2025年6月22日日曜日

末森城跡(2)末森合戦と第九師団

 末森城跡(1)の続きで「末森合戦」では、他にもエピソードがある。この合戦には女性の奮闘もあった。奥村家福の妻安は、末森籠城軍の中にあって、普段の物静かさから一変して長刀を手に城内を見回り、粥や酒を配って「明日は金沢から利家公が必ず駆けてきますから、私どもはわずか一夜を守りぬけばよいのです。今宵一夜頑張ってください」と兵を鼓舞し続けたという。

















末森城が佐々成正の軍に囲まれた知らせが金沢の利家に届いた。秀吉から金沢城を動くなと足止めされていた利家は秀吉に背いて援軍に駆け付けようか迷っていた。その時、まつは「今日の出陣は前田家にとって大事な戦です。もし末森城を敵に奪われてしまったら討ち死にしてください」と決断が付かない利家を叱咤激励したということである。















末守城の戦いで利家が着用し、恩賞として奥村家福に与えたものだといわれている。末森の戦いを描いた絵の中で利家が必ずこの甲冑を着用して登場している。























現在の宝達志水町には南から「大海川」「前田川」「宝達川」「相見川」の4本の大きな河川がある。これが加賀と能登の間に立ちはだかる壁であった。橋がかかる現在と違って、川が溢れると物流や軍人はもちろん、人の往来も不可能となる。特に「宝達川」は川底が周囲より高い「天井川」であった。このことから加賀から能登に向かう人は洪水を避け、宝達山の麓まで迂回して末森城の真下を通り、能登に向かう分岐点の宿(しゅく)に出ることになった。

幕末の1854(嘉永7)年に郷土史家の森田柿園が写した「能登国末森城図」




















佐々成政に囲まれた末森城を救うため前田利家が後詰した際、桜井三郎左衛門は佐々軍の備えを避けるよう誘導し勝利に貢献した。利家は金沢へ帰途三郎左衛門宅の立ち寄りに、褒美として高松村は地子銀を免除された。この地子銀免除は明治8年の地租改正まで続いた。
桜井三郎左衛門翁像が「高松産業文化センター前」に立っている。
























先日の「金沢学」で、石川県の近代歴史学の第一人者である「本康先生」の講座を聞いたが「末森合戦の前田家」と「第九師団」について話された。
「末森合戦」は、440年前の戦いで実際に戦場で何があったのかの厳密な検証が必要であるが、この戦いで加越能の支配を固めた前田家にとっては劇的な勝利であったことは間違いないだろう。戦いの記憶は「上書き」が絶えず繰り返され、私たちが抱いている「末森合戦」のイメージは、当事者の加賀藩祖前田利家の時代から、一定に記憶が堆積し続けて、醸成された。この記憶は明治維新後にさらにベクトルを得ていったのではないか可能性があるという。
14代藩主前田慶寧は、歴史編纂事業として、金沢城内に「家禄方」をおいて史料集めに乗り出し、前田家先祖代々の偉業と臣民の功労を顕彰することにあった。
一夜で終わった「末森合戦」は「加賀百万石」の礎を築いた前田家における「関ケ原」と称されている。

前田15代当主俊嗣の命で末森合戦をテーマとした「末守赴延画巻」が描かれた。
末守城大手門での戦いの様子「末森合戦絵巻」

この「末守合戦」に新たな意義を見出したのが、陸軍であった。戦国時代の合戦を「戦史」という形で評価した。戦国合戦のイメージに強い影響を与えたのは、陸紛参謀本部がまとめた「日本戦史」だという。
「奇襲を駆使した攻撃作戦」「小兵力をもって大兵力を打ち破る」といった奇襲・奇策・新戦術こそが日本人の戦い方だという。とりわけこの「日本戦史」を踏襲したのが「日露戦争」である。ロシアと戦った陸軍は、終始兵力不足・弾薬不足に苦しんだ。「寡をもって衆をうつ」戦いこそ、日本の「戦国以来の伝統」という解釈がなされた。そもそも陸軍が「日本戦史」を編纂した目的は、ドイツ軍を範に過去の合戦を戦術教育に「教材」とする目的があった。


















ところで教材があるからには「批判的研究」もなされ、薩摩藩出身の「川上操六」は教育的価値を重んじていたため、戦国時代の合戦についても「批判的研究」に重きを置いていた。
ところが川上は病気により他界した。
代わって戦史編纂を引き継いだのが「山県有朋」を頂点とする長州閥だった。戦史編集は「批判的研究」を許さないようになる。これにより戦史での失策は覆い隠されるようになる。これがのちの日本の陸軍の伝統になっていく。


















日露戦争といえば、陸軍第九師団は、旅順・奉天の攻撃でその名をあげた部隊である。同師団は乃木希典指揮下の第3軍に編成され、旅順の総攻撃に参加、その後の満州戦線にも赴いた。
陸軍第九師団が描いた「第九師館内古戦史集録」を読み取ると、一つには「攻撃の利」があり「利家が常に攻撃を取り、以って佐々軍の弱点に乗じたるに依る」二つには、指揮官の決心は当然硬く縛るべし。「利家一度金沢を発するや、何人も言い寄ることなく、攻撃をもって終始したる決心」とある。このような文章が9項目にわたって描かれている。




















九師団戦史の評価は、その後の末守合戦の定評と一致している。
九師団は、古戦史によりながら、軍事的「教訓」や将兵にに伝えるべき「姿勢」を強調している。
近代における戦史の記述も、今日に至る「末守合戦」のイメージ(記憶)を形作った要素の一つと言えるのではないかと結論付けている。
「奇襲・奇策・新戦術」「寡をもって衆をうつ」を日本人の戦い方と位置付けた「日本戦史」の特色は軍人ばかりでなく国民にも一定の戦略戦思想」を植え付けることになった。こうした「戦史思想」の積み重ね、特に陸軍エリート層への教育効果が、太平洋戦争末期の無謀ともいえる戦略・戦術を生み、大本営発表に代表される「失敗を認めない体質」を形作ったのであろうということである。