2024年8月29日木曜日

小松 粟津温泉(5)法師② 日本庭園

 小松 粟津温泉(4)法師①の続きで、館内の広い日本庭園を紹介する。

下図は「法師庭園」の配置図である。玄関から本館の建物そして客室、お風呂などの建物を通り、さらにぐるりと回れる廊下がある。その中に「法師庭園」がある。

私が70年以上前の5歳のときに幼稚園から「粟津温泉」に行ったと親から聞いたのを覚えている。その時に、仲間と一緒に長い長い廊下を走り回った記憶だけが残っているが、ひょっとしたらこの法師ではなかったかと思う。






































約400年前の江戸時代徳川家三代将軍家光の茶道師範を務めていた小堀遠州一行が粟津温泉に来られた際に法師に滞在したと伝えられている。遠州は遠州流庭園の祖としても名高く、この大名茶人によって現在の法師に庭の原形が作られたいわれている。
蓬莱思想を具現化した庭で、蓬莱山になぞられた築山があり不老長寿の願いを込めて作られた。































法師庭園内にある「延命閣」は、中は見なかったが明治時代に宮大工の手によって建てられた総欅の寝殿造りの建物である。鉄の釘は一本も使わずに組み立てており、天井は格天井で高く、障子は黒漆塗、唐紙は金箔で引手にメノウを使い、当館の特徴となっている。
「延命閣」の名称は海軍元帥伊藤祐享閣下が命名され、その書が、今でも室内に飾られている。庭園には皇室の御手植えの松もあるという。


















また、水路の擬木護岸や大型の石造物を配置する造園手法は、大正時代から昭和初期にかけての流行を取り入れたことを覗わせて、時代の特徴もこよなく取り入れている。


















豪快な石組でできた築山の上に三重塔が置かれているし、大きな石組でできた築山は兼六園でも見られない見ごたえのあるものである。
























手水鉢の前に蹲の役石が置かれている。


















まっすぐに伸びた高い大きな杉
























他にクロマツやツガノキ、シイノキ、モミノキなど多くの古木が立っている。
























大きいな藤棚があり、5月ごろにはきれいな藤が咲くのだろう。


















その藤棚の隅に曲がりくねった藤の枝がくっついていた。
























古木が根を張っている。また石組みされた低い築山の上にも古木が生えている。





































心字池の中には小さな雪灯篭が備えられている。
























こちらは大きな石組がなされた築山の一つで、大きな雪見灯篭がある。


















下の方にも雪見灯篭があり、笠の上も苔むしている。






































この心字池には多くの鯉も泳いでいる。












































宿泊部屋から見る苔むした庭に石畳と古木が見える。この庭は長い年月で悠久の歴史と長寿繁栄の願いが込められている。

2024年8月24日土曜日

小松 粟津温泉(4)法師①

 小松 粟津温泉(3)日本自動車博物館②の続きで、その後今日泊まる「法師」に行った。

ここは、約1300年前に霊峰白山開山の祖である泰澄法師が粟津温泉が開湯された際に、法師の初代が湯治宿として開業したのが始まりである。



















上の写真では写っていなく後で知ったが、法師の玄関前の車道の真ん中に「黄門杉」が立っている。加賀藩三代前田利常が小松の那谷寺を訪れた際に、粟津温泉に立ち寄って御手植えをされたもので、当時利常公は「中納言」で、江戸上屋敷の門が黄色だっため黄門様と呼ばれたことが由来である。しかし樹齢400年を超えて、次第に傾いてきて、鉄骨の支柱に支えられている。











法師に近くに粟津温泉「総湯」の建物があったが、休館日だった。




















玄関横には「足湯」があるようで、その建物には格子状の丸窓があり、屋根は「石置き屋根」で、屋根が低いので石が動かないようにするための木の柵の様子が分かる。












現在の法師の玄関は、宿札の円窓の一致から明治16年以前の建築と推測されている。玄関棟は、切妻造りの雪止めが付きの桟瓦葺きで、端が鬼瓦を備えている。2階建てで、正面2階には4か所の丸窓が配置され、さらに禅宗の影響を残したアーチ状の火灯窓が2か所配置されている。

2016年に有形文化財に指定されたという。



















玄関を入ると、広々とした空間からは、欅の梁や柱で、土壁やベンガラ壁が見え、多くの小さな和風あかりが天井から吊るされていた。



















ベンガラ壁で中央に自在鉤に吊るされた茶釜が置かれた洒落た茶室があった。



















こちらは、群青壁で床の間に立派な掛け軸や飾り棚を備えた、こちたも洒落た座敷である。
































この「魔除け瓦」は、寛政6年に越前の三国の川上清七郎に2個作らせて、以後180年屋根の上にあったもので破損により取り外し保存したという。


















下図は1857(安政3)年の頃に、41代善五郎の折に定められた「粟津八景」が描かれている。多くの宿屋や人々が歩いているのが分かる。奥に湖が見えるが「木場潟」か(?)


















茶会などの合図に用いらる「銅鑼」や試験成績書とともに紙に包まれた明治時代に開発された薬(?)、大きな古い九谷焼のお椀などが展示されていた。


















いつのころに造られたものか古い「琵琶」や法師の引札などが展示されていた。


















庭の一角に「能舞台」をあしらった場所が見えた。


















この部屋は「立礼席」といって、明治時代に外国客のために創案されたいわれており、椅子に腰かけて行う点前のことだという。赤い番傘が目印で、ここから見る庭園は、また格別だという。













2024年8月21日水曜日

観音院 四万六千日

 今回は、久しぶりに「観音院 四万六千日」の行事をやっていることを聞いたので行ってきた。旧暦7月9日にあるが、今年は8月12に開催された。

観音通りを通って奥にある階段のある「観音坂」からi行くと、既に多くに人がいて階段を上っていた。



















脇には地元の作家の「森山 啓」の作品「市之丞と青葉」の作品の一部が紹介されたいた。

手取川洪水で両親を失った貧農の娘と水夫と恋愛小説。



















急な階段なので途中の踊り場で一服した。そこには梅鉢紋が染められた幕の中に「六地蔵」が置かれたいた。


















毎年旧暦の7月9日にここの御本尊が開帳され、この日にお参りすると四万六千日分(126年)の御利益(健康成就・家内安全・商売繁盛など)があるとされ、藩政期からおこなわれている。
お寺の本堂には、緑・黄・赤・白・紫も垂れ幕が架かっていた。































拝殿前の行列にならんで、ようやくお参りすることができた。中央に「十一面観音像」が置かれており、その前ではお経が上がっていて、多くの人がお参りしていた。また、周りには「不動明王像」や「弘法大師像」、「千手観音像」、「阿弥陀如来像」、「大日如来像」など多くの仏像が並べられていたので、一つ一つの仏像の前にコインを入れ丁寧にお参りしてきた。残念ながらお寺の中はカメラ禁止だったのでその仏像は紹介できない。


















十一面観音像は鎌倉の長谷寺での像も有名で見たことがある。11面あるのは苦悩ある人々を見落とさないよう四方に目を向けているという。
























境内では、お馴染みの四万六千日と描かれたおおきな「帆布袋」が売られていた。普段でも街中で持ち歩いて人を時々見かけたことがある。


















また祈祷された新しい緑の葉をつけた「トウモロコシ」が売られていた。前回来た時は500円で売っていたのが、今回は800円になっていた。(ちなみに去年は600円だったそうだ)テントの裏には多くのトウモロコシが段ボールに入っていた。最近特に人気があって非常に多く売れている証拠だろう。「ひがし茶屋街」の店前には、このトウモロコシが多くぶら下がっている。この日の後は、青々としたトウモロコシが架かっているこだろう。


















木の板に自分の願い「身体健全」や「家内安全」、「商売繁盛」など描かれたものを選び、それに自分の名前と年齢(数え年)を書き、それが護摩木として、お寺で護摩法で焚いて諸願成就を祈念する。私も「「身体健全」を願い書いてきた。


















帰りは「松魚亭」や「六角堂」付近の高台から見えた市内の眺望。金沢城公園の「菱櫓」の屋根がわずかに見えた。


そして昔子供のころに卯辰山に行くときによく通った「帰厚坂」から降りて「天神橋」から帰った。「14代藩主前田慶寧が卯辰山開拓を行ったので、藩主の厚き徳に帰する」という意味を込めて名前が付けられた。

2024年8月16日金曜日

小松 粟津温泉(3)日本自動車博物館②

 小松 粟津温泉(2)日本自動車博物館①の続きで、展示されいぇいる懐かしい車を紹介する。外車もたくさんあったが、外車は日本車に比べて大きく重厚なという感覚である。

イギリス製ジャガーマークⅡ












アメリカ製 フォード リンカーンコンチネンタル



















ドイツ製のメルセデスベンツのオープンカー





















日本製の大型車 ニッサン セドリック(昭和43年)



















トヨタ クラウン(昭和43年)もよく見かけた。今でもトヨタ車の高級車である。


















私が20代であった昭和40年代には、かっこいいスポーツカーが各社からでていた。この赤いニッサン「フェアレディZ」は、中でも特にあこがれのスポーツカーだった。


















マツダのコスモスポーツは世界で初めてロータリーエンジンを搭載した日本のスポーツカーであった。私もロータリエンジンの車に乗ったことがあるが、普通のピストンエンジンには味わえない乗り心地であった記憶がある。燃費がどうしてもよくならなくやめたのは本当に残念である。


















日産の大型のスカイラインGTRもスポーツカータイプの車だったと記憶している。


















昭和40年、50年代には、一般の人らがよく乗っていた普通車の日産「ブルーバード」であり、これに対抗していたのがトヨタの「コロナ」である。またコンパクトカーとしては、よく見かけた「サニー」と「カローラ」である。


















昭和30年代には、軽自動車の「スバル360」や「ホンダN360]も懐かしい。


















昭和30年代には「オート三輪」も後ろに荷物を載せてよく走っていた。ハンドルは自転車のようにドライバーが両手を広げて運転していた。また、方向指示器はライトではなくバーが左右に飛び出すタイプだったのも懐かしい。(下図のものはついていないが)
























下図も昭和30年代の頃に流行った「ホンダスーパーカブ」は排気量50cc以下で、自転車感覚で乗れるバイクで、これもよく流行った。高校生の頃。友人の家に行ってよく練習した。


















エコカーということで、ハイブリッド車(HV)や電気自動車(BEV)、水素電池自動車(FCV)などの説明がなされていたが、早く開発・実施して地球環境を良くしてもらいたい。この気候変動はどうなるのか心配である。


















自動車博物館の前に出るとシニアグループの人たちがかっこいい大きなバイクでツーリングしていて、話を聞くと「東北から北陸を廻り、岡山に帰る途中だ」と言っていた。とっても楽しそうで人生を満喫しているようだ。