2024年11月23日土曜日

愛本刎橋(1)

 今回は、宇奈月温泉から黒部のトロッコ鉄道に乗り、渓谷と紅葉を見たいと思い出かけた。

その前に、宇奈月温泉の手前にある、前々から行こうと思っていた「愛本刎橋」の関連展示がなされているということで「黒部歴史民俗資料館」に行った。












加賀藩の参勤交代は、1635(寛永12)~1862(文久2)年の227年間に合計190回行われた。北國街道の下街道ルートは、金沢城から越中、越後の日本海側を通って、高田、善光寺、中山道の追分からは、中山道を通って板橋にいたった。計181回利用された。
この街道で一番難所であった越中の黒部川は48ヵ所の流れがあり、大雨になるとたびたび氾濫し、海のようになり、街道歩行不能となっていた。そこで5代藩主前田綱紀は、扇状地の上流の川幅の狭いところの愛本に大橋を作り「愛本橋」と称した。下図のオレンジ○の場所が小さな村が所々ある従来の街道で赤○の位置が「愛本橋」である。


















この橋は、黒部川が急流なため川の中に支柱が立てられず、両側から刎木を出して橋を支えるようにした。下図は明治時代の最後の「愛本刎橋」


















日本の三奇矯といわれた「愛本刎橋」の他は、現存する「襟帯橋」と山梨県にある「猿橋」である。
「錦帯橋」                 











                






「猿橋」
























「猿橋」に比べ「愛本刎橋」は橋の長さが2倍以上で、それだけ架けるには困難を極めたという。

館内に入るとまず目についたのが木造刎橋の模型で、1841(天保12)年の「越中新川郡愛本橋百分一之図」だは、長さが63.5mとあり、これをもとに縮尺2分1の刎橋を復元したものだ。その木組構造が一目で分かるようになっている。


















すぐに館内の係員からゴーグルをつけて、中に映っている映像(タイトル「よみがえる愛本刎橋」)を見るよう言われた。すると江戸時代の「愛本刎橋」が、あたかも実物を見ているかの様の見え、橋の真ん中から後ろを見ると橋の後ろが見え、ぐるりと360°の映像が見える、素晴らしいものであった。
これらの3DCB(3次元コンピュータグラフィック)やVR(バーチャルリアリティー)などの技術を利用した映像が見られるようになったのは今年になってからだそうだ。

この愛本刎橋は江戸時代には、20~30年ごとに8回架けなおされている。



















1891(明治27)年に架橋された愛本橋は、西欧の近代技術も生かされ富山県の事業として行われた。橋の設計者は富山県技師の高田雪太郎で木造のアーチ橋であった。
















現在の橋は、元の入りから60m下流に鋼ニールセロン系ローゼ桁橋で架けられているおり、昭和47年に竣工した。橋の長さは130mという。































江戸時代に旅をする人は限られたいて、武士、僧侶、学者、文人などが中心で、北陸道を通ったそれらの人たちは、愛本の渓谷美や豪壮な刎橋に感嘆し、多くの文章が残っている。
この石碑は幕末の尊王攘夷論者の頼 三樹三郎が1848(嘉永元)年に詠んだ句であるという。
「百畳の飛橋 はるか空に架す」など