2025年9月5日金曜日

突然大雨の金沢城

 最近は、毎日が35度近くの猛暑で、外を歩くのも大変だが、突然の豪雨にも見舞われる。先日は金沢城に行った時に豪雨になり、これからは雲行きが怪しくなったらいつでもすぐに使える傘の用意をしなくてはならない。

まだ晴れているうちの金沢城二の丸
























ピンク・白色の「百日紅」が鮮やかに咲いていた。

































「極楽橋」前には、「金沢御堂」の案内板があった。「金沢御堂」のことはあまりよく知らないが、堀切や土塁を構えた城郭寺院であったとは知らなかった。


















金沢城は「石垣の博物館」と言われているほど様々な石積みが見られるが、特に「三十間長屋」の建物の下の「金場取残積み」の石垣は非常にきれいに見える。


















トイレに入っている間に突然豪雨が来た。ここで20~30分雨が弱まるまで待った。
























































「三十間長屋」の裏から見た玉泉院丸庭園・尾山神社方面












































雨が上がった後、じっくり「二の丸御殿」の復元工事中の様子を見ると、玄関の屋根部分の建設のためのものか、かなり高い構造物が立っていた。

2025年9月2日火曜日

志賀高原・草津温泉・善光寺(6)善光寺②

 志賀高原・草津温泉・善光寺(5)善光寺①の続きで、さらに「善光寺」内を見る。

「山門」の2階から見える建物は「大本願」で、善光寺天台宗寺院25ヵ院の本坊である。

「善光寺」に関する貴重な史料を展示する宝物館や庭が見どころだという。



















こちらからは、緑の木々に囲まれた「経蔵」や「日本忠霊殿」の三重塔が見える。さらに遠くには山並みが見える。





















「山門」の正面には「本堂」がある。
善光寺は約1400年の歴史を持つ古刹である。525年に伝来したわが国最古の仏像が拝仏派の物部氏によって捨てられたが、約100年後に信濃国司の従者の本多善光が仏像を持ち帰って祀り、その後極天皇の勅願により如来堂が建立され、善光寺が誕生したという。
善光寺創建のきっかけとなった仏像は一光三尊阿弥陀如来像といい、現在は本尊として本堂の祀られている。絶対秘仏のため開帳されず、住職ですらその姿を見ることはできない。
鎌倉時代には善光寺信仰が全国的に広まり、多くの参拝者で賑わった。そして江戸時代には、一生に一度参拝すれば極楽往生が叶と信ずる人々が善光寺に殺到。さらに本尊の分身仏が出向く出開帳が行われ、善光寺はますます加熱したという。



















善光寺信仰の熱狂ぶりは、現在も御開帳という儀式からうかがえる。御開帳とは、本尊の分身仏「前立本尊」を本尊に迎える盛大な行事で、数え年で7年に1度行われる。
本堂の前に高さ約10mの回向柱(えこうばしら)が立てられ、「善の綱」で本堂の内々陣に鎮座する前立本尊と結ばれる。回向柱に触れると、前立本尊に触れるのと同じご利益が得らるといわれている。そのため多くの参拝者が行列になって回向柱に触れようとする。

















本堂の前で、お金を入れてお参りして線香を買って火をつけて、大きな香炉の中に入れた。


































本堂の平面図で、印が「瑠璃檀」で、黄土線が回廊の道
























本堂内部は、カメラ禁止だったので雑誌から紹介する。下図の「御三卿の間」の右端の「瑠璃檀」に絶対秘仏である本尊の阿弥陀如来を安置している。私らが本堂に入った時に特別にちらっとだけ「瑠璃檀」の目の幕が開かれた。























本堂の内々陣の床下にある真っ暗な回廊を手探りで進んでいく体験ができる。回廊は真っ暗で、どんなに目を凝らしても見えないので、横の壁を伝いながらゆっくり進むしかない。下図はその入口である。十数年前に善光寺に来た時は、ここに入ったことだけが記憶に残っている。





















続いて本堂を出て「経蔵」に入った。この建物は正面、奥行きともに正方形で隅棟がすべて屋根の頂点に集まった四つ棟宝形造りで、1759(宝暦9)年に建立されて重要文化財となっている。この中の輪造を一周回すと、すべての経典を読んだと同じ功徳を得ることができるということで、みんなで回してきた。これは金沢の「西別院」や「円長寺」にもある。




















「経蔵」前にある「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれた石車を回すと、お経を唱えたのと同じ功徳が得られらるという。
























続いて三重塔の建物は礼拝堂と3階建ての霊碑堂からなり、高さは42.5m。戊辰戦争以降の240万余柱の英霊が祀られている。


2025年8月28日木曜日

志賀高原・草津温泉・善光寺(5)善光寺①

 志賀高原・草津温泉・善光寺(4)草津温泉 西の河原公園の続きで、その後、朝食をとった後、草津温泉から長野市にある「善光寺」に向かった。途中にラグビー合宿のメッカの菅平を通り、約1.5時間くらいで「善光寺」に着いた。

「善光寺」に来たのは何年ぶりだろうか忘れてしまった。そろそろ昼飯の時間になったので「信州そば」を食べたいということで、どこがよいか思っていたとこと、車を止めた駐車場の管理人が、この店がよいということを教えてくれたので、早速行くことにした。

仲見世の方は人がいっぱいだったが、教えてもらったところは仲見世の裏通りで、人が混んでいないので並ばなくてもよく、おいしくそばを食べられた。やはり「信州そば」の味は格別である。












「善光寺」の案内図を見ると、本堂や山門の前に「仲見世」やその裏に善光寺ゆかりの寺などが多くあった。























「仲見世」には、多くの立派な店が並んでいて、お土産や食事処などが並んでいる。


















珍しい「七味唐辛子」専門の店があった。


















こちらのレトロな建物は昔からある旅館であった。どちらの店も中にはレストランが併用され昼時は混んでいるようだ。
























「仲見世」の前には立派な「仁王門」がある。駐車場の関係から本堂側から入ったが、こちたが善光寺の入口となる。通りの裏には宿坊がたくさん並んでいる。


















現在の「仁王門」は大正時代に創建された。間口23m、奥行き7m、高さ14mで、屋根は銅瓦葺である。仁王像および背面の大黒天像は、近代彫刻家の巨匠の高村光雲と米原雲梅の合作だという。
































6うの迷いの世界から人々を救うという大きな「六地蔵」が置かれていた。仏教の六道(地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人間・天)を6体の地蔵菩薩が担当し、衆生の苦しみを救ってくれる尊い存在だという。


子供を守る仏としてみ信仰される「ぬれ寺蔵(延命地蔵)」は、1722(享保7)年に造立された。江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を鎮めるため、恋人の吉三郎が建てたという言い伝えがある。
























「仲見世通りを過ぎると、おおきなたえものの「山門」がある。1750(寛延3)年に建立され、2007(平成17)年に完了した修復工事により創建当時のくぬぎ葺屋根に復元された。


















山門の中には獅子に乗る文殊菩薩像を囲むように持国天・増長天・広目天・多聞天が邪気を踏みつけながら立ちはだかり四方を守護している。(カメラ禁止)


















楼上からは眺望が楽しめ、参道側には長野市街と本堂側両方の絶景が見れる。















2025年8月23日土曜日

志賀高原・草津温泉・善光寺(4)草津温泉 西の河原公園

 志賀高原・草津温泉・善光寺(3)光泉寺 旅館の続きで、次の朝、午前6時ごろに散歩に出かけた。前回、草津温泉に来た時は風が強くて途中で断念した「西の河原公園」に再度行った。



















公園に入る手前に「片岡鶴太郎 美術館」の建物があった。鶴太郎と言えばお笑いタレントとして以前はよく知られているが、画家としても才能があり、「ヨガ」に没頭していたことも有名でテレビにもよく出ていたが、最近はどうしているのだろうか?この美術館は鶴太郎の絵画か書が展示されているが、才能のある人はいろいろとできる。


















「西の河原公園」遊歩道が整備され、格好の散策場所になっており、温泉が至る所から湧き出ていて、異様な雰囲気を醸し出している。


















所々に硫気に化成された様々な形状の奇岩が乱立しおり、温泉を淀ませて湯の花を採取する小池が作られている。




















途中には多くの地蔵さんが置かれていたが、その中に「ぴんころ地蔵」という面白い地蔵さんがあり、あやかりたいと思い、丁寧にお参りしてきた。


















ベルツ博士の胸像と記念碑があった。ベルツ博士はドイツの医学者で、東京帝国大学の教授として日本に30年間滞在した。明治11年に草津温泉を訪れてから、温泉の効能と環境に魅せられ、草津を愛し、特に高温入浴法の「時間湯」は博士の温泉研究の貴重なテーマとなった。

























































木橋の向こうに積まれた石に囲まれた「不動明王像」があり、その背後には「不動滝」が見えた。


















「いづこにも湯が噴きいでて流れゐる谷間を行けば身はあたたかし」と刻まれた「斎藤茂吉」歌碑があった。
























上の方から湯の滝として流れるのが見え、滝の下の地面は緑色と両側は茶色になっていた。ここからまた下ったが、さらに奥に行くと巨大な露天風呂があるという。





































公園の途中に赤い鳥居が並ぶ「草津穴守稲荷神社」があった。
























階段を上ると小さな祠があり、赤い舞掛けをした「狛狐」が鎮座していた。この赤は鳥居とともに魔除けの意味があるという。稲荷社はもともと穀物の神様であるが、商売繁盛の神様でもある。本社は東京大田区の「羽田穴守稲荷神社」で、1907年頃、東京の山崎染物店の主人が草津の湯治に通い、病気の平癒の記念に常々信仰していた穴守稲荷をこの場所に分霊し勧請した。


















昔は西の河原公園は訪れる人も稀であったという。河原一体から温泉が湧き出しており、「鬼の茶釜」は代表的な温泉湧き口であった。湧き口は茶釜が沸騰するように異様な音を立てて湯を吹き出し、湧口に人が近づくと、足元から音がぴたりと止まる。離れるとまた音が鳴りだす不思議な湯口として怖がれた、誰ということなく「鬼の茶釜」の名が付けられた。
























こちら岩石、温泉の流れがあったところで、湯の成分によって藻のように緑色に変色している。