1467年に応仁の乱が始まり、全国に戦乱が繰り広げられた。また、1471年には蓮
如上人が吉崎に来て布教し浄土真宗が北陸に急速に広まった。
このころに、富樫家の内紛が起こり、越前から加賀に広まりつつあった真宗高田派と本願
寺派が激しく対立し、応仁の乱の西軍に属する守護の幸千代につながりました。また、蓮
如と本願寺派は東軍なった正親と結び、富樫家とすれば兄弟の戦いが始まり本願寺派が勝
った。これを文明の一揆と呼ばれている。この戦いを通して石川や河北郡など本願寺門徒
は「群」と呼ぶ一揆を成立させた。
父の富樫泰高を大将に担ぎ上げ、政親に対抗した。正親は急遽帰国し、高尾城に籠った。
(長享の一揆)
この図が一向一揆が高尾城を攻めている様子です。この絵図はいつ描かれたものかわかり
ません
寺派が激しく対立し、応仁の乱の西軍に属する守護の幸千代につながりました。また、蓮
如と本願寺派は東軍なった正親と結び、富樫家とすれば兄弟の戦いが始まり本願寺派が勝
った。これを文明の一揆と呼ばれている。この戦いを通して石川や河北郡など本願寺門徒
は「群」と呼ぶ一揆を成立させた。
守護に復帰した正親と本願寺門徒の一部が抗争を起こすと、蓮如は責任を負って吉崎を退
去した。その後も、一向一揆は戦いによって次第に強力化し、正親は守護の権力を回復す
るために、将軍足利氏の援助を得るために上洛し、過大な軍事費を使った。
過大な軍事費を負わされた加賀の民衆は、一向一揆を中心に白山宮などと手を結び、大叔父の富樫泰高を大将に担ぎ上げ、政親に対抗した。正親は急遽帰国し、高尾城に籠った。
(長享の一揆)
この図が一向一揆が高尾城を攻めている様子です。この絵図はいつ描かれたものかわかり
ません
しかし1488年6月に高尾城は落城し、正親は自害した。その後、富樫泰高が一時守護
職を継いだが、実権は一向一揆がもち、富樫氏の勢力は衰え、これ以後、全国的にも珍し
い加賀の国は「百姓の持ちたる国」に100年近く続くこととなった。一方、1570
(元亀元)年に守護富樫春貞が金沢市の伝燈寺で一向一揆門徒に討死され、富樫氏は完全
に滅亡した。
職を継いだが、実権は一向一揆がもち、富樫氏の勢力は衰え、これ以後、全国的にも珍し
い加賀の国は「百姓の持ちたる国」に100年近く続くこととなった。一方、1570
(元亀元)年に守護富樫春貞が金沢市の伝燈寺で一向一揆門徒に討死され、富樫氏は完全
に滅亡した。