要したと伝えられている。用材の配置については、東側の部位は東側の山の木、西側の部位には西側の山の木と、四方位の区分まで考慮した建物であるという。
ここの門を見ると、周辺の農家と違っていかにも格式高い家柄であることが分かる。板塀の上に四角の抜穴を持った土壁、下方は石垣が積まれて、瓦屋根で、大正時代に修理されたと聞いた。
瓦屋根に目立つ五福神が載っていて、柔和な表情を覗わせる。
「岡部家」は、一の谷の戦いで功績をあげた鎌倉幕府の御家人で、義経の北國落ちを聞き、この地に下ったという岡部六弥太忠澄を祖とするといわれ、「口郡十村土筆」や「喜多家文書目録」、岡部文書の「先祖由緒書上申書」(寛政4年:1792)などによれば、5代長右衛門は1694(元禄7)年に、12代七左右衛門は1819(文政7)年にそれぞれ十村役を仰せ付けられている。
入母屋造、平入、茅葺の現在の主屋は、1732(享保17)年、鳥屋町良川の大工ら6人が5年がかりで施工、1736(元文元)年に完成した。玄関は、大式台、式台、大戸と三つある。立派な茅葺屋根で、裾は瓦屋根なっており、先端には巴紋が入っている。
主屋の平面図
主屋の左端にある「大戸」から入ると、家族団らんの間だった広い「台所」の中央に囲炉裏と自在鉤がある。壁や天井は煙で黒々していぶされていて、質素な暮らしぶりが覗えるという。
「大戸」の横には、「裁きの間」という部屋がある。農民たちのいさかいなどに断を下した裁きをした所であろうか。
上方を見ると黒ずんだ左右交互の梁の上に簀の子が貼られていて、天井板がない。囲炉裏で薪を燃やした煙により燻すことにより、この茅葺きを守っているという。