2025年1月3日金曜日

湯涌温泉(2)旧江戸村 温泉街①

 湯涌温泉(1)玉泉湖 白雲楼ホテル跡の続きで、「白雲楼ホテル跡」があった近くの高台から「湯涌温泉街」が見える。
































前回の案内板から「中の園地」の奥に「北の園地」の広い芝生地があるということだが、ここには、昔「旧江戸村」があったと所だろう。この「旧江戸村」も私が学生の頃に来ているはずだが、あまり覚えていない。
それで、ここにあった「旧江戸村」についての資料を探してみた。
江戸時代は、日本の封建制がもっとも強化された時代で、徳川幕府の下に大名が全国を支配した。政治上は武士が握っていたが、町民文化や学問・科学も発達し庶民文化の花開いた時期である。そして加賀藩百万石は江戸時代の最大の大藩であっただけでなく、加賀能登越中に広がった文化や生活は、江戸(東京)と並んでこの時代を代表するものであった。江戸村はこうした江戸時代のいろいろな歴史的建造物などを収集し、広く一般に公開して文化の向上に寄与するものとして作られたものである。
下図は、当時の「江戸村」の配置図である。
「白雲楼ホテル」のさらに奥に位置し、先ず「江戸村休憩館」(配置図の橙○)で、ここだけは入ったことを覚えている。ここにあった自動販売機で飲み物買って一服した。この建物は。レンガ造りで、元長町にあった「金沢製糸場」の建物であったと後から聞いた。



























(赤○)は「総門」で、江戸村の正面に立つ。この門は、鎌倉の名刹建長寺の塔頭正統院の山門として建っていたが、関東大震災で破棄寸前になり、故桜井兵五郎氏によって保存され、江戸村開村とともに移築された。






















曹洞宗康楽寺(緑○)は、加賀藩横山家の別邸であるが、この建物はビルマ渡来の仏舎利を祀る康楽寺の仮殿として移築された。玄関と仏間が改造されたが、その他は横山家の分家の屋敷の遺構をとどめていた。横山隆平が尾古屋鉱山で繁栄を誇っていたころの屋敷で高岡町にあったらしい。幕末から明治にかけて加賀藩きっての名工とうたわれた山川孝次のつくった釘隠しや襖に引手などもあったという。ここには横山家の当主が使用した武具や家具なども展示されていた。















この建物の中にあったすばらしい「座敷」が、その後、山中温泉の「こおろぎ橋」付近にある「無限庵」に移築されたと聞いている。


この長屋門(空○)は、加賀藩本多家の家老林家の長屋門と土塀である。禄高は300石で、加賀藩の平士級の表門として当時の姿を残している。














下図は重要文化財「本陣・人馬継立問屋」(青○)で、福井県南条町鯖波にあった「石倉家」の屋敷で、代々庄屋を務めている家柄であったが、加賀藩の本陣としても重要な地位にあった。加賀藩歴代藩主が上屋敷を通って江戸へ参勤するとき、あるいは京都へあがるとき、必ずここに泊まったという。






















下図はアドレナリンやタカジアスターゼを発見した高峰譲吉が少年時代を過ごした建物の一部だという。(紫○)譲吉の父の精一は百石十人扶持の御曲医であったが、石屋小路から梅本町(現大手町)にあった重臣の前田長種家の一部を譲り受けて、門を建てて塀を巡らせて住んだ。江戸村に移された部分は、高峰家の書斎と茶室に使用していたものである。















下図は、江戸期の本百姓の住家であるが、当時のほとんどの農家は貧しく、入口あるいは土間と奥のとの境をむしろで仕切り、土間に直接むしろ・もみ殻を敷いて寝起きし、家財道具も釜、鍋、碗などの他は何もなかったのと比べると、堂々とし建物である。















次に下に降りて温泉街を少し歩いた。


















この途中にあったカフェで一服した。
店内に入りこの辺りの様子をいろいろ聞きたいと思っていたが、常連客の人がずっと話をしていたので残念ながら聞くことはできなかった。


















店内にはピアノやギターが置かれていたが、時々コンサートをするらしい。コンサートがある時にまた来たみたい。