城下町としての角館は、もとは戸沢盛安(とざわもりやす)によって作られた。のちに常陸へ国替えとなった戸沢氏に替わり、佐竹義宣の弟である芦名義勝が角館に入り、元和6年
に新城下町を整えた。芦名家は三代51年で断絶、以降、佐竹北家により支配された。
城下町は「火除け」と呼ばれる広場を中心に、北は内町と呼んで武士が住み、南は外町と呼び町人が住んでいたという。
金沢の武家屋敷は土塀であるが、角館は黒板塀が並んでいて、雰囲気が随分違う。塀が高いほど身分も高かったのは同じであるが、金沢長町の通りは、藩政期のままの細い道だが、ここは結構広い通りに並んでいる。
武家屋敷を利用して、お土産屋、食事処もたくさん並んでおり、金沢長町よりも武家屋敷としては残っているところが地域が広い。
緑の木々に覆われた重厚な薬医門と黒板塀のある佐竹北家に仕え、財政を担当する勘定役を務めた石黒家に入った。
屋敷から外を眺めらるように「のぞき窓」が黒板塀にある。屋根は茅葺で、起こり破風に懸魚が付いた正玄関と脇玄関があり、二つの玄関を持つ身分の高い武家だった。これは、本来の玄関の他に、当主より目上の方の出入りに使う特別な玄関もあるという。
続いて、その隣にある武家屋敷「青柳家」に入った。ここも芦名家、佐竹北家に仕えた家柄で、代々の役職は納戸役を多く務めたという。母屋は約200年前の建築のままに、厄除けの意味を込めた鬼板や懸魚など意匠をこらした玄関があり、雪国特有の廻り縁など、武家らしい威厳がある。
座敷には武家の部屋らしい床の間、違い棚があり、板欄間には家紋の透かし彫りなどがある。現存する角館のなかでも最も豪華な座敷だという。
敷地は3,000坪あり、広い庭には、600種類物花や木が四季折々の風情を見せてくれるいう。
その庭には、今は使っていないが古井戸があった。
また、兼六園で見る「寄石灯篭」に似た大きな「おばけ灯篭」があった。
料理を準備するための部屋であろうか?
また、角館の武士であるが、日本で最初の本格的な西洋医学の翻訳書として刊行された「解体新書」の挿絵を描いたのが青柳家の親戚にあたる「小田野直武」の銅像が置かれていた。この人の絵がなければ「解体新書」は理解しづらく発行されなかっただろう。
「解体新書記念館」には、直武の偉業や「解体新書」の附図などが展示されていたが、非常に緻密に描かれたことが分かった。