吉崎御坊跡(1)歴史 西別院の続きで、その後、一度下に降りて隣の真宗大谷派吉崎東別院の方に行った。
こちらの山門をくぐると、右手には太鼓堂、宝物館、鐘楼などの建物が並んでいる。中でも「太鼓堂」は背が高く、名古屋城の櫓と同形式の建て方で威容を誇り、現在の建物の中でもシンボル的存在である。
その近くには、小さなお堂があり中には「蓮如上人像」が安置されていた。
西別院と東別院の間には細い階段があり、嫁おどし伝説が残る「願慶寺」へ上る階段である。
「願慶寺」は真宗大谷派寺院で、1471(文明3)年に蓮如上人が吉崎道場(坊舎)創建の際、和田重衛が吉崎三十人衆共々、蓮如の弟子となり、願慶寺の初代となり、蓮如吉崎退去後は、「道場」として、道場跡を護持する。1721(享保6)年に願慶寺本堂を本山御坊とし「吉崎願慶寺」と称する。現在は山門と本堂からなる。
細呂木の坂口村に住む百姓与惣次夫婦の仲が良く、蓮如に帰依し、毎夜、吉崎詣りに通っていた。それを見た姑がねたみ、ある夜嫁一人が参詣に行くのを見届けて、その帰り道に暗い竹藪の中で待ち伏せ、鬼の面をかぶって驚かせた。信心深い嫁は、少しも驚かなかった。当ての外れた老婆は面をとり、帰ろうとしたが、面が顔にくっつき、どうしても外せなかった。
困り果てた老婆は、蓮如の教化を受けて懺悔すと、ようやく面が前に落ちた。その後は姑嫁共々吉崎に参詣したという。
この伝説は、江戸時代に「雪国嫁威谷(ゆきのなところよめおどしだに)」という題で文楽や歌舞伎となって、多くの人たちを楽しませたのだろう。