山中・山代温泉(1)魯山人寓居跡の続きで、ここで、無名の魯山人を育てた石川県関係の人物について紹介する。
まず「細野燕台」は、金沢に生まれ「書」に優れ茶人としても一目置かれる存在であった。
1915(大正4)年にまだ無名の魯山人(当時 福田大観)の書や篆刻を目にするとその才能を見込み、初客として迎え入れ、山代の茶人仲間である吉野家旅館当主吉野治郎に紹介し、魯山人が制作した看板を掲げるよう勧めた。
「パンフレット」より
また、燕台は山代の陶芸家「須田菁華」を紹介し、陶芸制作を習得させた。須田菁華の店は現在でも存在し、山代温泉の「総湯」近くにあり、訪れた。店前には魯山人が篆刻字で彫った「菁華」の看板が掲げられていた。店の中には須田菁華の工房で魯山人が陶芸の取得に励んでいる様子の写真が展示されていた。
「須田菁華」の店の横の通りには面白い地蔵と灯篭が並べられていた。
また「細野燕台」は、家での食事にも自作の書を絵付けした器を用い、趣向に合わせて使い分けるなどの日常生活にも細やかな美意識を持っていた。魯山人は燕台によって器と料理の関係を考えさせられた。
さらにもう一人忘れてならないのが、現在の東山にある高級料亭「山の尾」の主人太田佐吉である。
佐吉は茶懐石や書画骨董にたけていて、燕台は佐吉と親しかったことから魯山人を紹介した。魯山人は加賀料理や懐石料理を佐吉から学び、そして器に食の盛り付けなどを学んだことが、後の美食家としての魯山人を作ったと言っても過言ではない。
上記をきっかけとして魯山人は東京で会員制の「美食倶楽部」を作り腕をふるった後、関東大震災後に超高級料亭「星丘茶寮」を作ったことは非常に有名である。
大正14年ころの「星丘茶寮全景」
国会議事堂が山王の森の梢を隔てて見える。東京都麴町区永田町の日枝神社界隈にあった。
写真の赤い矢印が星丘茶寮
「魯山人」より
星丘茶寮の玄関
北大路魯山人が作った陶器と食
「魯山人」より