2024年9月28日土曜日

山中・山代温泉(1)魯山人寓居跡

 今回は、北陸特約キャンペーンの石川版が期限付きであったので、それを利用して「山中温泉」に泊まることにした。それで1日目は「山代温泉」でまだ行っていない所へ行くことにした。

以前から「北大路魯山人」という人に興味があったので、魯山人が「山代温泉」に一時滞在していた時の住処だったという「いろは草庵」(魯山人寓居跡)に訪れた。












「北大路魯山人」といえば、篆刻・画・陶芸・書・漆芸・料理人・美食家など様々な顔をもつ総合商社マンである。金沢や山代で技術を磨き、東京赤坂に高級料亭「星丘茶寮」を作ったことで有名である。

























「いろは草庵」の配置図





































こちらは、魯山人がいたころの屋敷そのままで「吉野屋旅館」の主人「吉野治郎」が趣味のために建てた別邸で、旦那衆が集まって茶会などが開かれていた。































ロビー・展示室


















魯山人短冊の複製が展示されていた
「春来〇自生」という言葉を魯山人が好んでいたが、短冊には巌の画が描かれおり、この言葉が代用している。


















自在鉤の架かった『囲炉裏」のある部屋から見た魯山人の寓居跡
























部屋に入ると山代温泉に来て最初に魯山人が彫ったという「吉野家旅館」の刻字看板のレプリカが展示されていた。


















床の間と障子戸の前に板の上に古い本がたくさん載っていたが、魯山人の愛読書か?


















このテーブルで「書」などいろいろな仕事をしていたのだろう。


















次回に紹介する「細野燕台」や「須田華」や山代温泉の旦那衆を集めて茶会などを開き、この別荘は文化サロンとして使われたのであろう。





























2024年9月22日日曜日

歴史博物館 石川県鳥瞰図(2)能登方面 吉田初三郎

 歴史博物館 石川県鳥瞰図(1)の続きで、前回は「加賀地区」を見てきたので、今回は「能登地区」を見る。下図は羽咋から先に電車が走っており、私も学生時代に三明まで電車に乗り、その先はバスで「巌門」まで行ったのが懐かしい。柴垣海岸にもよく行ったし、「気多大社」や国宝にしたい「妙成寺」もこの近くにある。



















七尾湾には「能登島」があり、今は二つの大きな橋が架かっているが、この時は船で行くしかなかった。藩政期には、罪人をこの島に流したこともある所である。この絵図では見えないが、描かれたのは軍国時代だから「七尾港」近くには軍艦と思われる黒い船が何隻か描かれていた。



















七尾湾の向こうには「佐渡島」さらに東北、北海道、樺太まで描かれている。実際には全く見えるはずがないが、鳥瞰図では方向的にずっと先に行くとあるはずということで描かれているのが面白い。


















今回の能登地震で被害を受けた「輪島の町」や門前の「総持寺」などがまだ立派な状態で描かれている。


















外浦には大きな「塩田」と描かれているが、その頃はこの辺りには海水をばらまいて作る多くの「塩田」があったのであろうか?奥能登の「禄剛埼」灯台の向こうには朝鮮半島の町が描かれているのか?内浦の先端には「蛸島」の名前が見える。昭和40,50年代にはここまで「奥能登線」が走っていた。この辺りも今回の「能登大地震」で大きな被害を受けたところである。あの美しい風景はどうなっているのだろうか?


















その手前には「宇出津」や「鵜川」などの漁港の名前が見える。「九十九湾」は、島々の間を遊覧船が走っているのは現在もそうであろうか?



















吉田初三郎(1844~1955)は、大正中期から昭和20年代の30年間にわたって、1600枚を超える鳥瞰図を描いた人物である。最近は吉田初三郎に関する展覧会が数多く開催されている。アカデミックな画壇の外で活躍した人物であったが、これほどまでにとりあげられるようになったのは稀であるが、また当然でもあるようである。
























吉田初三郎の鳥瞰図の工程は、①実地踏査写生②構想の苦心③下図の苦心④着色⑤装幀、編輯⑥印刷の6段階からなるという。①実地踏査写生については、自身の鳥瞰図が「手で描くのではなく足で描き、頭で描く絵」であり自らを「労働画家」と呼んでいる。画室にこもっての制作活動は4月と9月だけで、それ以外は現地の写生がほとんどだったのだろう。
画室で執筆する吉田初三郎
























下図は初三郎が描いた「乃木神社」と「春日大社」であるが、これらの多くの名所旧跡は人が見た高さで書いているが、これらもうまく鳥瞰図の中に使われている。
























私が九州へドライブに行った時に見た「高千穂峡」は非常に印象に残っている場所であるが、ここも初三郎はすばらしい鳥瞰図を残している。
















この頃はちょうど「石版印刷」から「オフセット印刷」移行する時代で、大量生産も行われるようになった。



2024年9月19日木曜日

歴史博物館 石川県鳥瞰図(1)加賀方面

 今回は、石川県立歴史博物館のレンガ造りの建物が3棟建っているが、そのうちの2棟の建物の内部の手前側にある「石川県鳥瞰図」が掲げられている.














この絵図は1931(昭和6)年に石川県の名勝・温泉などを入れた鳥瞰図を書くために名古屋市の「吉田初三郎」は、吉田の弟子や関連の人たちが県内各地に出向き写生を行った。それぞれの弟子たちが、自分の担当の枠の中で名所や沿線描写し、それぞれを温泉地や観光地の評価に伴い注文主の意向を画面に反映することになった。

それをもとに描かれたのが「石川県鳥瞰図」である。

現物の「石川県鳥瞰図」は縦71㎝、横327cmの大きさで、長い間旧石川県庁(現しいのき迎賓館)の知事室前の壁面に飾られていた。新県庁の移転の伴いこの場所に保管されていたが、2015(平成27)年リニューアルオープンの時に、この場所に複製写真を展示することになった。



















下図は1932(昭和7)年頃の金沢市内の鳥瞰図で、ちょうどその頃に金沢で「産業と観光の大博覧会」があった。この博覧会では、宣伝・広告のあり方が重要なテーマで、その目玉として注目されたのが吉田初三郎の鳥瞰図であったという。

戦前の金沢市内の様子がよくわかる。寺町には「野村練兵場」、本多町には泉が丘高校の前身「第一中学校」、兼六園には「県立図書館」「商品陳列所」などが見える。金沢城跡地は「師団司令部」となっている。南町には「明治天皇行幸所跡」そして路面電車が線路が赤線で描かれている。


























下図は現在も走っている「北鉄浅野川線」で、粟崎海岸まで行っていた。そして「粟崎遊園」がその頃には開園していて掲載されている。




















こちらは今はない「北鉄金石線」で金石から先の大野まで行っていた。こちらには、やはり娯楽の伝道の「とうとう円」が描かれている。


















小立野の奥には「湯涌温泉」があり、「医王山」がそびえている。


















「北鉄石川線」の方は、今は「鶴来」までだがその頃は「白山下」まで伸びていた。私も若い時に白山へ上ったが、「白山下」まで電車で行って、そこからバスで「市ノ瀬」「別当出会」まで行きそこから登った。


















「白山」は、頂上近くは雪山となっていて「室堂」があり、いくつもの峰々や急流の川、朱色で描かれた「岩間温泉」、「中宮温泉」などが載っている。

























「小松」の町には「小松城址」、「明治天皇御在所本蓮寺」が描かれている。また近くに「粟津温泉」、「那谷寺」が載っている。
























こちらはまだその頃は栄えていた「游泉寺」や「尾古屋鉱山」などが乗っており、電車も小松の町から繋がっていた。


















以前は「湯治場」として栄えていたが、この頃は既に温泉地として栄えていた「山中温泉」、「山代温泉」が大きく描かれている。その先の山々の向こうには「福井」さらに「米原」。「大阪」、「東京」まで描かれている。



























こちらは「大聖寺の町」「片山津温泉」「橋立港」などが描かれている。そしてトンネルの先は「福井県」である。


2024年9月14日土曜日

東京 日本橋付近(3)日本橋三越本店

 東京 日本橋付近(2)日本銀行の続きで、その後近くにある「日本橋三越本店」に行った。現在の建物は、1935(昭和10)年6年の歳月を費やして増改築されたという。完成当時は「国会議事堂」、「丸ビル」に次ぐ大建築であった。

























呉服店を創業したことから始まる三越は1683(天和3)年に現在地に店を出したのが始まりという。1904(明治37)年に国内初の百貨店として誕生し、1914(大正3)年に建物が竣工し、6回の増改築を経ている。



















日本橋三越本店の正面玄関には、シンボルの2頭のライオンが、お客さんをお迎える。ライオンの背にまたがると願いが叶うという言い伝えもある。


















店内に入ると白い尖った形状がアーム状になった面白い天井が目に入ってきた。


















三越のエレベータの扉は、昔から重厚な感じで、数十年前の扉は二重になっていて内部の扉は格子状の金属が動いていたのを記憶している。


















店内の中央ホールの吹き抜け部に5階くらいの高さがあるような「天女像」がそびえている。高さが台座を入れて14m・重量6750kgで、三越の基本理念である「まごごろ」を像にしたもので三越の象徴と言われる。製作にあたったのは名匠の佐藤玄々先生で、京都の妙心寺内のアトリエで、多くのお弟子さんと「構想・下絵・原形・試作」など繰り返しながら完成までに10年かかったという。


これは欅材の木彫りを主としていて天女像は京都貴船神社山中の樹齢500年の良材を用いている。彩色は岩絵具と科学的素材を巧みに使い分け、金及び白金の載金を施している。
























こちらは木彫玉盤の上に捧げられている天花
























「天女隊」の上には輝いている文様が入ったガラスの天井がある。


















店内の一角に江戸時代に使われた立派な三越のお宝「そろばん」が展示されていた。


















こちらは三岸で売られていた大正時代のラジオや電話機





































2024年9月9日月曜日

東京 日本橋付近(2)日本銀行

 東京 日本橋付近(1)日本橋の続きで、その後、近くのレトロな建物を見た。

「三井本館」は、1929(昭和4)年には建てられた、震災後の帝都復興の旗振り役となった建物である。建物の上部の周囲には水平なコニースの下に古代ギリシア風の柱頭にコリント式の精巧な彫刻がなされている。7階には「三井記念美術館」があり、絵画・書・茶道具など収蔵品がは7000点ある。「丸山応挙」作の「雪松図屏風」や国宝茶室「如庵」も再現されている。



















通りを挟んで「日本銀行」本店の建物がある。元々この地は金貨を鋳造する金座の長を代々務めていた後藤家の屋敷のあったところで、銀座は明治政府に接収された。
この建物を設計したのは近代建築の第一人者「辰野金吾」である。1階部分は石造りだが、地震対策として2,3階部分は軽量化するため煉瓦造りとし、さらに耐震補強を施し、その上に壁面には石を張りつけてそう石造りに見えるようにしている。「辰野堅固」と言われるように重厚で堅固な造りである。




















この建物を空から見ると「円」の字に見るが、1896年の竣工当時の日本銀行券は旧字体の「圓」の表示であるから、「円」の字型の平面形状は意図したものではないという。街路樹とレトロな建物がマッチしている。


















この辺りはシンメトリーな建物であるが、窓を見てもどこまでも重厚なつくりで、いかにも銀行の建物の外観である。1974年に重要文化財に指定されている。
玄関前には物々しくガードマンが控えている。



















ペディメントの屋根の下には、中央に窓があるが奥に引っ込んでいる。また1階の窓には太い金網が付けられている。、その両側に古代ギリシアの見られる円柱の付け柱を備えているて、コリント式の柱頭飾りが付いている。


















「辰野金吾」式の銅葺きのドームが建物の中央に見える。石板はレンガの積み方同じように積まれている。出入り口の曲線部も同じようだ。

























日本銀行の向かいにあるのは「紙幣博物館」の建物で、1982(昭和57)年に日本銀行創業百年記念に開かれた博物館である。今年久しぶり新札が発行されたが、古代からの貨幣の歴史を実物・写真などを使って説明しているという。


















日本橋付近の古地図と現在地図
江戸時代からここは商人・職人の町だったことが分かる。現在でも江戸時代創業の「眼鏡屋」や「包丁などの刃物屋」などが残っていることが分かる。時間はあれば、この辺りを散歩するのも面白いだろう。