2015年2月12日木曜日

石川近代文学館 島田清次郎

今回は、広阪にある洒落たレンガ造りの旧四高の建物の中にある「近代文学館」に行った。




















建物の中の左半分は「旧四高記念館」になっており、以前に中に入り、このブログでも紹介しているが、今回は右側は半分の「石川近代文学館」の方に入った。




















通常展示されている三文豪をはじめ石川県関係の文学作家については後日、紹介するとして、今回の特別展示として「彷徨の作家 島田清次郎」が開催されていた。私が特に興味のある作家の一人であったので、詳しく知りたいと思ってきた。




















この日は私しかお客さんがいなく、「少し詳しく知りたい」と受付で言ったら、学芸員の人が来て「マンツーマン」で説明を受けた。
島田清次郎は石川県の美川の廻船問屋の家で生まれたが、2歳の時に父が亡くなり、母と一緒に祖父が経営している西茶屋街の「吉米楼」の2階に住むようになった。














島田清次郎が住んでいた「吉米楼」は現在の「西茶屋資料館」となっている




金沢商業時代には、弁論大会では学校の体制を批判し退学されているが、その頃、友人からドストエフスキーの小説を勧められ、これをきっかけに小説家になることを志す。
そして、若干20歳で評論家の生田長江に認められ、新潮社より「地上」を出版すると、忽ち30万部が売れるという当時の大ベストセラーとなった。そして、この小説は、特に若い世代に読まれたという。
「地上」は島田清次郎本人の分身の「大河平一郎」が主人公で、地上から「貧乏」という悪を一掃するために、自ら政治家になりたいという考えと、また一方、彼の少年時代の恋の破綻も描かれた青春小説として、大正時代の代表傑作であるという。
また、当時暮らしていた「西茶屋街」の様子も詳細に描かれ、郭小説の先駆をなすものであるという。














西茶屋街入り口にある石碑





時代の寵児となった清次郎は若い女性からもファンレターが多くきたり、欧米へ視察旅行に行ったりなど、有頂天になり、傲慢になっていた。そんな中で、彼のファンであった父が金沢出身の軍人少将の令嬢とのスキャンダルに遭うことになった。
彼は少年時代に「にしの郭」という特殊な環境で育ったことから、女性への偏見があって、その疑われる行動と、貧乏に対する反感から政治や官僚の不満、軍人などの考えと真っ向から対立していたし、そして時代の寵児となっていた流行作家ということで、恰好のスキャンダルとして取り上げられ、世間からたたかれることとなった。
世間でもうらやむ人が何か事件を起こすと、ジャーナリストがたたき、いじめたたく風潮は今の時代でもよくあることである。
後日、少将側の告訴は無実であることが分かったが、この事件はマスコミで大きく取り上げられ、裁判で多額の弁護料の支払いも重なり、心身ともに凋落した。
以後も奇矯な行動が目立つようになり、25歳で早発性痴呆(統合失調症)と診断され精神病院に収容され、31歳の若さで肺結核により亡くなったという。


























精神病棟に入ってからのことはあまり知られていないが、ここの学芸員の話によると、そんな精神異常者が描く文章ではなかったという。あまりにも世間がたたきのめたからあろうと言っていた。




















若干20歳で時代の寵児となった人格の未熟さが命取りになったということであるが、このベストセラーの「地上」もさることながら、その31歳で亡くなるまでの、天と地の人生を味わった生き様が、人々の感動を与えているという。




















その後、七尾出身の作家の杉森久英が、この島田清次郎の人生について「天才と狂人のあいだ」という本を出して直木賞をもらっている。

昭和32年に放映された映画「地上」では金沢でロケがあり、仲の良い二人の演技が評判となった「川口浩」と「野添ひとみ」がその後結婚した。













「西茶屋資料館」より






また、昭和50年代には漫画雑誌「ジャンプ」でも題材となり、連載され多くの人の読まれし、平成に入ってからもテレビドラマにもなった。











「西茶屋資料館」より








最近の若い人は「島田清次郎」ついてあまり知らないかと思いきや、学芸員の話によるとマニアの人のなかでは評判で、「地上」や島田清次郎の人生に関しての書籍が電子書籍などでよく売れているらしい。